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環境省による福島「全ゲノム解析」プロジェクトに賛同します

環境省による福島「全ゲノム解析」プロジェクトに賛同します

                              (室月 淳  2012年9月22日)

 はじめに

8月31日のmsn産経ニュースで以下のような報道がありました.

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http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120831/dst12083100360000-n1.htm

福島で「全ゲノム解析」 被曝調査で環境相表明 (msn産経ニュース 2012年8月31日)

細野豪志環境相は30日、東京電力福島第1原発事故の被曝による遺伝子への影響を調べるため、来年度から福島県民を対象に「全ゲノム(遺伝情報)解析調査」に着手する考えを明らかにした。

福島県立医大(福島市)で開いた私的懇談会の終了後、記者団に述べた。

細野環境相は「政府としてしっかりと(福島に)向き合っていく。遺伝子の調査はすぐに不安の解消にはつながらないかもしれないが、人間の根源的な遺伝子を調べることで将来への予防になる」と語った。環境省は子どもを中心に調べる方針。

細野環境相は県民健康管理調査や放射線の研究に加え、周産期・小児医療の拠点として福島県立医大が設立を構想している新しいセンターについて来年度予算の概算要求に61億円を盛り込む考えも明らかにした。

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環境省が音頭をとっている全国的なコホート研究であるエコチル調査の延長線上に構想されたプロジェクトのようです.しかしメディアをみている限りでは,このプロジェクトはずいぶん不評で散々叩かれているようです.たとえば翌日の毎日新聞夕刊にはゲノム医学の権威である中村祐輔氏の批判を取り上げて,以下のように報道しています.

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http://mainichi.jp/feature/news/20120901dde041040024000c.html

東日本大震災:福島第1原発事故 環境省、被ばく影響でゲノム調査 専門家は疑問の声 (毎日新聞東京夕刊 2012年09月01日)

環境省は31日、東京電力福島第1原発事故による被ばくが人の遺伝子に与える影響について調べるとして、福島県内の希望者のゲノム(全遺伝情報)を解析する調査を来年度から実施する計画を明らかにした。同省は「不安解消のために必要」と説明しているが、専門家からは「ゲノムを調べても被ばくの影響は分からず、税金の無駄遣いにつながる」との批判が出ている。

環境省によると、福島県立医科大と協力して、希望者からDNAを採取、ゲノムを解読して通常と異なる塩基配列や遺伝子の異常などを見つける計画で、必要経費を来年度予算の概算要求に盛り込む方針。額は億単位になるとみられる。

放射線は遺伝子を傷つけ、一部はがんなどを引き起こす。化学物質や放射線が子どもの健康に与える影響を長期間追跡する国の疫学調査「エコチル調査」に協力している一部の妊婦らから遺伝子を調べてほしいとの要望が相次いだという。

この計画についてゲノム科学の第一人者、中村祐輔シカゴ大教授は、人は元々少しずつ塩基配列が異なるのに加え、解析装置がエラー(配列の読み間違い)を起こすため、塩基配列の変異があっても被ばくの影響と断定することは不可能として「荒唐無稽(むけい)な計画」と批判。ゲノム解析が専門の宮野悟・東京大医科学研究所教授は「放射能の影響なのか分からない解析結果が勝手に原発事故と結びつけられ、福島県民の心を傷つけ、差別や偏見を生じかねない」と懸念を示した。

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分子生物学はしろうとに近いわたしが天下の中村祐輔先生にさからうのはとても畏れ多い(笑)のですが,しかしこれはとても意義の高い重要なプロジェクトではないかと思うのです.

 

 放射線の遺伝的影響はあるか?

この問いに対する答えが「ノー」であることは,以前に放射線の遺伝的医影響はあるかまとめたとおりです.しかしいまだに福島での風評被害はやみません.つい最近もある公益法人会長が講演で「福島など,関東の人とは結婚しない方がいい.子供産むと奇形発生率がドーンと上がる」などいったトンデモ発言をしています.福島の若い女性はいまだにこういた心ない発言や風評に苦しんでいます.

こういった発想はどこから出てきたものでしょうか.それはおそらく1950〜60年代当時の遺伝学者などに共有されていた危機感に由来するのではないかと思います.すなわちいかに微量な放射線であっても,それが長い期間にわたって人類集団のうえに降りそそげば,人類集団全体がうける放射線の総量(集団線量)はばくだいな量となり,その線量分だけ人類集団中に突然変異が蓄積することになるというものです.特に放射線の生殖細胞への作用が注目されその遺伝的影響が問題とされました.

電離放射線としてのX線の突然変異原としての研究は1920年代にさかのぼります.ショウジョウバエにX線を照射して突然変異を人工的に起こし,それらの突然変異体が自然突然変異体と同じ表現型であることを示しました.1945年の広島長崎の原爆投下による被爆,1954年の第五福竜丸漁船員のビキニ環礁での被爆,その後しばらく数多く行われた大気圏中核実験の放射線影響について世界中で関心がもたれました.

