9月12日(日)午後1時~5時
場所は
いつものところの 一階の会議室 です。
『太素』の巻21を読もうかと思っています。
「譯」の略字「訳」は,草書を楷化したものと思っていたけれど,そうでもないかも知れない。杉本つとむさんの説明では,「釋迦」を「尺迦」と書いた仏典があるそうです。シャカというのはもともと中国語ではないのですから,どちらでもよいようなものですが,「釋迦」が普通の書き方として定着して,でも「尺迦」も仏典に有るとなると,「尺迦」にも一種の権威が生まれます。そこで,他の場面での「釋」の代わりにも「尺」を用いる習慣が生れました。そしてやがて,「釋」の声符「睪」の代わりに「尺」を用いることがはじまります。「采に従い睪の声」が,「采に従い尺の声」に変わったわけです。それがさらに他の「睪」を声符とする文字にも敷延されて,「駅」とか「訳」とかいう文字が用いられるようになった。
どうしてこんなことを調べ始めたかというと,『難経集註 旧鈔本』に『皇甫子安脉訳』とか『華佗脉訳』が登場すると見て,校勘表にわざわざ慶安本は「訳」を「訣」に作るといっているからです。そもそも私には先の「訳」だという文字は「訣」に見えます。でも後の文字の右部分は,確かに「尺寸」などと書いているところの「尺」と全く同じです。でもね,「訳」なんて略字はいつころから有るんだろうか,当時は無かったんじゃないか,とね,調べ始めて,でもそれは突き止められませんでした。
で,鈔者が言偏に尺の字だと見て摸写して「訳」と書いたとして,それが「譯」の略字であることを認識してなかったとしたら,校勘ではどう処理するのが本当なんだろう。
旧鈔本の『難経集註』が届きました。
いや,「異体字や俗字が甚だ多い」です。『太素』もすごかったけれど,これもそれに劣らず夥しい,すさまじい。
例えば一難の呂註「其時自春分節後到夏至之前九十日」云々の「時」字は,左が月,右が之に見えます。さらにフリガナが有ります。だから,今は台湾の故宮博物院に蔵されて,最近まで黄龍祥さんが最善といっていた影古鈔本では「脉」に誤っています。「夏」も上半分が「丶」に省略されています。
でもね,この月に之の字,案外と由緒正しいのかも知れない。月はまあ日が筆の勢いで変形してしまったのだろうが。
「時」は『説文解字』では,「日に従い,寺の声」です。そして「寺」は「寸に従い,之の声」です。また,「時」の古文に「旹」というのが有って「之と日に従う」けれど,徐鍇の繋伝には「日に従い,之の声」なんです。寺の上部の土も,旹の上部の㞢も,之も元々の形は同じなんです。だから,「時」も「旹」も,日から構成され,之が音という点で,結局は同じなんです。で,大多数の漢字では,構成要素が上下に重なろうと,左右に並ぼうと同じなんです。だからここの日に之の字も,デタラメじゃなくて古文なのかも知れない。残念ながら,そうした実例は見つけてませんがね。
それにしても,中国の簡体字は,どうして「寸と日に従う」ことにしたんだろう。『竜龕手鏡』に載ってはいますがね,その少し前に誰かが間違っただけのこと,じゃなかろうか。
むかし,酒席で鍼灸師に向いた性格が話題になったとき,冗談めかして,でも実はかなり本気で,「偽医者になる氣慨と能力」と言ったことが有ります。で,今夕の地方新聞に,韓国の百三歳の「無免許医師」の話が載っています。東京では六月の上旬にすでに,どこかの新聞に載ったかも知れない。
「私は,懲役を受けるようなことをしていない。国家は,法律で医師免許を得たものだけから,治療を受けろというが,それなら,国家が患者の生命に責任を負ってくれるのか。私の願いは,安心して病気の治療をさせてほしいということ。」初めは生後二カ月の時に背中におったヤケドを,治してくれた母方の祖父から,背中の病気の治療法を教わったけれど,「治療法は,誰にも言ってはいけない」と口止めされた。十七、八歳ころから薬草に興味を持ち,自分で口にしたり,犬に食べさせたりしながら効能を調べた。また父の生前から交際の有った道士に可愛がられ,山に入りともに修行をし,薬草を教わった。さらに独自の修行を積み,三十年以上前から韓方医としての活動を始め,医師免許はなかったが,癌や持病に大きな効果が有った。息子さんは(ちゃんと免許を得た)韓方医となっているけれど,まだ薬の調剤方法などは教えてない。「薬は,患者の状態などを見て判断するもので,一律的に定めることができない。患者を治す調剤方法は,心から心に伝えるものだ。まだそれを伝えるだけの人物に出会っていない。」
なんだかどこかで聞いたことが有るような気がしませんか。
「医師免許が無いのに医療行為をしたとして訴え,執行猶予ながら有罪判決を下す」と,「秦の太医令の李醯は,自ら伎の扁鵲に如かざるを知り,人をしてこれを刺殺せしむ」と。同種の嫉妬のような気がします。
私自身には,残念ながら偽医者になれるような性格も能力は有りません。
※ 臨葘の人 少時より医の方術を好む
※ 葘川唐里の公孫光に師事
高后八年 臨葘元里の陽慶に師事
文帝二年 斉の文王の元年
(斉の悼恵王の孫 悼恵王は高祖の庶長子)
文帝四年 陽慶歿 淳于意三十九歳(陽慶に師事して三年余)
この年 斉の悼恵王の子のひとりが楊虚候となる
文帝八年 斉の文王 来朝(まだ病んでない?)
