靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

行路遠也

 これだけを見て、「麤」であると分かる、というのは結構きついところだと思いますよ。でも、「文傳得口傳得妙」という文脈の中でなら、まあなんとか見当はつく。
 『干禄字書』に「麁麆麤 上中通,下正,此与精粗義同,今以粗音才古反,相承已久」と有ります。つまり、この麁の変形したもの、筆の勢いといったことではないかと思うわけです。精粗の粗です。で、後のほうでごちゃごちゃ言っているのは、実は『竜龕手鏡』には「麁麄 倉胡反,踈也,大也,不精也,不善也,二」と「麤 倉胡反,浙韻云,行路遠也,又驚防也,鹿之性相背而食,慮人獸之害也」と二本立てになっているんです。『竜龕手鏡』の「麤」の「行路遠也」は『説文解字』の「行超遠也」からきているんだろうけど、それが粗の意味をもつのは、鹿の群れが奔ると、羊なんかの群れとは違ってバラバラになるからだそうです。で、結局、「麤」と「麁」は同じ字なのかどうか、よく分からなくなってしまう。それにそもそも「鹿」の下部の「比」、『干禄字書』でも『竜龕手鏡』でも「厸」になっているんです。しかも『竜龕手鏡』では鹿の部に「比」に作る字も平然と並べてなにも説明しない。まあ、こういった変形はどうでも良いことなんでしょう。
 結局、「麁」から上に掲げた画像まではまだ結構距離がありそうで、さてどこまで説明する必要があるのかしら。「比」あるいは「厸」をさらに省略したというあたりまでは見当がつくけれど。というわけで、銭教授の『新校正』はこういうのをどう解決するのか、とまあ待ち遠しいわけです。

怒而多言

『太素』巻30喜怒
善怒而欲食,言益少,刺足太陰;
怒而多言,刺足少陽。
 現代の臨床家の多くは、「多言に足少陽というのは、一寸臨床に使う気にはなれない」という意見だそうです。で、足少陽が指示されている理由として、臨床経験の無い後世の注釈家の注文が経文に紛れ込んだか、それとも古典の書かれた時代の足の少陽胆経の流注が現在の常識と異なるのか、というような議論をしている。
 まだ他に原因は考えられるでしょう。
 先ず第一に、『甲乙』では足少陽でなくて足少陰です。足少陰でも使う気にはなれないのかも知れないけれど、少なくとも『甲乙』には「嗌乾,腹瘈痛,坐起目䀮䀮,善怒多言,復留主之」とも有ります。古典に書かれてるからと言って全部を信じる必要は無いけれど、後世の注釈家の臨床経験を安易にあげつらうのは、自分たちの臨床経験を過信していると思う。
 第二に、怒と多言のイメージに古今の差があるのではないか。
 怒はイカるであって、強い不満が外に発したものであって、内にこもっている状態は愠という。現代の常識と同じようだけど、内に強い不満がこもってやがて爆発というイメージがずっと強そうです。だから食欲なんか有るわけがないし、ぐっと押し黙って言葉もでないのが当たり前で、足の太陰を使って、多分、疏泄しようとする。どうして疏泄するのに足太陰なのか。それこそが古代の名人上手の臨床経験であって、現代の臨床釈家としてはやってみて効くよ効くよと感激するか、自分の腕ではダメだったとうなだれるか、というようなことでしょう。
 さらに問題なのは多言で、おそらくはペラペラと喋りまくるということではない。巻25熱病决の譫言に楊上善は「多言也」と注しています。森立之も『素問攷注』生気通天論「静則多言」のところで、「多言者,譫語之謂」と注釈している。鬱積の極地なのに、何だかブツブツ言っているのは、薬罐の湯が煮えたぎっているようなイメージですかね。これはまた別の次元に入っているのであって、腎虚とでも考えたんでしょう。薬罐の蓋をきちんとしめている力を腎に求めたのだろうということです。で、『甲乙』の復留主之の条にあるような症状も実際には伴っていたのかも知れない。そういうのを腎の問題と考えることの当否も、足少陰が有効であるかどうかも、実際に試してみてからの話です。

