靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

白帝城

民間の伝説としては,前漢末の蜀に割拠していた公孫述は,十二年間皇帝になれると夢に告げられ,また庭中の井戸から白竜のごとき気が天に昇るのを見て,皇帝を称し「白帝」と号し、瞿塘峽の入り口に「白帝城」を築かせた,ということになっている。

ある人の『三国志』の紀行に,「漢は,五行思想によって火を意味する赤をイメージカラーにしているのに対し,火よりも強い水を意味する白を旗印にしたことから,その城を白帝城と名づけたのだという」と書いている。無茶苦茶である。水の色は黒で,白は金の色である。

実際には,前漢の火の赤の後に,王莽の新の黄が続き,さらに公孫述の成(蜀の成都を中心とする)の白が継ぐというつもりだろう。蜀は中国の西方であり,西方は金で白だからちょうど良い。相生の関係である。
もっとも,金は火に溶かされるわけで,現実には成は後漢に滅ぼされた。相剋の関係である。

都江堰

もう一ヶ月がたちました。......まだ一ヶ月しかたってません。
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都江堰へは一度,行ったことが有ります。
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もう二十年ほども前のことです。
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こんなのも,多分,無事というわけには,いかなかったんだろう。
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不避顛倒旧簡之嫌

何愛華女史の著『難経解難校訳』の後記には,人にものを思わしめるところが有る。
......著名なる歴史学者・陳垣の創立した校法の中で,理校を主要な手段とし,「校理」を主要な内容とするようにした。そんなことをすれば,「鹵莽滅裂」(大雑把で軽率)、「濫改古書」(みだりに古書を改める)といった大忌を犯しがちである。整理した書稿には,必ずや缺点が存在するであろうし,撰した歴史と文献についての考証論文には,なお検討や修正を要するであろう。だから,遅々として敢えて正式に梓に付すことはしなかった。......

ところが何女史は,突然に嘔血し,胃癌であると診断された。そこで,先輩だか同僚だかが,若手の研究者を動員して,昼夜兼行で原稿のとりまとめをしてくれた。それを大いに感謝しつつも無念の思いは有る。
......本来このような校勘整理の著述には,しっかりした『校後記』を書いて原書と校勘整理の学術的な価値を読者に知らしめる必要が有る。けれども作者の病によって,しばらく缺いたままにしておくしかない。校理と論文中の後世を誤りかねない箇所や缺点も,また一字たりとも自ら校閲し訂正することが叶わなかった。......

だから,このような遺憾な点を多く残した書物を世に出すことになったけれども,校勘専家も医史学家も,あるいは広く一般の読者も,惜しまず指正の意見を寄せて欲しい,と言い,「病が癒えるのを待って,各家の貴重な意見に従って,せっせと修改し,過失を挽回するというのも,幸せというものではないか」と結んでいる。

後の報道で,出版はなんとか間に合ったように言っていた。けれども,各家の意見を見ることも,修改の幸せを味わうことも,無かった。

難経苦行

ひょんなことから,今年一杯の読書会で,『難経』を読み切るという計画になりました。八月はお休みの予定なので,多くて五回,各回が午後一時から五時で,雑談と休憩の時間は必須だから,一難にかけられる時間は平均して十分程度です。

はっきり言って,無茶苦茶です。

で,なんでそんなことを考えたかと言うと,古来の注釈に頼って丁寧に読むことよりも,前に読んだ難で何を言っていたかを覚えている内に,次々に読んでいこうということです。それによって,『難経』の著者は,本当は何を考えて,何を言いたくて,こんな書物をまとめにかかったのか,がひょっとしたら見えてこないか,と言うことです。

この苦行だけの参加者も歓迎します。

盛怒則差

『三国志』魏書・方技伝に華佗の手柄話が載っている。
また一郡守の病むもの有り,佗は以てその人盛怒するときは則ち差ゆと為し,多く貨を受けて治を加えず,いくばくもなくして棄てて去り,書を留めてこれを罵る。郡守果たして大いに怒り,人をして追捉せしめて佗を殺さんとす。郡守の子これを知り,属して逐うことなからしむ。守瞋恚既に甚しく,黒血数升を吐きて癒ゆ。
流石と言いたいところだけれど,実はこれは『呂氏春秋』至忠に載る文摯の話の焼き直しです。そこでは文摯は煮殺されている。そして,言いたいことは「それ治世に忠たるは易く,濁世に忠たるは難し」なんです。なんたって,篇名が「至忠」なんですから。『三国志』はこうした名医伝説を作り替えたホラ話を平気で書く。用心すべきだと思う。

実は,ず~っと昔,インドかアラビアかの名医の話としても,このエピソードを読んだ記憶が有るんです。何で読んだのか,どうしても思い出せないのが残念ですが,何処の暴君も同じなんですねえ。

