靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

五志穢神

五志穢神
杏雨書屋に蔵されている『太素』の巻21・27の翻字を出しましたが,中国にも熱心な読者がいて,新校正との比較検討を書き送ってくれました。その中に:
巻21諸原所生「猶汚也」の楊上善注「五志穢神,其猶汚也。」について,
穢,《新校正》作“藏”,核之卷影,作“藏”是。
というのが有りました。
ハア,貴方にはそう見えますか,としか言いようが無いけれど,仁和寺本『太素』に使われた「穢」には下のような例が有ります。「藏」の例を挙げないのは肩手落ちだけれど,左端の字とか右端の字とか,問題の字とそっくりじゃないですか。右から二番目が問題の字です。
いろんな穢
これはもう,文意において,どちらが良いかを判断するしか無い,かも。
中国の人が「藏」を主張するのは,脏=不潔である,汚い,を思い浮かべるからではないか。とすれば「五志が神を蔵=臓=脏するのは,汚すようなもの」と「五志が神を穢すのは,汚すようなもの」と,これは甲乙をつけがたい。
やっぱり,真物を見たことが有るという優位性を,尊重してもらうより無いかも。真物ではもっと確かに「穢」だったように記憶しているけれど,もう一度確かめに行くというのも難しいし……。

6月の読書会

 6月13日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 一階の教養娯楽室 です。

5月の読書会

 5月9日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 一階の教養娯楽室 です。

霊枢は 刺節真邪の残り と 衛気行 を読みます。
時間の余裕があれば 難経 も読むかも……。

勿論,他のところについての質問も大いに歓迎。

脈診の歴史に関わる妄想

『季刊内経』に載せた「上下か左右か-人迎寸口診に関わる妄想-」は,新年に話したときよりは,かなり整理してありますが,それでも分かりにくかろうと思うので,さらに少し整理しておきます。といっても,それでも分かりにくいでしょうが。なにせ妄想ですから。

『素問』の三部九候診は,全身に遍く存在する脈動を診て,その付近の情況を知ろうとした脈診を,九候にまで整理したものだと考えます。頭部に三候,胸部に三候,腹部に三候です。『素問』三部九候論の現状では,胸部と腹部については,手足の脈を診るようにいっています。しかし,その脈所をいう文章はもとは篇の最後に在りました。おそらくは,後からの付け足しです。新校正を読み,『太素』を検討すれば,それはわかります。手足に持ってきたのは一つの偉大な工夫ではあったかも知れません。もう一歩踏み出せば,原穴診です。
もう一つの脈診の歴史の流れに,標本脈診を想定します。『霊枢』衛気篇では,手足の端近くの起点としての本と,上部の到達点としての標を比べて,病がどんな状況であるかを知ろうとしています。それがどこに起こっているかは,どの標本で異常が起こっているかから判断できます。しかし,『霊枢』動輸篇に,休まず拍っている脈は手太陰,足少陰,足陽明とあります。拍ったり拍たなかったりでは,やっぱり脈診部位としては不十分でしょう。そこで,足少陰の脈動はさておき(附陽脈診になる),標の代表に足陽明,本の代表に手太陰を採用すれば,要するに人迎寸口診になります。ただ,そうすると病状の判断はできても,病所の判定はできません。そこで,人迎と寸口の脈を比較して,その陰陽性格のレベルから三陰三陽のいずれに病が在るかを知ろうとしました。禁服篇,終始篇,経脈篇などです。でも,この試みは失敗したのではないかと疑っています。
人迎寸口診は,実は脈状診であって,比較によって病の位置を知る方法ではなかった。『霊枢』五色篇にあるのが原形ではないか。人迎は当然ながら頸部に在って,陽的な影響を診,寸口は手首の関節部に在って,陰的な状況を診る。別に比較などはしません。さらに,陽的な,言い換えれば外からの問題は,外から見れば分かる(分かるかどうかは技倆の問題ですが)として廃れれば,外からではどうにも分からない内部の問題を知るための寸口脈だけが残る。そこで,脈診といえば,手首の関節部を思い浮かべるという情況に,意外とはやくから到達していたのではないか。
たぶん,それとは別に左右の腕関節部の脈に,性格の違いを診ていた人たちもいた。その可能性を僅かながら見いだし得るのが,『素問』病能論であり,『史記』倉公伝に付された斉の郎中令循のカルテではないかというわけです。
寸口だけを診て,病がどこに在るかを知るためには,『難経』では橈骨茎状突起を横隔膜に見立てて,全身を配当する試みもなされています。『素問』の(もとの)三部九候診を移植です。少し違うのは,頭部は放棄して,胸部と腹部に三つずつというのを,寸関尺の三部に二つずつに改変したことです。しかし『難経』でも,最初のほうでは,関を境として陰陽に分ける試みがなされています。(二部五候診というべきかも知れない。)寸関尺に,左右の陰陽性格も加味することによって,めでたく寸関尺に五蔵六府を配当した現行の六部定位診への道筋を示したわけです。
その上で,左右に配当しおえた蔵の性格を総括すれば,左右の脈で分かることがそれぞれ異なるといえることになります。上海の凌女史の「三焦の二つ系統」は,正しくそうしたものの一つだと考えます。そして,それは左右の腕関節部の脈には,性格の違いが有り,したがって頸部と手首という上下の関係を,左右の手首に置き換えることを容認する根拠となり得る,と期待するわけです。

