周痺と衆痺
- 医経
- by shenquzhai
- 2006/05/07
『霊枢』周痺篇は分かりにくい。分かりにくいけれども、その分かりにくさは主にその構成に在る。それを整理してしまえば、それほど特に分かりにくいと言うこともない。
まず黄帝と岐伯の周痺の範囲が違う。どうしてそんなことになったかと言うと、つまり当時の医学界の常識と、『霊枢』の編者の主張が異なるということであろう。黄帝は、血脈に在るのか分肉の間に在るのか、脈に随って上下するのか左右に応ずるのか、と問う。岐伯はその両方である、しかしそれぞれに別の名前が有ると答える。
衆痺は、分肉の間に在って、その傷む箇所が決まっており、痛んだり治まったりし、右の痛みが治まったかと思うと左が痛み、それもかなり目まぐるしく代わる。痛みの移動と言うよりは、むしろ点滅と言ったほうが良いかも知れない。治療は、どのみち目まぐるしいのだから、治まっていてもかまわず術を施しておく。
周痺は、血脈に在って、脈に随って上から下へ、下から上へと伝わっていき、左右に移るわけじゃない。治療は痛みがの伝わるであろう先をまず刺し、しかるのちにおおもとに刺す。これにはむしろ神経痛のようなものを含んでいるのかも知れない。
辞書を引くと、痺はリュウマチのような症状と書いてあることが多い。これはいくらなんでも割り切りすぎた言い方で、本当はしびれを伴う痛みは何でも痺だったのだろう。
この篇の整理で一番の難点は、その痛みはいずこに生ずるか、何によって名づけられたかの説明の扱いである。風寒湿の気が分肉の間に客するとか、独り分肉の間に居るとかいう句が有るから、その段落の位置がどうして篇末なのかには眼をつむって、衆痺についての話だとしておく。風寒湿の気が分肉の間で沫となり、さらに寒に逢うとそれは凝集して分肉を裂いて、だから痛む。痛めば神気がそれを救いに集まってくるから熱が生じ、熱されて暖まってくるとその箇所の痛みは取りあえず治まり、他の箇所に痛みが生じる。だから「真気不能周,故命曰周痺」の周痺は、楼英に従って衆痺の誤りとしたい。
周痺のほうの、その痛みはいずこに生じ、何によって名づけられたかの説明はどうしたのか。風寒湿の気が血脈に客してどうのこうのという文章が有ってしかるべきではないか。あるいは「真気不能周,故命曰周痺」は、むしろその断片かも知れない。
整理すれば、この篇もそれほど特に分かりにくいと言うこともないけれど、それでも分かりにくいのは、『霊枢』の他の篇と同じことです。
まず黄帝と岐伯の周痺の範囲が違う。どうしてそんなことになったかと言うと、つまり当時の医学界の常識と、『霊枢』の編者の主張が異なるということであろう。黄帝は、血脈に在るのか分肉の間に在るのか、脈に随って上下するのか左右に応ずるのか、と問う。岐伯はその両方である、しかしそれぞれに別の名前が有ると答える。
衆痺は、分肉の間に在って、その傷む箇所が決まっており、痛んだり治まったりし、右の痛みが治まったかと思うと左が痛み、それもかなり目まぐるしく代わる。痛みの移動と言うよりは、むしろ点滅と言ったほうが良いかも知れない。治療は、どのみち目まぐるしいのだから、治まっていてもかまわず術を施しておく。
周痺は、血脈に在って、脈に随って上から下へ、下から上へと伝わっていき、左右に移るわけじゃない。治療は痛みがの伝わるであろう先をまず刺し、しかるのちにおおもとに刺す。これにはむしろ神経痛のようなものを含んでいるのかも知れない。
辞書を引くと、痺はリュウマチのような症状と書いてあることが多い。これはいくらなんでも割り切りすぎた言い方で、本当はしびれを伴う痛みは何でも痺だったのだろう。
この篇の整理で一番の難点は、その痛みはいずこに生ずるか、何によって名づけられたかの説明の扱いである。風寒湿の気が分肉の間に客するとか、独り分肉の間に居るとかいう句が有るから、その段落の位置がどうして篇末なのかには眼をつむって、衆痺についての話だとしておく。風寒湿の気が分肉の間で沫となり、さらに寒に逢うとそれは凝集して分肉を裂いて、だから痛む。痛めば神気がそれを救いに集まってくるから熱が生じ、熱されて暖まってくるとその箇所の痛みは取りあえず治まり、他の箇所に痛みが生じる。だから「真気不能周,故命曰周痺」の周痺は、楼英に従って衆痺の誤りとしたい。
周痺のほうの、その痛みはいずこに生じ、何によって名づけられたかの説明はどうしたのか。風寒湿の気が血脈に客してどうのこうのという文章が有ってしかるべきではないか。あるいは「真気不能周,故命曰周痺」は、むしろその断片かも知れない。
整理すれば、この篇もそれほど特に分かりにくいと言うこともないけれど、それでも分かりにくいのは、『霊枢』の他の篇と同じことです。
夜空の月が二重に見えるとでも言うのだろうか。なんだか奇怪な説明ではないか。この二月の月は渋江抽斎『霊枢講義』の引用に従ったのだけれど、原本では若干疑問が有る。そこで、袁昶本は問に作り、蕭延平本もそれを踏襲している。なるほど、门には近いが、どうしてさらに问にしたのかは不思議だ。それに、「如弟二問等」だってやっぱり不可解である。
実はこの字は原本では左のような形です。そして巻末の識語の同本は右のようです。つまりこれは「如弟二同等」で、第二の同じようなものが見えるというのではあるまいか。第は原本ではおおむね弟と書かれます。
『太素』巻27十二邪(『霊枢』口問篇)
左は『龍龕手鏡』口部去声から取った。嚏(嚔)はこのうちの或作。問題の文字は、この今とされる文字のやや変形したものであって、コンピューターで使える文字で一番近いものは啑であろう。『龍龕手鏡』では右部分の下方の人が廴のようになり、仁和寺本『太素』では左斜めはらい丿が亠の左端に達して庚となり、右斜めはらい乀が乚のようになる。啑噴鼻氣也は経文の「陽気和利にして、心に満ち、鼻に出る」とよく合っている。音帝も仁和寺本の左脇の書き込み都計反(杏雨書屋でほぼ確認できた)と同じ。ただし、啑はショウと読んで魚や水鳥がものを食べるさまを表すのに啑喋と用いるのが本来で、テイと読んで嚏と通じると言うのは、もともとは字形の混淆に始まるのではないかと思う。
また、仁和寺本では眉は実際には尸の下に月のように見える。『太素』巻十一・府病合輸に「膀胱病,……眉上熱若脈陷」云々とあり、この眉を『霊枢』邪気蔵府病形篇では肩に作っている。もともとは眉本であったか眉上であったか、はたまた肩上であったか、頗る疑わしい。