靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

陰盛陽絶

乗黄さんからの質問:
 先日の、『霊枢』口問篇の以下の「寫足少陰」の部分がどうも未だに私の中で引っかかっています。
岐伯曰:此陰氣盛而陽氣虚,陰氣疾而陽氣徐。陰氣盛,陽氣絶,故為唏。補足太陽,寫足少陰。
 この腎に瀉法をするという事ですが、この場合あくまでも「単なる過不足論による寫」なのか?それとも「ある種の邪が存在し、それに対しての寫」なのか?
 そこまで考える必要性はないのかもしれませんが、どうもすっきりしないんです。
神麹斎のぐだぐだ:
 こういうのは分かりませんねえ。「ある種の邪が存在」と言っても、病原菌が在って、それを抹殺し排除するというような意味の治療は、そもそも考えていないでしょうから。篇の冒頭付近に:
夫百病之始生也,皆生於風雨寒暑、陰陽喜怒、飲食居處、大驚卒恐。
と言ってますが、それで病になるのは:
血氣分離,陰陽破散,經絡厥絶,脉道不通,陰陽相逆,衛氣稽留,經脉虚空,血氣不次,乃失其常。
だからであって、だから治療も衛気、経脈、血気の異常を是正することに在るわけでしょう。別に外から入り込んだ寒気や熱気や、胃の中の飲食物を直接的に排除しようとするわけじゃないと思う。でも、それを言いだしたら全ての針灸治療はバランス調整、言い換えれば「過不足論による補寫」ということになってしまう。極端な例として、胃にやばい毒物が在って、胃洗浄を試みるというような治療とは違うもんね。少なくともこの篇で論じているのは「何氣使然」であって、だから治療もその気の状態の是正だと思うんです。他の資料には嘔吐させるツボとかは有るのかも知れないけれど、それだって針灸で働きかけるのは身体に対してであって、嘔吐させるべき物体に対してじゃない。
 何だか自分でも何を言っているのか分からなくなってきました。
 それから、ひょっとしたら言い間違えていたかも知れませんが、足少陰を瀉すのであって、腎を瀉すわけではありません。経脈篇的発想、あるいは経絡治療的発想から言えば、腎を瀉すことになって、だから抵抗感を示す人が多いだろうと言ったつもりでした。
 何だか、全然、答えになってませんねえ。

肓之原

『霊枢』四時気篇に:
腹中常鳴,氣上衝胸,喘不能久立,邪在大腸,刺肓之原、巨虚上廉、三里。
とあるが、『太素』雑刺は「肓」を「賁」に作り、楊上善は「賁,膈也。膈之原出鳩尾也」と言う。つまり「肓」は「膏」の形近の誤りであろう。
 ところが、「肓之原」は『素問』にも、しかもほとんど全く同文が腹中論と奇病論の二箇所に出てくる。
帝曰:人有身體髀股䯒皆腫,環齊而痛,是爲何病?
歧伯目:病名曰伏梁。此風根也,其氣溢於大腸,而著於肓,肓之原在齊下,故環齊而痛也。
 これについては『太素』も同じだし、楊上善も別に何も言わない。では『太素』雑刺だけが誤りかというと、そうもいかないと思う。『霊枢』四時気篇では、邪が小腸に在るときには、肓の原と巨虚下廉を取る。だから、邪が大腸に在るときは膏の原と巨虚下廉と三里のほうが釣り合いが良い。
 腹部の原穴と府の下合穴の組み合わせになっているのだから、膏の原とは胃と大腸の原穴、肓の原は小腸の原穴ということになりそうである。で、『素問』の伏梁の記述では、気が大腸に溢した場合に肓の原を言うのは辻褄が合っているのか。考えてみれば、病症のこれは大腸、あれは小腸なんぞということは、どうして分かるのか。胃か腸か、というのが限界だったかも知れない。要するに腹部の最重要な穴に膏の原と肓の原が有って、比較的上部の症状には上部の膏の原、比較的下部の症状には肓の原ということで良いのではないか。あとは実際の場における感がものを言う。
 本当は『素問』の肓之原を原穴と思うこと自体が誤りかも知れないけれどね。単に身体には肓という部位が有って、そのおおもとは臍の下につながっているというだけのことかも。それにしても、じゃあそれに最も関係が深い府は胃か大腸か小腸か、という問いは可能でしょう。