文帝十二年 斉の文王 来朝(まだ病んでない?)
※ 斉の文王が病んで 召されるも拘束を嫌ってのがれる
国中を遊行して数師に事える
※ 楊虚候に仕える
※ 楊虚候に従って長安に赴く(もっと前?もっと後?)
文帝十三年 罪に問われて長安に送られるも
季女の上書によって赦される
このとき 肉刑が除かれる
文帝十五年 斉の文王病死 子無く国除かる
文帝十六年 楊虚候が斉王となる(諡は孝王)
召問のことが有ったのはこれ以降のはず
(学成ってより十年所?)
景帝三年 呉楚七国の乱 斉王(孝王 在位十一年)は自殺
淳于意の手記を主な資料として,推測すればこういうことになるはず。
最も重要な師である陽慶に事えたのが三年余,その前は勿論その後にも数師に事えて研鑽を怠らなかった。それにひきかえ,弟子が淳于意に事えたのは一年余とか二年余とかである。臨葘召里の唐安に至っては,「未成」であるのに斉王の侍医になっている。淳于意は,本当はげっそりしていたのではないか。「今どきの学生は……」と慨嘆するのは,古来のことらしい。
広告を取りやめるとか,中継を中止するとか,さまざまな表彰を辞退するとか,認定を拒否するとか,それはそれぞれにそれぞれの判断が有るんだろうけど,わかっているのかね,しばらく謹慎していれば,また戻ってくるというわけにはいきませんよ。何がどうなったら,さまざまな表彰を「またいただくことにしました」なんて言うつもりなんだろう。これは,「しばらくお休み」じゃないんだよ。「これでもうお終い!」かも知れないんだよ。多分,「もうお終いにする!」ということなんだよ。
『難経』嫌いを公言しているけれど,本当は結構おもしろいんじゃないかとも思っているんです。これまでの『難経』解釈があまりに強固に積み上げられていて,息苦しいのを嫌ってきたんです。
で,これからやりたいのは,二千年の歳月をかけて堆積してきた解釈の層を丹念にはがしとり,『難経』という岩盤の最古層にたどりつくことなんです。
実は,中国の代表的な古典について,そうした試みをした書物が出ています。著者は高名な学者さんですから,代表的な解釈を基にして,その解釈が出てきた理由として,それ以前の解釈の不備が有ることを考察し,同様にして,基準として選んだ代表的な解釈をも批判しながら,原初の本意に辿り着こうとしているようです。言い換えれば,思想史的に,何時どういう必要から,どちらへ一歩を踏み出して,現在のような解釈に至ったのか,あるいは至ってしまったのか……。
私にはそんなことをする素養も腕力も有りませんから,表向きは「古来の注釈は無視する」フリをして,『難経』の経文だけを読もうとしています。実際には「バカな考え休むに似たり」ですし,オッチョコチョイな失敗は避け難いので,裏では「古来の注釈をコッソリと確認する」フリもしています。
古来の注釈にガンジガラメになるよりは,浅慮によるハチャメチャのほうが,少しだけマシじゃないかと……。まあ,オッチョコチョイな言い訳ですがね。
『太素』の新新校正の再版を,北京の銭超塵教授に送ったところ,お礼のメールが有って,その中で,最近のおもしろい論文として,『楊上善生平考据新証』を紹介されました。
実はその論文は,荒川緑氏が北里の書庫から見つけ出して,コピーを送ってくれたので,すでに読んでいます。でも,内容が内容なんでね,半信半疑でした。
簡単に言うと,西安の阿房宮の近くから出た墓誌銘の「楊上」というのが,つまり楊上善だという。諱が上,字が善だそうです。そんなバカなと思ったけれど,唐代には結構同じような例があったらしい。
