靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

脈診

 脈というのは、文字の成り立ちからして、どうしたって血管のことである。そして脈診というのは、脈の状態を診ることであって、今いうところの脈診は結局のところ動脈の搏動を診ているのであるから、そのごく一部ということになる。で、最も深刻な問題は、動脈の搏動と健康状態は相関するのか、である。まあ、これを疑ってしまってはどうにもならないのであるから、これは認めるとして、動脈の搏動と経脈の状態が相関するかどうかは、やっぱり問題だろう。ここでいっている経脈とは、此処と彼処を結ぶ仮想された線条のことであって、物質的には血管と相似のものと考えられてきたが、現代医学によって血管の効能としては否定された働きを担うべきもののことである。
 現代医学によって否定されたのであれば、全身を栄養する効能(これは血管の効能と言い換えてしまって良い)と、診断と治療の系統は独立させて考えたほうが良い、と基本的には思っている。では、動脈の搏動と診断と治療の系統をどう関連づけるのか。そもそもそれは妄想に過ぎなかったのかも知れないけれど、そういってしまうのは如何にも惜しい。やっぱり脈診は脈の様々な状態を診ることであって、その脈は血管から意味を広げて縦のスジのことであって、そのごく一部である動脈の搏動はそのスジの状態を推し量るための傍証に過ぎないけれど、他にたよりになりそうなものは無いのだから、やっぱり最も有効な判断材料である、といったところか。
 健康状態を反映して動脈の搏動に異常が起こっているとしたら、何らかの方法で動脈の搏動を正常にもどせば、健康状態も改善するのではないかと期待する。身体の各部分の異常に応じて、脈動が変化する部位に特徴が有るとすれば、その変化が起こった部位の脈動を操作するのが当然であり、上手くいく可能性も高いと期待できるだろう。だから身体のあちらこちらに診断と治療の点を設ける方法のほうが、古くかつ確かである。それを、独り寸口を取る方法に改変したのは、手軽さを求めるともに、理論の美しさを追ったせいという恐れがある。診断点は統合したけれど、治療点はさすがにそうはいかなかった。そこで、脈診しては刺針し、また脈診して効果を確認する。手順としては美しくなったが、空理空論が紛れ込むおそれも出てきた。断じて行えば鬼神もこれを避ける、というのが唯一最大の支えでは如何にも寂しい。

Comments

Comment Form