『鍼灸OSAKA』という雑誌に、「中国古典医学書を愉しむ」と銘打った座談会が掲載されました。我ながら言い足りないし、何でこんな誤解を招きそうな言い回しをと思うところが有ります。誰かから指弾されて付け加えたり、言い直したりしなければどうにもならないと思うけれど、取りあえず前もって一つ。
『霊枢』では「経脈は循環していないみたいだ」と言いました。これは極めて不親切な言い方で、実は『霊枢』の中でも多くの箇所で経脈は循環しているんです。でも、その経脈はおおむね血管のことであって、『霊枢』の編纂者が高らかに宣言している新しい針治療は、それとは違う性質のものだろうということです。その意味における経脈は別段循環なんかしてないし、今われわれが現に試みている治療においても実はそうだろうということです。つまり身体のどこかに異常が生じるとそこから離れたところに反応が生じ、その反応を何らかの方法で是正できれば、患部も治癒する。そういう針治療を構想し、そういうことが可能である前提として、両者を結ぶ経脈というモノを仮設した。
血液循環を是正する針治療や、筋肉の連なりの歪みを調整する針治療を、否定するつもりは毛頭有りませんが、コードの先の電灯をもう一方の端にあるスイッチをオンオフすることによって点滅させる試みのほうが、『霊枢』編纂者の主張したかったことではないかと思うのです。そして、その試みは未だ充分には展開されてないと思うのです。
「古典はその意を意図的にわからないように書いてある所が多くあるんだ。」
そんなのは寝言です,気にしないでいいです。
と言うのはまあ願望でもある。「意図的にわからないように書いて」あって,しかも伝承者が死に絶えていたら,もう我々には手も足も出ない。
確かに内経中にも,その人に非ざれば伝えることなかれとか,それは口伝であるとか,言っているところは有る。でもその口伝とやらを結局書き記しているでしょう。本当は,神医が隠し立てなんてけちくさいことをする必要はない。懇切丁寧に書いてくれても我々のような凡人には容易には理解できません。それに大名人は,とかく文章が下手です。
後代になると自分たちの権益をまもるために隠し立てするようになったらしいけれど,そんなことを大名人や神医もやったと考えるのは,下司の勘ぐりというものです。
口伝がどうのこうのと言う箇所でも,隠し立てというよりは,文章では上手く表現できないと言っているでしょう。医の道を究めるには,誦、解、別、明、章と,様々な努力が必要と言っているでしょう。一読して判らないからと,著者を責めるわけにはいきません。いや文章の下手は責めてもよいけれど,理解できないのは,所詮はおのれの能力と努力の不足です。
逆恨みはみっともないからやめましょう。
「これからの鍼灸師は、英語と中国語を話せなければだめだ。」そうですか?「これからの鍼灸研究家は、中国語を読めなければだめだ,話せなければ極めて不利だ」なんだと思いますよ。それに代わる「何か」をもっていればなんとかなるでしょう。まあ,そんなことを言いうるのは我々の世代が最後の最後かも知れない。先日,北京で合っていた留学生に,当分負けるとは思わないけれど,彼らの同世代が中国語が話せないで彼らと太刀打ちするのは無理かも知れない。韓国の内経学者は大抵は中国語を話すけれど,中国の学者や日本の物好きがもっている「何か」を,彼らが手に入れるのには何かの異変が必要だと思うから,相当長い当分の間,彼らに負けることは無いだろうと思う。
「何か」って何だ?って解説したんじゃしょうもないけど,要するにテキストクリテイクをシコシコやるような物好きとか,師匠にくってかかるようなおっちょこちょいの出現です。中国には文献の研究者と,新システム構築の責任者の地位が一応確保されているから良いけれどね,より儒教精神と案外強烈な功利主義に富んでいる小中華には難しいんじゃなかろうか,とね。文献は中華から下賜されれば良い,とまでは思ってない,と思うけどね。
臨床の足しにするために読むしか立場が無い世界の内経研究には,ほとんど興味が無いということ。
私は別段,学校教育に関与しているわけではないけれど,仲間内で教鞭をとるものがチラホラでてきたし,中国へいくと向こうの教育者に会うことが多いので,そこそこ事情を知るようにはなっている。
中国においては,古典に関わる人に三種類があるように思う。
第一は中医の臨床家で,臨床の参考として読んでいる。悪く言えば,役に立ちそうなところをつまみ食いしている。役に立っているのであれば,実はそんなに悪いことでもない。ただ,我々としては古典世界を中医学的に読み解いてもらってもどうにもならないわけで,だからほとんど交際が無い。
