靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

怒而多言

『太素』巻30喜怒
善怒而欲食,言益少,刺足太陰;
怒而多言,刺足少陽。
 現代の臨床家の多くは、「多言に足少陽というのは、一寸臨床に使う気にはなれない」という意見だそうです。で、足少陽が指示されている理由として、臨床経験の無い後世の注釈家の注文が経文に紛れ込んだか、それとも古典の書かれた時代の足の少陽胆経の流注が現在の常識と異なるのか、というような議論をしている。
 まだ他に原因は考えられるでしょう。
 先ず第一に、『甲乙』では足少陽でなくて足少陰です。足少陰でも使う気にはなれないのかも知れないけれど、少なくとも『甲乙』には「嗌乾,腹瘈痛,坐起目䀮䀮,善怒多言,復留主之」とも有ります。古典に書かれてるからと言って全部を信じる必要は無いけれど、後世の注釈家の臨床経験を安易にあげつらうのは、自分たちの臨床経験を過信していると思う。
 第二に、怒と多言のイメージに古今の差があるのではないか。
 怒はイカるであって、強い不満が外に発したものであって、内にこもっている状態は愠という。現代の常識と同じようだけど、内に強い不満がこもってやがて爆発というイメージがずっと強そうです。だから食欲なんか有るわけがないし、ぐっと押し黙って言葉もでないのが当たり前で、足の太陰を使って、多分、疏泄しようとする。どうして疏泄するのに足太陰なのか。それこそが古代の名人上手の臨床経験であって、現代の臨床釈家としてはやってみて効くよ効くよと感激するか、自分の腕ではダメだったとうなだれるか、というようなことでしょう。
 さらに問題なのは多言で、おそらくはペラペラと喋りまくるということではない。巻25熱病决の譫言に楊上善は「多言也」と注しています。森立之も『素問攷注』生気通天論「静則多言」のところで、「多言者,譫語之謂」と注釈している。鬱積の極地なのに、何だかブツブツ言っているのは、薬罐の湯が煮えたぎっているようなイメージですかね。これはまた別の次元に入っているのであって、腎虚とでも考えたんでしょう。薬罐の蓋をきちんとしめている力を腎に求めたのだろうということです。で、『甲乙』の復留主之の条にあるような症状も実際には伴っていたのかも知れない。そういうのを腎の問題と考えることの当否も、足少陰が有効であるかどうかも、実際に試してみてからの話です。

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