脈診

 脈というのは、文字の成り立ちからして、どうしたって血管のことである。そして脈診というのは、脈の状態を診ることであって、今いうところの脈診は結局のところ動脈の搏動を診ているのであるから、そのごく一部ということになる。で、最も深刻な問題は、動脈の搏動と健康状態は相関するのか、である。まあ、これを疑ってしまってはどうにもならないのであるから、これは認めるとして、動脈の搏動と経脈の状態が相関するかどうかは、やっぱり問題だろう。ここでいっている経脈とは、此処と彼処を結ぶ仮想された線条のことであって、物質的には血管と相似のものと考えられてきたが、現代医学によって血管の効能としては否定された働きを担うべきもののことである。
 現代医学によって否定されたのであれば、全身を栄養する効能(これは血管の効能と言い換えてしまって良い)と、診断と治療の系統は独立させて考えたほうが良い、と基本的には思っている。では、動脈の搏動と診断と治療の系統をどう関連づけるのか。そもそもそれは妄想に過ぎなかったのかも知れないけれど、そういってしまうのは如何にも惜しい。やっぱり脈診は脈の様々な状態を診ることであって、その脈は血管から意味を広げて縦のスジのことであって、そのごく一部である動脈の搏動はそのスジの状態を推し量るための傍証に過ぎないけれど、他にたよりになりそうなものは無いのだから、やっぱり最も有効な判断材料である、といったところか。
 健康状態を反映して動脈の搏動に異常が起こっているとしたら、何らかの方法で動脈の搏動を正常にもどせば、健康状態も改善するのではないかと期待する。身体の各部分の異常に応じて、脈動が変化する部位に特徴が有るとすれば、その変化が起こった部位の脈動を操作するのが当然であり、上手くいく可能性も高いと期待できるだろう。だから身体のあちらこちらに診断と治療の点を設ける方法のほうが、古くかつ確かである。それを、独り寸口を取る方法に改変したのは、手軽さを求めるともに、理論の美しさを追ったせいという恐れがある。診断点は統合したけれど、治療点はさすがにそうはいかなかった。そこで、脈診しては刺針し、また脈診して効果を確認する。手順としては美しくなったが、空理空論が紛れ込むおそれも出てきた。断じて行えば鬼神もこれを避ける、というのが唯一最大の支えでは如何にも寂しい。