それとは別の話として,この「其人盛怒則差」ということ自体はどうなんでしょう。『黄帝内経』には無いような気がするんですが。

六十首は平有

沈教授主編の『難経導読』がやっと届きました。で早速、十六難の「六十首」の新しい解釈を確かめました。
「六十」は「平」の誤りのはずで,「首」には「有」の誤りの可能性が有る,ということだそうです。だから,この句は「有平,有一脈変為四時」と考えるべきで,八難の「寸口脈平」と相応する。
もう一つの可能性として,「六十」は「大小」の誤りとも考えられないことはないが,『難経』には脈の大小の問題を専題論求することがないから,取れないそうです。

う~ん,恐れ入りました。

でも,「大小」も捨てがたいんじゃないかな。「三部九候」は十八難に,「陰陽」は四難に,「軽重」は五難に見える。「大小」も,六難に「脈有陰盛陽虚,陽盛陰虚」と言い,答文では陰盛陽虚は「浮之損小,沉之實大」,陽盛陰虚は「沈之損小,浮之實大」と言う。つまり脈位の陰陽における脈状の大小を言ってないか。「一脈変為四時」は十五難で良いだろう。
つまり,十六難は,「脈有三部九候,有陰陽,有輕重,有大小,有一脈變爲四時。離聖久遠,各自是其法,何以別之?」
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巨刺と繆刺

巨刺と繆刺が分かりづらいのは,もともと言われていた巨刺を二分して巨刺と繆刺ということにしたからではないか。同じような事情は周痺と衆痺にもあった。
巨刺は『霊枢』官針篇では九刺の一つとして「左取右,右取左也」とある。九刺の中には絡刺もあるが,経刺に対して「刺小絡之血脈也」という。経刺に対して絡刺というものはあるが,巨刺に対して繆刺という考え方は,そこにはない。
『素問』繆刺論には,邪が客するには,先ず皮毛に客し,留まって去らなければ入って孫絡に客し,留まって去らなければ絡脈に客し,留まって去らなければ経脈に客し,さらに内は五蔵に連なり,腸胃に散じて,大事に至る。これは『素問』陰陽応象大論の,始めは病は皮毛に在るが,やがて肌膚に入り,筋脈に入り,六府に入り,ついには五蔵に入って,死ぬも生きるもあい半ばするに至るというのと同じことで,病が次第に深くに入り込むという常識を言っている。
ところが邪が何かの事情で経に入れないと,絡に溢れて,左は右に注ぎ,右は左に注ぎ,上下左右に交錯して,在処が定まらない。そこで繆刺する。繆はやっぱり,交える,入り混じるの意味だろう。また,謬に通じて,あやまる,くいちがう。経脈に正しく添わないで,変なところにわだかまる。
邪が経に客した場合でも,左の気が盛んであるのに右が病み,右の気が盛んであるのに左が病むという具合に,同じように移り変るものが有るのは,左の痛みがまだ癒えないのに右の脈が異常を示しはじめるのである。こういう時には,左右を互いにして取るのであるが,経をねらうべきであって,絡脈ではない。(そもそも脈を診て知るのは経の状態であって,絡は見て判断する。)
絡病では,その痛みが経脈と繆処するから,これを刺すのを繆刺と呼んで,経をねらう巨刺と区別する。

箸も付けない

さげてきた料理を使い回した店は、勿論、とんでも無いけれど、出された料理に箸も付けなかった客だって、そんなに威張れたものでは無かろう。

6月の読書会

6月の読書会の案内を忘れてました。勿論やります。


6月8日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの会議室

肺主聲

四十難曰:經言肝主色,心主臭,脾主味,肺主聲,腎主液。鼻者,肺之候,而反知香臭;耳者,腎之候,而反聞聲,其意何也?

然,肺者,西方金也。金生於巳,巳者南方火也。火者心,心主臭,故令鼻知香臭。腎者,北方水也。水生於申,申者西方金。金者肺,肺主聲,故令耳聞聲。
この経言は、『霊枢』順気一日分為四時篇と関係が有ると思う。ただし、それなら「肝主色,心主時,脾主音,肺主味,腎主藏」のはずである。「肺主聲」になってしまったのは、味であれば脾に配当するのが相応しいとして入れ替えたのから生じた食い違いだろう。音と声の入れ替えくらいはどうということはない。
「腎主藏」が「腎主液」に変わった理屈はわからない。
「心主時」を「心主臭」に変えたのは、五官器の問題に統一したいという意識だろう。確かに「時」というのは良くわからない。
長夏と秋を入れ替えるくらいなら、いっそのこと「肝主色,心主☐,脾主味,肺主臭,腎主音」までもっていけば良さそうなものではないか。五行説的に何か問題を生じるのだろうか、この難のようにしておくことに、五行説的に何か意義が有るのだろうか。
四十九難にも、別に大した問題は起きないと思うがなあ。
「心主☐」の☐には、目口鼻耳から得た情報から、それが何であるかを判断する能力、それを表現する文字が相応しい。
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