古典について
- 医論異論
- by shenquzhai
- 2006/11/17
今現在やっていることは『太素』の校訂と『霊枢』の臆解です。
『太素』の校訂は,これはもう一字一句をしつこく追求しています。すでに趣味あるいはむしろ道楽の領域で,パズルを解く楽しみ,推理小説の犯人割り出しの醍醐味といったところです。
『霊枢』の臆解は,要するに,「だからどうなんだ」を追求したいと思っています。古代の名医が発見したこと,あるいは発見したと思ったことは何か,それが理想的に発展したらどうなっていたはずであるか,どのように整理すれば使えるか。役にも立たない科学史的興味,愚にもつかない古代的迷妄は,この際棄てます。信じがたい神秘は,所詮信じられない。
だから,これは私としては極めて臨床的な営為なのです。これ以上に臨床的な世界は無い。
先生から授かったマニュアルをなぞることが臨床的だと思っている人とは立場が違う。それはまあそういう素直な人のほうが術者には向いているかも知れないけれど,生まれついた性格はどうにもならない。羨んだってしょうがない。
で,『霊枢』の世界で奔放に振る舞うためにも,その根底の経文をおさえるために,『太素』の一字一句にはしつこくあろうと思っているわけです。
『太素』の校訂は,これはもう一字一句をしつこく追求しています。すでに趣味あるいはむしろ道楽の領域で,パズルを解く楽しみ,推理小説の犯人割り出しの醍醐味といったところです。
『霊枢』の臆解は,要するに,「だからどうなんだ」を追求したいと思っています。古代の名医が発見したこと,あるいは発見したと思ったことは何か,それが理想的に発展したらどうなっていたはずであるか,どのように整理すれば使えるか。役にも立たない科学史的興味,愚にもつかない古代的迷妄は,この際棄てます。信じがたい神秘は,所詮信じられない。
だから,これは私としては極めて臨床的な営為なのです。これ以上に臨床的な世界は無い。
先生から授かったマニュアルをなぞることが臨床的だと思っている人とは立場が違う。それはまあそういう素直な人のほうが術者には向いているかも知れないけれど,生まれついた性格はどうにもならない。羨んだってしょうがない。
で,『霊枢』の世界で奔放に振る舞うためにも,その根底の経文をおさえるために,『太素』の一字一句にはしつこくあろうと思っているわけです。
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