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損害賠償請求に感じる違和感

「出産するか人工妊娠中絶するかを自己決定する機会を奪われた」損害賠償請求に感じる違和感

                                  (2013年5月21日 室月 淳)

羊水検査の結果を医師が誤って伝え,その結果うまれたダウン症候群の児のご両親が,「出産するか人工妊娠中絶するかを自己決定する機会を奪われた」と1千万円の損害賠償を求める訴訟をおこしたことがおおきなニュースとなっています.NIPTの実施にあたって「自己決定」をつよく強調してきたわたしですが,この件についてはなにかしらひっかかりを感じています.同様にかんじていらっしゃるかたも多いと思います.

それはいったいなにか? この違和感は直感的なものであり,まだことばにうまく表現するところまできていないかもしれませんが,現在のトピックスであり,とりあえず現段階でいえそうなことをまとめてみます.時間をおいて改めてまた書く機会をつくりたいと思います.

なおわたしは,現行の母体保護法では胎児が障害をもつこを理由に人工妊娠中絶が認められていない,という立場にはたちません.もしそうだとしたら,ダウン症候群の児の出生を回避する方法は中絶しかないという医学的現実を考えると,医師には説明義務がないということになりますし,そもそも羊水検査をおこなったという意味もなくなるかもしれません.

経過は,妊娠初期にNTかなにかを認めたため羊水検査をおこなったのですが,E医師がその報告書を正常と勘違いし,異常なしと伝えたということです.別の病院で出産したところ,所見からダウン症候群を疑い,おそらく血液で確定診断されたのでしょう.問い合わせたところ,羊水染色体検査のレポートの読みまちがいであることが判明しました.

どこかのニュースで一瞬うつった染色体核型の写真で,あきらかに21番染色体が3本の標準型だったのを確認できたので,転座型とかモザイク型といった解釈がむずかしい特殊なタイプでなかったことはあきらかでした.E医師は某大学病院の産科の責任者をながらくおつとめになったかたであり,羊水検査などの遺伝学的検査のしろうとでは決してありませんので,これはあくまでも単純な医療ミスなのでしょう.

ダウン症候群の合併症のひとつであるTAM(一過性骨髄異常増殖症)のために,児は生後3か月で亡くなっています.ある種の運命にみちびかれて生まれてきた児でしたが,短い命であったのはご両親にも児にもお気の毒な気がいたします.しかし今回の一連のできごとのなかでご両親が失ったものがあり,それがあるからこそ損害賠償の訴えをおこしたわけです.その失われたものはなにか?

それは児の命ではありません.児がなくなったのは羊水検査とは関係のない合併症が原因でした.そもそも羊水検査でダウン症候群とわかったら,ご両親はみずから中絶する気でいたのでしょう.もしダウン症候群とわかったとしても初めから産む気でいたのでしたら,告知ミスについての精神的慰謝料として1千万円もの請求はしないでしょう.

本来は必要ではなかった出産にかかわる精神的肉体的負担,経済的負担でしょうか.また出生した児がダウン症候群の合併症のために集中治療を必要とした,その医療費でしょうか.また愛するわが子が病気で苦しみ,そして死んでいく,それをみとるご両親の精神的負担に対する慰謝料でしょうか.それはそのとおりです.しかし医療費と精神的肉体的負担にたいする慰謝料をすべてあわせて,それを1千万円として損害賠償を請求する行為はとても適切とは思えません.

仮に医療ミスがなく,その時点で人工妊娠中絶をしていたら,こういったわが子を看取らざるをえなかった精神的負担は当然存在しなかったわけです.E医師がイージーミスをしたことにより,本来ならば体験しなかっただろうわが子の出産を体験し,それまで予想もしなかった愛着が次第にうまれてきて,母子関係,父子関係が成立した.そのために児が合併症で苦しみ,最後は3か月の短い命をおえるのを看取らざるをえなかった.その精神的慰謝料として1千万円を請求するというのは,みずからの児への愛情という視点からはやはりあきらかに矛盾していると感じられます.

ダウン症候群の子がうまれ,そして生きていくこと自体を損害ととらえることはできません.いかなる事情があったとしても,うまれた子自体にはなんの関係もないことであり,その子が生きていくということは十分尊重され,大事にされなければならないでしょう.人として尊厳をたいせつにしてあげる必要があります.

子をうみ,その子を愛し,そしてその子をみずから看取らざるをえなかった悲しみ,苦しみ,つらさ,そういったものが実はご両親のうちにはあったのでしょう.その無念が,ミスをした医師にたいする憤りに結びつくのは,ある種自然な感情のなりゆきです.しかしもともと中絶を考えていたはずのご両親はそういったことをそのまま主張することはできません.

だからこそご両親の主張は,失われたものを「自己決定権」としたわけです.その自己決定権は「出産するか人工妊娠中絶するか」を決めるというものでした.しかし,上記のような児を看取らざるをえなかった精神的慰謝料といった要素をふくまない,純粋な「自己決定権の侵害」によって失われた損害ということになるでしょう.そこには医療費などの経済的損失のほかに,自己決定権が失われたことによる精神的ショック,ダウン症候群の子が生まれたという予想もしていなかった衝撃,医師にたいする信頼感の喪失,といったことが含まれます(それにしてもそれらにたいして1千万円は高すぎるかもしれません).

すなわち「出産するか人工妊娠中絶するか」を自己決定することは確かに権利として想定できますが,それは権利行使を阻害されることにより賠償が発生するようなものではないといえるのかもしれません.逆にいえば自己決定権を金銭によって他人に譲り渡すこともできません.このあたりはわたしもまだよく整理できていないのですが,たとえば自殺をすることが「自己決定権」のうちで,その権利を阻害されたので精神的慰謝料を請求することがおかしいように,人工妊娠中絶の自己決定権の阻害にたいしてもおなじようなおかしさを感じる気がします.

「両親には大変申し訳ないことをしたと思っている。院長はミスを認め謝罪してきたが、賠償金額で折り合えず、提訴に至ったことはとても残念」とあるように,E医師は全面的に責任をみとめて謝罪しており,医療費や慰謝料などを賠償することには同意していますが,さすがに1千万円というべらぼうな金額を要求されると,簡単に応じるというわけにはいかなかったと思います.

この件は医療ミスとはいえ,NIPTのことがなければこれほどのニュースとはならなかったでしょうから,E医師にも若干お気の毒だった面もあります.なぜ新聞報道で実名を挙げる必要があったのか疑問に思います.

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