眉本ふたたび

 下の眉本の項を少し修正。肩本の誤りではないかという臆測はそのままですが、噫に「一曰補眉本」というのは、恐らくは次の嚔に「補足太陽榮眉本,一曰眉上」と有るのに影響されて衍したのだろうと思います。だから、篇末の治法だけまとめた中には、噫に眉本はない。
 クシャミを攅竹穴で治そうというのだって充分に突飛だと思うけれど、ややこしいことに、『甲乙』に「風頭痛,鼻鼽衂,眉頭痛,善,目如欲脱、汗出寒熱,面赤,頰中痛,項椎不可左右顧,目系急,瘈瘲,攅竹主之」というのが有る。この『甲乙』の、もとは『明堂』からきた情報も、ひょっとすると『霊枢』口問の誤解に発しているんじゃないかと、窃かに疑ってはいるけれど、こういう具合に『明堂』まで疑い出すと、ほとんど信じられるものが無くなってしまう。それもまた困ったことである。
 ちなみに『甲乙』には、「風眩頭痛,鼻鼽不利,時,清涕自出,風門主之」というのも有る。風門なら肩の本あるいは上と言えなくもないだろうし、状況によっては風門より下の穴を取ったって悪いことはないだろう。

眉本

『太素』巻27十二邪(『霊枢』口問)
黄帝曰:人之噫者,何氣使然?岐伯曰:寒氣客於胃,厥逆從下上散,復出於胃,故為噫。【寒氣先客於胃,厥而逆上消散,復從胃中出,故為噫。】補足太陰、陽明,一曰補眉本。【脾胃府藏皆虚,故補斯二脈。眉本是眉端攅竹穴,足太陽脈氣所發也。】
 いくら口問だ秘伝だと言ったって、げっぷ、おくびを攅竹穴で止めるというのは奇抜すぎやしませんか。実は仁和寺本『太素』では「眉」という字は右のように書かれている。すなおに眺めればこれはむしろ「肩」に近いとは思いませんか。肩口のどこかを使って、げっぷ、おくびを止めるというのは、まあ何とかできそうじゃないですか。『甲乙経』で「噫」を検索したって何もひっかかりませんがね。でもそれは攅竹だって同じこと。
 楊上善自身は、「眉端攅竹穴」と言っているんだから、「眉」のつもりで書いたのは間違い無いんですよ。ただ、もとは「肩」に近い字で書かれていたのを模写して、でも「眉」だと思って注釈したのかも知れない。そもそも「一曰」とあるのも、楊上善が拠り所としていた本とは別にそういう説も有って、棄てるのは勿体ないから残したけれど、実は内容を理解してはいなかった、とまあ推理するわけです。
 実は他にも「眉」か「肩」か、水掛け論をやっている箇所って有りましたよね。

口問

 『太素』を読むのをライフワークのようにしているものが言うのは何だけど、楊上善の注釈には首をかしげるようなものが結構ある。例えば『太素』巻27十二邪に:
夫百病之始生也,皆生於風雨寒暑,陰陽喜怒,食飲居處,大驚卒恐。【風雨寒暑居處,外耶也。陰陽喜怒飲食驚怒,内耶也。】血氣分離,【此内外耶生病所由,凡有五別。一,令血之與氣不相合也。】陰陽破散,【二,令藏府陰陽分散也。】經胳决絶,脈道不通,【三,令經脈及諸胳脈不相通也。】陰陽相逆,衛氣稽留,【四,令陰陽之氣乖和,衛氣不行。】經脈空虚,血氣不次,乃失其常。【五,令諸經諸胳虚竭,營血衛氣行無次弟。】論不在經者,請道其方。【如上所説論在經者,余已知之。有所生病不在經者,請言其法也。】
 これはさすがにおかしいでしょう。大体、楊上善がいくつか有るといって、指折り数え始めたら眉に唾をつけたほうが良い。本来は次のような関係だと思う。
夫百病之始生也,皆生於風雨寒暑,陰陽喜怒,食飲居處,大驚卒恐。
分離,破散,决絶,脈道不通,
相逆,衛氣稽留,經脈空虚,不次,
乃失其常。
論不在經者,請道其方。
 つまり大雑把に言えば、血は陰であり絡であり(経脈中の)栄であり。気は陽であり経であり(体表の)衛である。それらは風雨寒暑(気象)、陰陽喜怒(?)、食飲居処(日常生活)、大驚卒恐(精神感動)によって調和をかき乱され、したがってその常態を失う。それらの経典著作に載っているものはすでに読んだ、だからそこに載ってないものを聞きたい。

7月の読書会

7月の読書会は、普段どおりの第2日曜日です。
 7月9日(日曜日)午後1時~5時
 場所:岐阜市南部コミュニティーセンター

連続出場

 3月18日から連続出場記録更新中だったんだけど、とぎれるとダメですね。むりやり何かをでっち上げようとする気力が無くなっている。多分、これからは飛び飛びになると思います。
 「太素を読む会」が再開されていることは、お気づきかと思うけれど、これも銭教授の『新校正』の体裁を予想するタネが尽きたら、また当分の間は休眠に入ります。