今年は暖冬のはずが花冷えで今こんな感じ太い枝から直に咲いている

4月の読書会

 4月11日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 一階の会議室 です。

霊枢は 刺節真邪 を読みます。
ただし,論疾診尺についての蒸し返しが,前座の話題になりそう。
霊枢を先に読んで,時間の余裕があれば 難経 も読みます。
蔵府に関する三十難あたりからになろうか,と。

勿論,他のところについての質問も大いに歓迎。

診尺

『霊枢』論疾診尺篇に,
肘所獨熱者,腰以上熱;手所獨熱者,腰以下熱。肘前獨熱者,膺前熱;肘後獨熱者,肩背熱。臂中獨熱者,腰腹熱;肘後麄以下三四寸熱者,腸中有蟲。
とある。
臂中獨熱者,腰腹熱;
肘後麄以下三四寸熱者,腸中有蟲。
は対を為すと考えたい。
まず後のほうを検討する。「麄」は「麤」の異体字で,つまり「粗」と同じだが,ここでは「廉」の形近の誤りであろう。『甲乙』にはそうなっている。「蟲」を多紀元簡は「熱」の誤りではないかという。だとすると,「腸」もまた「腹」の形近の誤りではないか。「腸」の異体字に「膓」という書き方がある。つまり「腹中有熱」である。
臂中     獨熱者,腰腹熱;
肘後廉以下三四寸熱者,腹中有熱。
「臂」を普通の漢和辞典は肩から腕までと説くが,『説文』には「手上也」とある。だったらより詳しくいうときは二の腕ではないか。肘の後廉以下三四寸と上下に対になる。「腰腹熱」の「腹」は衍文かもしれない。ただし,腰と腹は上下の関係ではなく,前後の関係のはずである。臂中は肘から腕までの中ほどの陰側,肘後廉以下三四寸はそのあたりの陽側というつもりかもしれない。しかし,そうすると肘の前後で膺前と肩背を判断しようとする話とは逆になってしまう。
それにしても,脈診で寸口を関(茎状突起)で区切って身体を配当するのは,『難経』が初めであり,『素問』、『霊枢』には寸口の脈だけを診て病の所在する部位を知ろうとするのことは未だ無いように思う。してみると,尺膚診で上肢に身体を配当しようとする試みのほうが早いことにはならないか。肘関節が腰より上で,腕関節が腰より下で,肘から腕は腰そのものや腹……?

淳于意伝

『史記』の倉公伝は,正史に載る医家の伝の中で異例に長いものだと言う人がある。そんなことはない。倉公伝の本文は「太倉公者」から「此歳中亦除肉刑法」までであって,そう長くもない。
太倉公者,齊太倉長,臨菑人也,姓淳于氏,名意。少而喜醫方術①。高后八年,更受師同郡元里公乘陽慶。慶年七十餘,無子②,使意盡去其故方,更悉以禁方予之,傳黄帝、扁鵲之脈書,五色診病,知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精。受之三年,爲人治病,決死生多驗。然左右行游諸侯,不以家爲家③。或不爲人治病,病家多怨之者④。文帝四年⑤中,人上書言意⑥,以刑罪當傳西之長安。意有五女,隨而泣。意怒,罵曰:生子不生男,緩急無可使者!於是少女緹縈,傷父之言,乃隨父西。上書曰:妾父爲吏,齊中稱其廉平。今坐法當刑。妾切痛死者不可復生,而刑者不可復續,雖欲改過自新,其道莫由,終不可得。妾願入身爲官婢,以贖父刑罪,使得改行自新也。書聞,上悲其意,此歳中亦除肉刑法。
これで全文だろう。この後の詔問と応対の文章を資料として,名医に師事して自らも名医となった,治療を断った病家に怨まれて誣告された,女の上書が名君・文帝を感動させて許され,肉刑も除かれた,というだけの話を組み立てた。後半の「除肉刑法」に関しては孝文本紀とも共通の材料に拠っている。
後文に:
①意少時好諸方事,臣意試其方,皆多驗,精良。臣意聞菑川唐里公孫光善爲古傳方,臣意即往謁之。得見事之,受方化陰陽及傳語法,臣意悉受書之。(ごく若い頃からそこそこの臨床能力は有った。)
②會慶子男殷來獻馬,因師光奏馬王所,意以故得與殷善。光又屬意於殷曰:意好數,公必謹遇之,其人聖儒。即爲書以意屬楊慶,以故知慶。(陽慶には男子がいた。それを無かったようにいうのは,子が無かったから愛弟子に伝えた,と話を単純化するためだろう。その程度の調整は気にしないものらしい。)
③出行游國中,問善爲方數者事之久矣,見事數師,悉受其要事,盡其方書意,及解論之。(陽慶に学んだ後も,別の師匠を捜して学んでいる。)
④臣意家貧,欲爲人治病,誠恐吏以除拘臣意也。(治療をしなかったから患者の家族に怨まれたと書いたのも,司馬遷一流の単純化かも知れない。)
⑤孝文本紀には十三年の五月とある。
⑥淳于意が人に上書され,刑罪をもって長安に伝送された理由は:
a.本文上段の終わりに「不爲人治病,病家多怨之者。」とある。診療拒否を訴えられたか。
b.後文に「慶又告臣意曰:愼毋令我子孫知若學我方也。」とある。こっそり秘伝を受けていたことがばれたか。
c.後文に「身居陽虚侯國,因事侯。」とある。本文にも「左右行游諸侯,不以家爲家。」といい,女の上書中にも「妾父爲吏,齊中稱其廉平。」とある。斉王(もとの陽虚侯)のお覚えめでたいことで,他の医者仲間から妬まれたか。
太史公曰には,「士無賢不肖,入朝見疑。」云々とある。この司馬遷のテーマからすれば c が,案外と正解かも知れない。あるいはまた,この斉王将閭は別に謀叛なんぞしてないが,(高后歿き後,誰が皇帝になるかについての二大候補の一方であった)斉国自体が文帝の朝廷からしてみれば,仮想敵国のごときものである。斉に於ける政治的立場を買いかぶられたのかも知れない。(たいしたことないのが知れて,放免された。)