外内と彼此

 針治療には外と内が有る。外がもともとのもので、内は仮想されたものである。
 外とはつまり皮肉筋骨で、基本的には痛を以て輸となし、熱刺激(燔針、熨あるいは灸)と針術を局所に施す。九針の用い方はほとんどがこの範疇である。ただし、緊張した筋肉の上下に置針して緩解させた経験は、ほとんどの針灸師が初歩段階で持っているであろうから、古代の名人がそれに類する術を知らなかったわけがない。改善させ得たのは単なる緊張だけでもなかったろう。しかし、そのためには現今の毫針に近い針の制作が無ければならない。これによってはじめて病所を挟み撃ちにする方法が考案される。根結や標本は、もともとそうした試みではなかったかと思う。
 内とはつまり五蔵六府であって、古代の科学知識の水準からすれば、仮想された部分が必然的に多いはずである。五蔵六府に直接的に関連する募穴と背兪は、局所的な施術の範疇である。遠隔的な作用は五蔵と原穴、六府と下合穴の関係としてまとめられたが、これにもれた経験も沢山有ったろうし、その一部は絡穴と絡脈と絡病として再度まとめられた。頚周りの大牖五部とか大輸五部とか言われるものも、挟み撃ちの一方の端であるとともに、暴病を主どるということからは、また病に脈でつながる遠隔操作に用いる穴でもある。
 ところで古代の方士は意外と即物的な人たちだったようで、四肢の要穴と五蔵六府が関連するからには、両者を結ぶモノが有るはずと考えた。古代人の技術水準で捜せば、それは当然ながら血管であって、今度は両者の役割の混淆が始まる。刺絡は、おそらくはもともと局部の状態を改変するもう一つの方法であったろうが、血液循環を制御する方法として認識される。勿論、普通に刺針して制御することも工夫されたはずであるし、彼らにとってはそれは経脈の気を制御するのと同義であった。
 内の関係は、つまり点と点の関係である。ただし、点と点の関係と言ったところで、近くの点は同じ点に結びついていることは多かろう。問題は近くと言うことの意味であって、隣り合わせた点よりも、点と点をつなぐ線上のもう一つ別の点のほうが近いということはある。ところが、線上の点というのはおおむね肘膝から先の点、せいぜいが腋窩や鼠蹊までのことであって、胴体ではとてもそうは言えない。全ての穴を十四経脈上に配置する試みなどは、無駄なあるいはさらに後世を誤る努力であった。
 こうして見てくると、他の世界では発見されなかったか、あるいは少なくとも発展させ得なかったものは、診断と治療のポイントとそこから遠く離れた患部との関係である。なぜそういうことが起こり得るのかは分からない。そこで、血管系にはそんな能力は無いと現代西洋医学に言われと、たちまちたじろいでしまった。たじろぐ必要が有るかどうかは分からないが、どのみち我々に解決できる問題ではない。我々にもできそうなのは、古書に掲載されたポイントと患部の関係の整理とその検証だろう。言い換えれば、どのスイッチあるいはどのスイッチとどのスイッチを押せば、どのライトが灯るのかを知りたい。さらにまた、この舞台を照明するためには、どのライトあるいはどのライトとどのライトを灯すべきかを知りたい。押しかたに工夫が必要ならば、それも知りたい。どうして灯るのかは、誰か研究してくれ。

浮沈

 道三の脈書に「約メテ論ズルトキハ只浮、沈、遅、数ノ四脈ノミ」と言うが、それぞれに有力と無力を言い、有力は実、無力は虚と言い換えられるだろうから、結局のところ浮沈、遅数、虚実を脈状の基本として良いだろう。
 で、この脈状を手がかりとして病証の論を繰り広げるわけだが、実際の鍼による臨床の手引きとしてはまた別のとらえ方も有るだろう。虚と実には、多分手技の補瀉によって対応している。遅と数は、本当は良く分からない。そして選穴論の対象となっているのは、主として浮か沈かではないか。これによって、井滎兪経合を使い分ける。ある日本有数の臨床のグループでは、虚証の場合にであるが、脈が浮いていれば合、沈んでいれば兪と教えていた。これの理屈は、多分もともとは五行説から導き出されたのだろうけれど、逆からみれば合には脈を沈める力、兪には脈を浮かす力が有るということになる。さらに言い換えれば、合には深部(陰)を充実させる力、兪には浅部(陽)を充実させる力が有る。脈がそのように変わるということは、つまり病状がそのように変わるということである。経をニュートラルとする。
 例えば浮いて虚しているとしたら、虚していること自体がまず問題であるけれども、浮かせたところでは何とか脈が触れるのであるから、さらに深刻な問題は陰に全く無いことである。だから、これは実の場合と言葉遣いが違っている。実の場合は、実が浮に在るから浮実と言い、沈に在るから沈実と言う。その伝から言えば、所謂浮虚は、浮かべては確かに虚してはいるが指に脈を触れ、沈めれば雲散霧消する。してみれば本当の虚は沈めたところに在る。その意味からは所謂浮虚はむしろ沈虚と言うべきである。今さらそうはいかないのであれば、いっそのこと陰虚と言おうか。そしてより深いところ(陰)に力をつけさせる為には、ニュートラルより肘膝側(陰)に取り、より浅いところ(陽)に力をつけさせる為には、ニュートラルより指先側(陽)を取る。実の場合も、陽の実には陽を、陰の実には陰を取るのではないか。