チェルノブイリ原発事故後の1988年に書かれた柳澤桂子氏「いのちと放射能」のなかにつぎのような記載があります(1).氏は60年代に生物学者としてのトレーニングを受けていますので,まったく同じような危機感を表明しています.

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放射線はDNAに傷をつけたり,切断したりして,突然変異を引き起こします.その結果,細胞がガン化したり,奇形児が生まれます.また,表面にあらわれないDNAの傷が子孫に伝えられますので,長い間に,生物の中にDNAの傷が蓄積していく可能性があります.

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わたしは柳澤桂子氏の著作の愛読者で,氏の深い洞察と美しい文章を愛するものです.ただ上記の文章は60年代の思想を色濃く引きずっており,この内容については若干の留保が必要だろうと思います.70年代以降に原爆被爆者における遺伝的影響に関する調査研究が進むにつれて,ヒトでは遺伝的障害の発生は当初予想されていたほどには大きくないこと,およびマウスを使った実験ではショウジョウバエの実験で得られた放射線遺伝学の知識をそのままヒトに適用するには問題が多いことなどがわかってきました.

 

 原爆被爆者における遺伝的影響に関する研究

親の放射線被曝が原因でこどもに遺伝的影響がもたらされるかどうかは,原爆が投下された直後から懸念されてきた問題のひとつでした.被曝の遺伝的影響については被爆者およびその子孫だけでなく人類すべての関心事です.そのためこれまでに臨床レベルからDNAレベルにいたるまでさまざまな遺伝学的調査が行われてきましたが,幸いなことにいずれにおいても被曝の影響は示されていません.

DNAを直接解析して突然変異を同定する技術がなかった当時は,遺伝子の産物であるタンパク質をたんねんに調べることによって遺伝子の変異を間接的に調べていました.当時の最新技術であったでんぷんゲル電気泳動法を用いた遺伝生化学調査です.被曝の合計平均線量が490mGyの両親から生まれた児から血液を採血し,4種類の血漿タンパク質と26種類の赤血球タンパク質の合計30種類のタンパク質のでんぷんゲル電気泳動法による検査を行いました.電気泳動移動度が正常型とは異なる変異型を検出されたときは,両親についても同様の検査を行い,こどもの変異型が両親にはないときに,この変異型を親の生殖細胞に生じた新規突然変異と判定しました.

30種類のタンパク質それぞれを構成するペプチドの遺伝子座相当数から計算された世代あたり・遺伝子座あたりの突然変異数は対照群で0.5x10e-5,被曝群で0.4x10e-5となり,両者間に有意差を認めませんでした.すなわち放射線の遺伝的影響を認めないという結論は,われわれ人類全体にとっての貴重な財産ともなっています.この10年間にわたり行われたタンパク質レベルの仕事がいかに膨大な時間と労力をかけて成し遂げられたかは,ウェスタンブロット解析に苦労した経験のあるわたしには容易に想像ができます.またこの電気泳動法で得られた自然点突然変異率の推定値は,近年のゲノムプロジェクトでの報告(2)にほぼ一致していることが興味深いといえます.

もしこの研究に方法論的限界があるとすれば,電離放射線が引き起こす突然変異は主に欠失型であり,電気泳動移動度の変化として検出されるような塩基対置換型の突然変異は少ないことです.もちろんそれは複数の遺伝子を巻き込んだ大きな欠失の可能性もあり,その場合は遺伝子量の不足によって優性形質を生じる可能性もありますが,精原細胞のその後の精子への分化ができなくなるのがふつうでしょう.仮に受精に成功しても胚が育つ可能性も低いと予想されます.

 

 全ゲノム解析調査の可能性

2000年代からはゲノム解析技術が一般的な研究室でも利用可能となったので,それに応じて高密度マイクロアレイを用いた個人ゲノムの調査が開始されています.今日の次世代シークエンシング技術に基づいてゲノムの塩基レベルでの放射線の影響を解析するのは非常にリーズナブルな発想です.親と子のゲノムの全塩基配列を直接比較し,子にのみみられる突然変異を検出できれば,被曝による遺伝的影響を評価できるでしょう.ただし自然に発生するde novo突然変異がありますので,これがnull distributionとしておくことになります.また放射線の影響が検出できても,その結果の意味を正しく理解できるかどうかはさらにその先の課題となります.

上記記事にみる批判は,中村祐輔氏の「人は元々少しずつ塩基配列が異なるのに加え、解析装置がエラー(配列の読み間違い)を起こすため、塩基配列の変異があっても被ばくの影響と断定することは不可能」と,宮野悟氏の「放射能の影響なのか分からない解析結果が勝手に原発事故と結びつけられ、福島県民の心を傷つけ、差別や偏見を生じかねない」というものでした.