第二は,文献学者が研究の対象として読んでいる。我々が中国で付き合うのはこの種の人たちで,彼らの中のごく優秀な人が校訂したテキストや,開発した古典の読解法を,我々は有り難く頂戴しているわけだ。普段はつまり医古文の教員で,中国へいくたびに教育の悩みを聞かさせる。授業時間の不足と,熱心な学生の少なさである。熱心かつ優秀な学生は,ほとんどが文献系から流れてきたものたちだそうで,つまりこのグループの性格の秘密がそこにある。
第三は,この存在に私が気付いたのは実はまだごく最近で,つまり古典に書かれた情報から,古代の医学の実体を再構築して,未来の医学に示唆を与えたいともくろんでいるらしい。彼らは第一、第二のグループからはあまり好かれていないかも知れない。一字一句なんかどうでも良いから要するにどうなんだとせまるし,現在の臨床のたてまえを破壊しかねないことを平気で言う。それはまあ煙たいでしょうなあ。
日本においては,本当は臨床家がつまみ食いすることしか無いのかも知れない。学校教育に古典を取り入れだしたと言っても,所詮は学校の宣伝用お飾りのようなもので,学生の無関心さは中国の教員が嘆くレベルにも到底達していない。中国学の先生方がやっていることは,内部で充足してしまってほとんど漏れ聞こえてこない。学会があれば特別講演とか称して引っ張り出されても,所詮は学会のお飾りのようなものである。
で,自分はどうかと言うと,例えば『太素』などは一字一句に拘っているけれど,これはパズルを解いているのと同じようなもので,ほとんど道楽であって,同好の士は増やしたいけれど,是非一緒にやりましょうとはとても言えない。それとは全く別に,例えば『霊枢』などは,現在の陰陽五行説で説明される臨床マニュアルに安心立命できないから,破壊的かつ建設的に読んでいるのであって,もう少し信じられる古典世界を求めて足掻いているのであって,今のマニュアルで全然困っていない人を,何も引きずり込むことはない。
今現在やっていることは『太素』の校訂と『霊枢』の臆解です。
『太素』の校訂は,これはもう一字一句をしつこく追求しています。すでに趣味あるいはむしろ道楽の領域で,パズルを解く楽しみ,推理小説の犯人割り出しの醍醐味といったところです。
『霊枢』の臆解は,要するに,「だからどうなんだ」を追求したいと思っています。古代の名医が発見したこと,あるいは発見したと思ったことは何か,それが理想的に発展したらどうなっていたはずであるか,どのように整理すれば使えるか。役にも立たない科学史的興味,愚にもつかない古代的迷妄は,この際棄てます。信じがたい神秘は,所詮信じられない。
だから,これは私としては極めて臨床的な営為なのです。これ以上に臨床的な世界は無い。
先生から授かったマニュアルをなぞることが臨床的だと思っている人とは立場が違う。それはまあそういう素直な人のほうが術者には向いているかも知れないけれど,生まれついた性格はどうにもならない。羨んだってしょうがない。
で,『霊枢』の世界で奔放に振る舞うためにも,その根底の経文をおさえるために,『太素』の一字一句にはしつこくあろうと思っているわけです。
ここで話題にするようなことには,所詮正解などは無い。だからみんな愚答です。愚答しか返ってこないのが分かっているのに質問する,勿論みんな愚問です。
でも,愚問と愚答をおそれて静かにしていたんでは,何もおこらない。取りあえず愚答、妄言を積み重ね,毒気を発し続けて,現在の「何となく分かったつもり」の古典世界の破壊をもくろんでいます。
そういえば,北京も現在「取りあえず」破壊の真っ直中です。再建される北京が,より良いものになるように,みんなでお祈りしましょう。
満足のいくような答えは無いんでもうしわけない。
『難経』六十八難の「井主心下満,滎主身熱,兪主体重節痛,経主喘咳寒熱,合主逆気而泄」は,つまり井滎兪経合に五行に基づいて五蔵を配し,その主要な病症を配したのだと思います。ただし,『難経』は理論の整合性を重んじた書物ですから,用心してかかる必要が有ります。(つまり,無理なでっち上げも当然多い。)
そもそも『霊枢』では末端から冬・春・夏・長夏・秋と並べています。順気一日分為四時篇の腧穴の使い分けに,冬もしくは蔵に問題があるときは本輸穴のうちの井穴を取る,春もしくは色に変化が見えたときは滎穴を取る,夏もしくは病が時に間し時に甚だしいというときは輸穴を取る,長夏もしくは変化が音に現れたときは経穴を取る,秋もしくは飲食不節によって得た病には合穴を取る,というのが有りますね。冬から始まるのは不思議なような感じもするけれど,陰陽論から言えば,冬至に一陽が生じて,次第に陽が盛んになるのだから,そのほうがある意味で理にかなっているわけです。『難経』七十四難で春から始めるように変更したのは,果たして新たな経験なのか,それとも理論応用の変更にすぎないのか、ちょっと難しいところでしょう。