楊上善は,隋の皇室と遠い遠いながらも同族らしく,だから唐の朝廷で出世するのは難しそうで,だから少年のころから道観に隠れて,学問をしていた。仏教や医学にも造詣が深い可能性があって,その点でも従来の資料と一致する。七十翁にもなってから,召し出されて皇子さまの一人に仕えた。その皇子さまというのは章懷太子・李賢のことらしい。これが「太子文学」ですね。これも墓誌にそれに相当しそうな記事がある。そのほかに墓誌では弘文館学士になり左威衛長史にもなっている。ここにおもしろい資料があって,『六道論』を撰した左衛長史兼弘文館学士の陽尚善というのがいて,『唐志』には楊上善の『六趣道』というのが著録されている。六道と六趣は同じこと。しかも仕えたという皇子さま李賢は,左武衛大将軍を兼ねていたことがあるらしい。左威衛、左衛は左武衛の誤りじゃないか。七十すぎの爺さんを武官に任用したのは,側近に地位を与える便法だったんじゃないか,というわけ。この陽尚善と墓誌の楊上と吾等が楊上善は,同一人物じゃないかといってます。
最後は,則天武后との問題で李賢は難に陥って,だからその側近,といっても学問的な立場しかなかったんでしょうが,再び宮廷を去って,九十三歳で世を逝った。
ね,おもしろすぎるでしょ。だから眉に唾だったんだけど,銭教授がわざわざ紹介してくれるところをみると,中国の学者連の間では,それなりに評価されているみたいなんです。だから紹介してみました。『中医文献雑誌』の2008年第5期に載っています。筆者は,長春の吉林大学古籍研究所・張固也さんと張世磊さん。
7月の読書会は,私の個人的な都合で,お休みとします。
8月は迷っています。
例年は,暑いからイヤだ!という理由でお休みですが,今年は間が空きすぎるかも知れない。
で,もし,やるとしても,何かリクレーション風のものになりそうです。
皆さんに個別に連絡するか,少なくともここで案内します。
古典を現代に引き込んで読む。
そうではないんです。むしろ,それが著された,まとめられた時点に立ち会って,著者あるいは編者が,何かを発見したと興奮し,何かを主張したいと考えている現場で,ちょっと待ってよ,と言ってみたいのです。
彼らは,当時の最先端の論理に基づいて説明をはかります。我々は,その説明に必ずしも納得できません。五行の相生とか相剋とかを言われて,ただちに感動できる人はいいです。そういう単純素朴な人のほうが,古典派臨床家には向いているのかも知れない。でも,私は違います。そして例えば,『素問』『霊枢』の段階に,五行説にもとづく選経、選穴なんて有ったかしら,と首を傾げる。迷信は排除したいし,誤解は是正したい。(生意気すぎるといわれそうだけれど,本当に納得するためには,そうせざるを得ない。また,玄の玄なるものの前で,ただポカンと口を開けているわけにはいきません。「無」の価値を説く書物が,伝えられて現に「有」るということにも,また必然を感じます。)
例えば,微小な針で,患部から離れたポイントに施術することで,全ての疾病の状態を改善することが,可能かも知れない,と興奮した人がいる。人間の状態の全てが,五蔵によってコントロールされているのだったら,原穴を取ってあらゆる疾病を治せるはずだ,と考えた者もいる。実際にはそうはいかないことは,当時の編者だって,実は知っていた。だから,先ず血脈を去れといったり,井滎兪経合のセットを持ち出したりする。編者にはどうも,大言壮語した後で,そっと補足修整しておくという書き方の癖が有る。
現代の素直な古典派臨床家の多くがそうであるような,陰陽五行説に則ればすなわち古典的解釈であるとか,そういうことではないと思うのです。むしろ,そういう説明が整備される前を模索しているのです。できれば,「原型探索者」(原初の可能性を探し求めて未だに彷徨っているもの)を名乗りたいのです。だから,「古典を現代的に解釈する」とか,その現代性、論理性が割合に「秀作である」とかいわれても,あんまり嬉しくもないんです。