靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

古典について ふたたび

私は別段,学校教育に関与しているわけではないけれど,仲間内で教鞭をとるものがチラホラでてきたし,中国へいくと向こうの教育者に会うことが多いので,そこそこ事情を知るようにはなっている。
中国においては,古典に関わる人に三種類があるように思う。
第一は中医の臨床家で,臨床の参考として読んでいる。悪く言えば,役に立ちそうなところをつまみ食いしている。役に立っているのであれば,実はそんなに悪いことでもない。ただ,我々としては古典世界を中医学的に読み解いてもらってもどうにもならないわけで,だからほとんど交際が無い。
第二は,文献学者が研究の対象として読んでいる。我々が中国で付き合うのはこの種の人たちで,彼らの中のごく優秀な人が校訂したテキストや,開発した古典の読解法を,我々は有り難く頂戴しているわけだ。普段はつまり医古文の教員で,中国へいくたびに教育の悩みを聞かさせる。授業時間の不足と,熱心な学生の少なさである。熱心かつ優秀な学生は,ほとんどが文献系から流れてきたものたちだそうで,つまりこのグループの性格の秘密がそこにある。
第三は,この存在に私が気付いたのは実はまだごく最近で,つまり古典に書かれた情報から,古代の医学の実体を再構築して,未来の医学に示唆を与えたいともくろんでいるらしい。彼らは第一、第二のグループからはあまり好かれていないかも知れない。一字一句なんかどうでも良いから要するにどうなんだとせまるし,現在の臨床のたてまえを破壊しかねないことを平気で言う。それはまあ煙たいでしょうなあ。
日本においては,本当は臨床家がつまみ食いすることしか無いのかも知れない。学校教育に古典を取り入れだしたと言っても,所詮は学校の宣伝用お飾りのようなもので,学生の無関心さは中国の教員が嘆くレベルにも到底達していない。中国学の先生方がやっていることは,内部で充足してしまってほとんど漏れ聞こえてこない。学会があれば特別講演とか称して引っ張り出されても,所詮は学会のお飾りのようなものである。
で,自分はどうかと言うと,例えば『太素』などは一字一句に拘っているけれど,これはパズルを解いているのと同じようなもので,ほとんど道楽であって,同好の士は増やしたいけれど,是非一緒にやりましょうとはとても言えない。それとは全く別に,例えば『霊枢』などは,現在の陰陽五行説で説明される臨床マニュアルに安心立命できないから,破壊的かつ建設的に読んでいるのであって,もう少し信じられる古典世界を求めて足掻いているのであって,今のマニュアルで全然困っていない人を,何も引きずり込むことはない。

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