溺白

『明堂』の列缺のところに「熱病先手臂痛,身熱溺白,瘛,唇口聚,鼻張,目下汗出如轉珠,兩乳下三寸堅,脅下滿悸。」とあり,その楊上善注の一部を,新校正は
傷寒熱病具以論者,如《大素經》説:溺白者,熱以銷膏,故溲膏而白也。
と句読している。しかし,これはおかしいのではないか。「溺白者」云々の経文は,『太素』には無い。それはまあ,現在の『太素』には缺巻が有るわけだけれど,『素問』や『霊枢』にも無いように思う。もっとも,新校正の方針としては,他書の引用は『 』に入れるようなのに,ここは裸である。いささか及び腰になる理由が有る,とでもいうわけか。
傷寒熱病をつぶさに論じた文章は『太素』に有るということと,溺の色が白いのは熱で膏がとけだしているからという説明には,格別に関係が有るようには思えないが,如何。
傷寒熱病具以論者,如《大素經》説。溺白者,熱以銷膏,故溲膏而白也。

俗字をどうする

古抄本を整理し,活字化しようとすれば,まず一般的には正字化を目指すことになる。そしてまた正字となれば,一般的には康煕字典体ということらしい。でも,例えば唐代の書物の整理に,清代の字典の規範に合わすべく汲々とするというのも,考えてみれば馬鹿馬鹿しい。では唐代の『干禄字書』かというと,これでは如何せん,資料が不足する。それに,正字化してかえって見慣れない字形になりかねない。例えば,凍は俗で,涷が正だそうである。
無論,俗字を保存するという行きかたもある。ただ,あまり拘ると,『太素新校正』の壮大な徒労を繰り返すことになりかねない。変な言い方だけど,企画外れの俗字には遠慮ねがうことになる。張燦玾先生が書かれたものの中に,書字生や刻工の癖や好みで,横、竪、撇、点、捺、折などの画に,規範に合わない書き方が出ているものを「匠字」とよびたいとあった。ただし,こうしたものも容易に習慣化,流通化するから,一般の俗字と線引きのしようがない。第一,張先生が挙げる例のうちのいくつかは,『干禄字書』に載っているし,甚だしくは現代日本の通行の字形である。
俗字を保存することに全く意義がないとは思わない。例えば仁和寺本『太素』では,声符「専」の処理に迷う。専は專の俗字だから,人偏に専は,正字に統一するなら「傳」というのが理屈だけれど,文義からは「傅」としたいことがままある。声符「尃」の一点を欠く例なんぞ『敦煌俗字典』にはいくらもある。さらには文義からは,どちらとも言い難いこともある。また例えば,「涘」が実は「凝」の俗だろうというのも,凝の冫が原鈔本ではおおむね氵になっていることと関係するだろう。
俗字を保存したいとなると,電子化ではさらに別の悩みがある。そんな字形は,さすがに使えない! 亻に専も,氵に疑も,ユニコード統合漢字拡張領域Bまでには無いらしい。
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