中村氏の批判はあくまでも技術的限界に関するものですが,これは時間とともに解決することは明らかです.そもそもゲノム関係のテクノロジーは特に進歩が速く,昨日の常識が今日は通じないのはしばしば見られることです.アルゴリズムの改善で次世代シーケンサーのバリアント検出精度は日進月歩で上がっていますし,現行の次世代シークエンサーでも検体を「厚く」読むことによって,その精度を向上させることは難しくありません.どれだけの程度手間と費用をかけるかの問題です.血漿からひとつひとつのタンパク質をでんぷんゲル電気泳動法で解析していった膨大な手間を考えると,全ゲノム解析は決して乗りこえられない壁ではありません.

また「差別や偏見を生じかねない」というのは発想が逆立ちしており,いま存在している「差別や偏見」をなくしていくために放射線によるゲノムレベルの影響をみる必要があると思うのです.もし問題が生じるとすれば,それは全ゲノム解析によるプライバシーの侵害であり,インフォームドコンセントを含めたじゅうぶんに配慮されたプロトコールが求められるでしょう.

わたしの個人的な予想では,20 mSvの低線量放射線でも何らかのDNA傷害が同定されるでしょう.しかしヒトゲノム30億のなかで遺伝子のコード領域はたかだか1%強に過ぎず,さらに発生発達に関係する遺伝子はそのごく一部なので,個体の表現型はもちろん遺伝的影響を示すことはないだろうと思います.ネガティブデータがでることが予想されますが,そのネガティブデータということだけでどれだけ福島のひとたちが安心できるかは容易に予想がつきます.福島のひとたちを決してモルモット扱いしているわけではなく,研究によるメリットもじゅうぶん期待されます.

 

 ヒトゲノム計画の歴史 

実は意外なことに「ヒトゲノム計画」は,放射線が遺伝子にもたらす影響についての研究から発想されたもので,いちばん最初に計画をたてて予算化したのはアメリカのエネルギー省(DOE)であり,1980年代のなかばのことでした.1990年代にNIH(アメリカ国立衛生研究所)が加わって正式に「ヒトゲノム計画」としてスタートし,その後に日本やヨーロッパ各国が加わることになりました.

以下の内容は粥川準二氏「バイオ化する社会」(3)を読んで知ったことです.

http://www.ornl.gov/sci/techresources/Human_Genome/project/whydoe.shtml#whydoe

Why was the Department of Energy (DOE) involved in the Human Genome Project? (なぜDOEがヒトゲノム計画にかかわることになったのか?)

これはDOEのウェブサイトでの解説ですが,上記の問いに対して次のように答えています.

「原子爆弾が開発され,使用された後,アメリカ議会はDOEの前身機関に対して,ゲノムの構造,複製,傷害,修復,そして遺伝的変異の結果について,とりわけエネルギー生産によって生じる放射線や化学的副産物によって起こることを研究・分析するように指示した.こうした研究によって,このような影響を研究するための最良の方法は,ヒトのゲノム全体を分析し,参照用の塩基配列を得ることだという認識が高まった.」(前掲書より一部引用)

前掲書によると,DOEの衛生環境研究局長のチャールズ・デリシが,1985年にヒトゲノム計画を初めて公共政策としてとりあげましたが,そもそもそのゲノム研究の源流はマンハッタン計画までさかのぼり,原子爆弾投下後の生存者の細胞におこるDNAの変化を調べる研究に始まったとされています(4).

今回の環境省における福島「全ゲノム解析」プロジェクトもこのような文脈でとらえる必要があるでしょう.もしかするとアメリカ側の示唆があって考えられたプロジェクトなのかもしれません.

 

 おわりに

実は環境省のこの構想が発表されるだいぶ前に,わたしも出生児の臍帯血と両親のゲノム全塩基配列を比較することにより低線量被曝の遺伝的影響を直接明らかにすることはできないかと考え,知人の遺伝子専門家に相談したことがあります.その回答として,原理的には可能であるが,実際には時間と費用がかかり過ぎること,ネガティブデータがでることが予想されることなどの理由で,個人レベルの研究として行うのは無理だろうというものでした.研究としては意義のある内容なので,やるならば国レベルのプロジェクトで行うことが望ましいというわけです.

福島第一原発の事故はすでに起きたことで,もう取り返しのつかない痛恨事です.いまできることは直接,間接の被害をうけたひとたちを最大限に救済し,地域の復興を目指して努力していくことしかありません.それ以外にわたしたちにできることといえば,今回の事故を教訓とし人類の未来のために貴重な記録とデータを後世に残していくことだろうと思います.その意味で環境省が構想したこのプロジェクトはとても意義が高いものと考え,ここで賛同の意を表明したいと思います.

 

 参考文献

(1) 柳澤桂子:いのちと放射線,1988,pp70,ちくま文庫

(2) The 1000 Genomes Project Consortium: A map of human genome variation from population-scale sequencing. Nature 2010;467:1061-1073

(3) 粥川準二:バイオ化する社会,2012,pp79,青土社

(4) ロバート・クックディーガン,石舘宇人ほか訳:ジーンウォーズ,2000年,pp239-240.化学同人

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