靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

原初の姿のままに理解する

古典を現代に引き込んで読む。
そうではないんです。むしろ,それが著された,まとめられた時点に立ち会って,著者あるいは編者が,何かを発見したと興奮し,何かを主張したいと考えている現場で,ちょっと待ってよ,と言ってみたいのです。
彼らは,当時の最先端の論理に基づいて説明をはかります。我々は,その説明に必ずしも納得できません。五行の相生とか相剋とかを言われて,ただちに感動できる人はいいです。そういう単純素朴な人のほうが,古典派臨床家には向いているのかも知れない。でも,私は違います。そして例えば,『素問』『霊枢』の段階に,五行説にもとづく選経、選穴なんて有ったかしら,と首を傾げる。迷信は排除したいし,誤解は是正したい。(生意気すぎるといわれそうだけれど,本当に納得するためには,そうせざるを得ない。また,玄の玄なるものの前で,ただポカンと口を開けているわけにはいきません。「無」の価値を説く書物が,伝えられて現に「有」るということにも,また必然を感じます。)
例えば,微小な針で,患部から離れたポイントに施術することで,全ての疾病の状態を改善することが,可能かも知れない,と興奮した人がいる。人間の状態の全てが,五蔵によってコントロールされているのだったら,原穴を取ってあらゆる疾病を治せるはずだ,と考えた者もいる。実際にはそうはいかないことは,当時の編者だって,実は知っていた。だから,先ず血脈を去れといったり,井滎兪経合のセットを持ち出したりする。編者にはどうも,大言壮語した後で,そっと補足修整しておくという書き方の癖が有る。
現代の素直な古典派臨床家の多くがそうであるような,陰陽五行説に則ればすなわち古典的解釈であるとか,そういうことではないと思うのです。むしろ,そういう説明が整備される前を模索しているのです。できれば,「原型探索者」(原初の可能性を探し求めて未だに彷徨っているもの)を名乗りたいのです。だから,「古典を現代的に解釈する」とか,その現代性、論理性が割合に「秀作である」とかいわれても,あんまり嬉しくもないんです。

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