『素問』『霊枢』には本輸の使い分けに関する記述はあんまり無い。季節に応じて何処を取るべきかという記述があって,その中に分肉とか腠理とかいう言葉に混じって,井・滎・兪・経・合という文字もちらほら見える。これをひっくり返して,井滎兪経合による表を作れば,井は冬だとか,冬は陰の極であるから同じく陰の極である蔵ともかかわるとか,になるわけです。ところが『難経』のように井を冬から春に配置転換すると,配当するものにも変更が必要になるわけで,春は木で肝でその主要な任務は疎通させることだから,それに異常が有れば,滞って「心下満」ということになる。まあ,そういったカラクリだろうと思います。
それはそうとして,井穴の威力は大変なもののようで,陰の極にも陽の極にも良く効くらしいから,『霊枢』の配当だろうと,『難経』の配当だろうと,まあどっちでも大丈夫です。
本当は兪か経あたりがニュートラルで,それより末端側を取るか躯幹側と取るかで陰陽に対応する,と言いたいんだけど,なかなか上手くおさまらない,というのが現在の私の思考の限界です。
内経医学に於いては、正しい回答などというものは無い。問いに託けて、自分の妄想を言い散らすだけのことである。
最新の質問の一つに、経脈を流れる気とは何か?というのが有る、というのにも既に自分が話したいように質問をねじ曲げている気配が有る。
そもそも経絡には3つの要素が混淆していると考える。一つは血管、一つは経筋、そして患部と診断兼治療点の間に仮設した線。この最後のものが他の世界の医学には無いもので、少なくとも体系としては無いもので、針灸医学の拠って起つべき地である。
で、さてそこに流れるものは何か?つまり信号が伝達されるわけだけれど、それを担うものは何か?分からない。名づくべくも無いものに、仮に名づけて気という。
気とは何ぞや、はどうでも良い。
どことどことが繋がっているのか、どのように繋がっているか、此処でどう信号を送ると彼処でどう反応するか(どう反応したと古代の名医は言っているか)。仮設した線に実体が有るかどうか、実体が有るとしたらそれは何か、は問わない。問うても正解が有るわけがない。実体が有るかどうかが分からないものに流れている(ことになっている)ものの実体なぞ、分かるわけが無い。
当然と言えば当然だけれど、中国には中医学に基づく中国針灸が有り、韓国には韓医学に基づく韓国針灸が有るのだそうです。それどころか、欧米にはヨーロッパ文明に裏打ちされた欧米針灸が有り、世界各地には民族や土地柄などの個性を伺わせるような世界針灸が芽生えているそうです。
そこで日本にも日本針灸の誕生が、旗揚げが望まれる。
お言葉ですが、日本針灸なんか要らない。少なくとも私には関心が無い。有るべきものは、取りあえずは『霊枢』針灸、それでは足りない部分を『素問』や『明堂』、あるいは『諸病源候論』あたりにも加勢を願って、内経系針灸を確立させたい。その後は各々が気に入った医書や経験を加味して百家の流派を立てれば良い。仲間が日本人だって、中国人だって、欧米人だってかまったことは無い。ただ、アーユルヴェーダ風針灸だとか、アラビア医学風針灸とかは、仲の良いお隣さんにはなれても、仲間ではない。
お言葉通り、日本の医学界に哲学が欠如しているのは古来のことです。かつては有ったと思っているものも実は古代中国哲学でしょう。つい先頃はヨーロッパ哲学だったかも知れない。自前の哲学って何のことでしょう、そんなもの有りましたっけ。無理に探すと新興宗教になってしまいそうなんですが。
だから、ましてや、現状の臨床各派の平均を取って「日本針灸」なんて言ってみてもしょうがない。少なくとも各派が各派の成立の歴史を互いに説明できなければ融合なんてできるわけがない。根幹をなす理論のよりどころを、きちんと説明できる流派が有るとは、今のところ思えない。「だって先生(先輩)が言ったんだもん。」
もともと五蔵の診断兼治療点は腹部に在って,おそらくは今言うところの募穴であって,それを臨床の都合から腕踵関節に移動させて,原穴を五蔵の診断兼治療点とした。それが現在の『素問』三部九候論における脈診であって,だから内経には募穴が無いとか,『霊枢』には三部九候診が無いとか言うのは,表面的な見方にすぎないと思う。『素問』の三部九候診自体も,文章の構成から見れば,中部・下部の天地人を手足に配当する部分はおそらくは後人による解釈の付け足しだろう。本来,五蔵の病は表面から五蔵を触知できる(と考えられる)ポイントを活用して治療したのであって,そうすることには種々の差し障りが有って(当時の針を腹部に使用するのには危険が伴ったと思う。),だから四肢へ移動させたんだろう。で,四肢の原穴で埒があかなければ,思い切って腹部を試してみる。現今の針なら,多分そんなに危険は無い。