点と線

 現在の常識では、ツボと経脈の関係はどういうことになっているのだろう。全てのツボが経脈に属して、言い換えれば経脈はツボとツボをつなぐ線ということだろうか。譬えて言えば、鉄道の線路に沿って点々と駅が有る。いくつかの駅にはいくつかの本線が関係するが、基本的には駅はナントカ線の駅である。
 これは少し違うんじゃないか。
 飛行機の航路と空港と譬えたほうがまだしも、かも知れない。つまり成田空港から首都空港へ飛ぶ。上空を経由したところで、浦東空港に降りなければ、上海とは直接の関係はない。
 なんでこんなふうに考えるかというと、経脈説発想の起源は、原穴と五蔵、下合穴と六府を結ぶモノ、つまり、診断と治療のポイントと患部をつなぐライン、これが一つ。もう一つは根結とか標本、つまり四肢末端近くの起点と躯幹や頚部の止点の関係。本輸と頚周りの諸穴もおそらくは同じ仲間でしょう。で、実際には診断と治療のポイントと患部の関係というのは、身体のあちらこちらに有って、それぞれに両者をつなぐラインが有ったわけだけれど、手足陰陽の十二条の経脈にまとめ上げる過程では、それはまあ経由域のポイントを支配下に組み込んでいった。
 ここでややこしいのは、古代中国の人々というのは、かなり極端に即物的な思考の持ち主だったみたいで、つなぐラインが有るということは、そういうモノが有るということだ、そうなるとそれは当然血管である。血管という具体的なモノとの関係で、これはこれにあれはあれにと配属が決まってくれば、人の思考習慣としては、駅と駅とをつないで線路がひかれたという感覚になる。実際には多くの場合はノンストップの直行列車だったと思うんですがね。
 で、ツボは十二経脈上に在るのが当然ということになると、今度は経脈はツボをつないで記述されるようになる。行き着くところの一つの成果が、つまり『十四経発揮』であって、えらくありがたがる人もいるらしいけれど、私はあんまり好きじゃない。特に腹部や背部の諸穴が、内部を行く経脈に隷属しているなんて思えない。重要とされる募穴や腧穴が、別の五蔵六府を冠した脈に属しているなんて気持ちが悪い。そもそも経脈篇の循環も眉唾だと思っている。下って大腸を絡うとか、小腸を絡うとか、そんなの蔵と府を表裏にして、その表裏関係を陰陽表裏にのっけたかっただけでしょう。太陰と陽明は表裏だけれど、肺と手太陰の関係はともかくとして、大腸と手陽明なんてほとんど全く関係ないでしょう。心と手少陰の関係はともかくとして、小腸と手太陽なんてほとんど全く関係ないでしょう。肺と大腸、心と小腸の表裏関係の起源がはっきりしないから、その妥当性はどう評価したらいいのか微妙なところだけれど。