人蝦

 袁枚の『子不語』に巫山戯た話が載っている。明の逸民の某は、国の滅亡に殉じようと思ったけれど、痛いとか苦しいとかいうのは嫌だから、酒と女で命を縮めようと思って、妾を大勢娶って一日中荒淫したけれど、一向に死ねない。二十余年生きながらえて、八十四歳になってやっと死んだ。
 さすがに無事だったわけではない。平凡社の訳では「弩脈がきれてしまった。頭はさがり、背はまがり、熟れた蝦のようなせむしになって、はいつくばって歩いた。」
 この弩脈というのが不審で、菉竹氏に調べてもらったら、原文はやっぱり督脈でした。どうやって督脈が弩脈に化けたのか、荒淫によって督脈がきれるものなのか、はおいおい考えてみます。督脈がきれたら佝傴になるというのは、まあ何となくわかる。

醫家同類皆相忌

 紀昀『閲微草堂筆記』灤陽消夏録より
内閣學士永公諱寧,嬰疾,頗委頓。延醫診視,未遽愈,改延一醫,索前醫所用藥帖,弗得。公以為小婢誤置他處,責使搜索,云不得且笞汝。方倚枕憩息,恍惚有人跪燈下曰:公勿笞婢,此藥帖小人所藏。小人即公為臬司時平反得生之囚也。問藏葉帖何意,曰:醫家同類皆相忌,務改前醫之方,以見所長。公所服藥不誤,特初試一劑,力尚未至耳。使後醫見方,必相反以立異,則公殆矣。所以小人陰竊之。公方昏悶,亦未思及其為鬼。稍頃始悟,悚然汗下,乃稱前方已失,不復記憶,請後醫別疏方。視所用藥,則仍前醫方也。因連進數劑,病霍然如失。公鎮烏魯木齊日,親為余言之,曰:此鬼可謂諳悉世情矣。
  嬰疾:病にとりつかれる。
  頗:たいへん、よほど。
  委頓:衰弱したさま。
  延:招待する。まねク。
  遽:にわかに。
  索:もとめる。
  倚:よる。よりかかる、もたれる。
  藏:かくす。
  臬:きまり、法度。
  臬司:按察使。按察使は明清代、省(=地方行政区画)の司法をつかさどった。(この項は、菉竹氏の指摘により補う。)
  平反:誤った判決をくつがえし、無実の罪をはらす。(この項は、菉竹氏の指摘により補う。)
  陰:こっそり。
  竊:ぬすむ。
  鬼:人の死後、霊魂が形をなして現れたもの。
 以上は、おおむね『漢辞海』による。注意すべきは「嬰疾」、嬰児の疾病ではない。後の「則公殆矣」を見て気付いて、『漢辞海』を引きました。病気だったのは永公その人です。
 これはもともと辞書を引くことの勧めです。嬰疾は、引かないと誰が病気なのか間違えかねない。臬司や平反は、引かなくてもまあこんなような意味だろうということはわかる。わかるけれども、ちゃんと引けば、ちゃんと分かる。

芥子酢

 落語の佐平次だったか、映画の幕末太陽伝だったかに、猫じゃあるまいし下地無しで生の魚が食えるか、という啖呵が有ったように思う。しかし、刺身に醤油と山葵というのは、元禄ころでもまだ無かったようで、ではどうしたか。炒り塩か芥子酢か、中でも初鰹は芥子酢が常識だったようだ。武江年表の正徳四年の条に、生島新五郎が八丈に島流しになったという記事があって、その「釣鰹からし酢もなき涙かな」という句が載っている。当時は醤油の生産がまだ盛んでなかったからなんだろうけれど、たしかに醤油と山葵で鰹の刺身というのを、あまり美味いと思った記憶がない。鰹は当然タタキだよと思っていた。で、このかつては芥子酢という知識を得て試みたんだけど、確かにこのほうが美味いようだ。本来は刺身だからといっておきまりでなくて、魚によって下地も工夫すべきなんでしょうなあ。

 話は全く変わるけど、この武江年表には尚歯会の記事がいくつかある。ようするに長寿の祝いなんだけど、正徳五年の尚歯会の発起人が八十歳というのはともかくとして、最年長の志賀随翁が百六十七歳というのは如何になんでも。この人、享保十五年に百八十三歳で没したことになっている。逆算すると天文年間の生まれですか。織田信長がまだ尾張のうつけ者をやってたころですよ。享保といえば八代将軍・徳川吉宗のころです。
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