局部の病証学

 全体像を把握する為には病証学が必要であり、局部が全体を修正しうる為には経脈説が必要である。
 よく考えてみると、術者にできることは局部への施術だけである。全体像が把握され、蔵府・経脈がそれとどのように関係しているかが説明されれば、いくつかの経脈を選び、あるいは兪募穴を取って、それぞれに相応しい手技を施すことによって、全体像を理想の状態にもっていくことができるはずである。経穴と言い兪募穴と言う、いずれも局部である。
 それでは、全体像は局部の具体的な状況までも表現しているのか。これは、いつもそうだ、とは言えないのではなかろうか。局部が全体を構成し、全体が局部を支配するのは間違いないとして、相互に影響する過程に在っては(現実にはいつもそうした過程に在る)、相対的に別々に病証を把握する必要が有るのではないか。
 ところが、脈診術にせよ病証学にせよ、全体像を知ろうとして発展してきたというのが歴史の趨勢であろうから、今ここで局部の病証を知るためには、別の方策をたてる必要が有るだろう。少なくとも、独り寸口を取る脈診から十二経脈みな動脈有りへの反転とか、さらにはその色を見、その膚を按じ、その病を問うことの意義を再認識し体系化する必要が有るのではないか。
 と、ここまで書いた時に、次のような意見に接した。
脉状が現している病証は、今現在、一番苦しんでいる症状だと思います。
 それでは多分、脉状が現している病証は、実は局部の病証だと思う。そして実在するものはいつも局部であって、全体というのはついに虚構である。局部を足し算すれば全体になるのではなく、局部を見渡して「構想」しなければ全体というようなものは存在しない。脈診によって全体像を把握するというのは多分錯覚であり、把握のための材料を求めていたのだろう。局部の病証に従って治療し、局部の病態の変化はまた脈状に反映して、新たな病証として把握される。病証の全体像とは、そうした変化の予想図、見取り図であろうか。(引いた句をちゃかしているのではありません。この句によって改心あるいは回心したのです。念のため。)

選穴論

乗黄さんからの質問:
(前略)『霊枢』の時代において、おそらくはその時代の原穴を選穴していたであろうことは想像できます。一方、現代において所謂、古典派と言われる会では選穴の段階で、「井穴だ。兪穴だ。いや、合穴だ!」と様々な理論でその選穴法が議論されます。確かに、井穴と合穴においては明らかな位置的差は大きいものがありますが、井穴と栄穴のようにその差の少ないものに関して、理論的な説明ができるのでしょうか?まぁ、五行的な理論や運気論的な解答はあるかもしれませんが。『霊枢』雑病の時代においては、原穴から少し遠位にあろうが、近位にあろうが、感覚的に取穴したところが、原穴であったんではないのでしょうか?そうだとするならば、「井穴だ。いや経穴だ。いやいや合穴だ!」と議論するよりも、原穴とされる穴からより近位にとるか遠位に取穴するのか?という論理の方がより現実的ではないでしょうか?その理論構成において、原穴または遠位の穴を取穴することが導き出されたら、あとは感覚で取穴することになるのではないでしょうか?(後略)
神麹斎の応答:
 今、私もほぼ同じようなことを考えています。『霊枢』の時代、というよりもそれよりやや前の時代には、この経脈の病とにらんだら、選ぶべき経穴は常識的に決まっていたのだと思います。(もっと極端な言い方をすれば、病という電灯から経脈というコードが延びて、その先にツボという一つのスイッチが有る。)それは井滎兪経合の中では中央の兪であることが多く、だから兪が陰経脈の原穴ということになっていますが、乗黄さんが言うようにもう少し巾が有って、その付近でその術者にとって使いやすいものを使えば良かったのかも知れない。(各家庭でスイッチの在処はそれぞれに異なる。)で、現実には一つの常識的な経穴ですむわけもないから、より指先側に取ってみるとか、より肘膝側に取ってみるとか、工夫はしていたはずです。(暗闇で、有ると思ったスイッチが手に触れなければ、そのあたりの壁を探ってみる。)工夫しているうちには、どういう病状ならどういう傾向といった経験も蓄積されたはずです。(例えば、住んでいる人の身長から、スイッチの高さは推し測れる。)『霊枢』の段階における結論としては、春は井、夏は滎、秋は兪、長夏は経、冬は合。またこれを陽気の趨勢、病の状態(例えば『霊枢』順気一日分為四時篇の蔵、色、時、音、味?)に置き換える。ただ、ここには経験から抽出された真実ではなくて、理屈から導き出された空論であるという懼れも有る。
 経脈篇の「不盛不虚,以経取之」も、盛でも虚でもなければ、井滎兪経合の中央付近の経を取っておけという意味じゃないかと夢想しています。兪ではなくて経というところがちょっと不安なんですが、「兪経」がニュートラルで、あとは「井滎」か「合」かの選択だったという可能性は有ると思う。
 今、頭を悩ませているのは、例えば井が春で滎が夏、井が木で滎は火だとして、井滎を取るのは陽気が盛んになってくるのを後押ししている(補)のか、それとも風熱という陽の亢奮を抑えにかかっている(瀉)のか。
また
 『霊枢』順気一日分為四時篇の蔵、色、時、音、味は、本当はよく分からないんです。『難経』六十八難の「井主心下滿,榮主身熱,兪主體重節痛,經主喘咳寒熱,合主逆氣而泄」と何か繋がりが有りそうなんですが、それもまだ思いつきの段階です。
またまた
『太素』巻30風逆(『霊枢』癲狂篇)
風逆,暴四支腫,身𨻽𨻽,唏然時寒,飢則煩,飽則喜變,取手太陰表裏、足少陰、陽明之經,肉清取滎,骨清取井也。
 手太陰表裏、足少陰、陽明の経を取るというのが、ニュートラルなら経を取るという意味なのかどうかはよく分からないが、肉が冷えていれば滎、骨が冷えていれば井というのはおもしろい。骨の冷えが最も深くて井、肉の冷えはそれより浅くて滎。もっと浅い皮の冷えなら、合かも知れない。『太素』巻26寒熱雑説(『霊枢』寒熱病篇)には、皮寒熱、肌寒熱、骨寒熱が出てくる。分類するとしたら、普通はその程度までなのだろう。
 楊上善は五行説で説明しているが、感心しない。
 選穴論とは別の話だが、この「飢則煩,飽則喜變」はよく分からない。一般的な解釈では煩躁と不安だが、それではそれほど違いが有りそうに思えない。実は『甲乙』巻10陽受病發風に「風逆暴四肢腫濕,則唏然寒,飢則煩心,飽則眩,大都主之」とある。「飢なら煩心、飽なら眩暈」のほうがまだ分かりやすい。また、大都は足太陰の滎である。これも『霊枢』の断片が『甲乙』明堂部分の主治の材料になっている例だろうが、かんじんの穴の指示が異なってる。

緩急小大滑濇

 『霊枢』邪気蔵府病形篇の変化の病形を診る脈は、緩急小大滑濇であるから、どうしたって三つの要素の二者択一の積み重ね、あわよくば座標軸で解釈しようとしてしまうが、本当は後文の「刺之奈何」から考えたほうが良いのかも知れない。
 は、熱である。だから針を浅く入れて、速やかに抜く。
 は、寒である。だから針を深く入れて、久しく留めておく。緩急は確かに二者択一で問題ない。
 は、血気がともに少ないのであるから、針治療にはむかない。だから滋養の薬物を投与する。
 は、小とは対照的に瀉法が主となる。ただし、気は多いから少し瀉すようにするけれど、血は少ないから出血はさせないようにする。
 は、陽気が盛んで、わずかに熱が有る。だから、針を浅くいれてその陽気を瀉して、その熱を去る。の刺法と実質的な違いは無い。つまりの表現する性質は同じようなもので、程度に差が有るのだろう。気を瀉すのを主意とするという点では、とも似たところが有る。
 は、血が多くて気は少なく、わずかに寒が有る。だから、必ずよく揉んでから針を入れて必ず脈に中て、久しく留めた後に抜く。針を深く入れて、久しく留める点においては、の刺法とさしたる違いは無い。抜いた後もすぐその後を揉んでおく。(そうしないと、多血だから出血してしまう?)
 この多血少気のに相い対するものは、多気少血の大であるはずなのに、刺法にそれが反映されてない。また『脈経』巻四の平雑病脈の「濇則少血」と、この篇の刺法中で言う「無令其血出」によって、濇は少血とすべきだとする意見が有る。むしろこっちのほうが常識でしょう。それでは小と濇がほとんど同じになってしまうが、つまり、と似たようなもので程度の差ということかも知れない。
 乃ちは冷えによって滞りがちになることと、生命力の低下傾向という、二つの情況を表現している。
 つまり、緩大滑の傾向か急小濇の傾向かに二分し、さらに精密に診る。座標軸ではなさそうである。

当候胃脈

『素問』病能論(『太素』巻十四・人迎脈口診)
黄帝問曰:人病胃脘癰者,診當何如?
岐伯對曰:診此者當候胃脈。其脈當沈細,沈細者氣逆,逆者人迎甚盛,甚盛則熱。人迎者胃脈也,逆而盛,則熱聚於胃口而不行,故胃脘爲癰也。
黄帝曰:善。
 この胃脘癰を診るという「當候胃脈」の胃脈は、どこの脈処を指して言うのか。
経文にはっきりと「人迎は胃脈なり」と言っている。脈が甚だ盛んなのは熱なのであって、人迎即ち胃脈が盛んということは、つまり熱が胃口に聚まって行らないということであって、だから胃脘が癰になる。何も難しいことはない。
 問題は「其脈當沈細」のほうで、この脈は沈細というのだから、甚盛の人迎とは別の脈処である。
 楊上善の注に「今於寸口之中診得沈細之脈」と言うのははなはだ良い。しかし、その前に「胃脈者寸口脈也」というのは感心しない。森立之『素問攷注』に、一度は「胃脈,楊以為寸口脈,可從」としながら、後に「寸口脈」と「可從」の間に「不」の字を書き足しているのはそういうことだと思う。沈細を寸口で診ることには同意している。本当は「其脈口當沈細」に作る版本が有れば一番すっきりするのだけれど、残念ながらそういうものは見つかってないようである。(言うまでも無いと思うが、脈口も寸口も気口も、時代の差、学派の違いはともかくとして同じこと。)
 もう一つの可能性として、尤怡『医学読書記』では、趺陽脈であると言う。これに対して、多紀元堅『素問紹識』は、「趺陽を診ることは、仲景に剏まり、内経には未だ見ざる所なれば、則ちこの説もまた従い難し」と言う。本当にそうですか。『内経』に、はっきりと趺陽の脈を診るという記述が無いというのは、茝庭先生に敬意を表して認めるとして、それらしいものなら『霊枢』には有ると思う。
 『霊枢』動輸篇に、「黄帝曰:經脈十二,而手太陰、足少陰、陽明獨動不休,何也?」とあるが、この手太陰は寸口、足陽明は人迎である。残るところ足少陰は何か。実際には衝脈である。胃から生じた清気が肺に上って、手の太陰に入り、腕関節に至って、寸口の脈動となる。悍気は頭に衝き上げ、咽を循り、空竅に走り、眼系を循り、腦を絡い、頷(顑)に出、客主人に下り、牙車を循って、足陽明に合し、下って人迎の脈動となる。もう一つは、足少陰とともに腎の下から気街に出、下肢を下り、踝から出て跗上(足の甲、附と趺は通じる)に属し、つまり趺陽の脈動となる。手太陰と足陽明が診脈の処なら、足少陰だってそうでしょう。ここでは足少陰であると言い、また実は衝脈と思しい。しかし、また足陽明でもある。『素問』瘧論に「足陽明之瘧……刺足陽明跗上」とあり、王冰注に「衝陽穴也」と言う。足陽明を胃脈と言うことは、『内経』の随所に見られる。人迎と衝陽が足陽明の上下の代表的な搏動であるとすれば、甚盛が人迎であれば、もう一つの沈細のほうは衝陽であると考えるのが、むしろ普通かも知れない。この場合には、「當候胃脈」の胃脈は足陽明脈であって、胃脘に癰が有るような場合には、その起点である衝陽の脈は沈細のはずである。起点こそが元来の診断点という認識も有ったかも知れない。しかし、その反動として止点の人迎の脈は甚盛となっているはずで、それこそが胃に熱が有り、胃口に癰をできていることを直接に表現する。
 呉崑や馬蒔や張介賓が、胃脈を右の関(寸関尺の関)とするのは、全くお話にならない。多紀元簡が「寸関尺の脈を以て、五蔵六府に配するものは、『難経』以後の説」と切り捨ててます。
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