日本赤十字看護学会災害看護活動委員会
委員長:浦田喜久子
委員:小原真理子 前田久美子
【熊本県看護協会】
熊本県看護協会では、協会長をはじめ職員の方々も被災され、避難所や車中泊をしながらも災害対応や災害支援ナースの派遣調整、その他の業務を不休で行われていた。地震により協会も建物内部の被害を受けライフラインも途絶えたが、業務は継続して行われた。現在は電気・水道も復旧したが、建物内部は未補修の状態であった。熊本県災害対策本部会議にも参加し密に情報共有や連絡調整が行われていた。
熊本地震による被災状況や災害支援ナースの派遣などについて話を伺った。また、日本赤十字看護学会災害看護活動チームが被災地に入りやすいように車に貼る「災害派遣」のステッカーも用意して頂いた。
【1.災害支援ナースの派遣(レベル1からレベル3へ拡大)】
熊本県看護協会は、4月14日地震発災後、4月15日から被災状況と共に現地を視察し、熊本県より災害支援ナース派遣要請を受け、県内の災害支援ナースを4月17日から益城町の3か所の避難所(グランメッセ、益城町保健福祉センター、阿蘇熊本空港ホテルエミナース)と宇城市美里町の避難所へ派遣(レベル1)。2人チームで、24時間2交代で被災者のケアにあたった。4月20日からレベル2となり、近隣県の看護協会から災害支援ナースが派遣され、3泊4日で交替しながら3市6町村(阿蘇市、宇土市、宇城市、大津町、御船町、甲佐町、高島町、南阿蘇村、西原村)の避難所に駐在し、支援活動を行った。被害が広域にわたり支援も長期化するとの判断によりレベル3となり、4月29日から全国の災害支援ナースが派遣され、3泊4日で駐在し3市7町村(熊本市、宇城市、阿蘇市、嘉島町、大津町、甲佐町、御船町、益城町、南阿蘇村、西原村)で支援活動を実施している。熊本県看護協会は、4月29日からは益城町1か所(保健福祉センター)で支援活動を継続している。
災害支援ナースの派遣については、県内は熊本県看護協会が調整し、全国派遣は日本看護協会が調整している。5月12日現在、熊本県看護協会では、延べ168名の災害支援ナースを派遣し、日本看護協会では、全国から述べ944人の災害支援ナースを派遣している。
※災害支援ナースの派遣
レベル1-熊本県内
レベル2-九州(福岡県、佐賀県、長崎県、宮崎県、鹿児島県、大分県)
レベル3-埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、滋賀県、京都府、大阪府、奈良県、山口県
【2.避難所の状況】
4月14日に前震、4月16日に本震、発生直後から17日には熊本県内避難所855か所に183,882人が避難。地震1週間後の20日には避難所660カ所に避難者は103,380人、4週間後5月8日も避難所342カ所に避難者13,883人、学校再開に向けて避難所が閉鎖され、5月12日現在、避難所253カ所に避難者は11,239人である。住家被害は75,530棟、断水は約4,200世帯。(データは熊本県災害対策本部発表)
学校区ごとに散らばっていた避難所は、5月9日より学校再開と共に縮小され、市町村ごとに1か所に集約されてきている。しかし、震度7の地震を2回受けた益城町は、発災後10カ所の避難所に16,050人が避難。5月12日現在15カ所に3,567人が避難。ほとんどの家屋が全壊、半壊で被災者が多く、3カ所に分散予定。仮設住宅は、6月中旬までに建設予定。
益城町保健福祉センターは、避難者275人。医療ニーズは少なくなった。常駐しているDMAT(災害派遣医療チーム)、自衛隊の救護所も引き上げる。益城町総合体育館は1,500人が3カ所に分散される。しかし、「家から遠いので、離れたくない」などで進まない状況ということである。
【3.支援活動について】
- 益城町保健福祉センター
熊本県看護協会災害支援ナースは、2人体制で夜間帯(17時~9時)に支援活動を行っている。夜間はJMAT(日本医師会災害医療チーム)による巡視や自衛隊の駐在がある。兵庫県チーム(保健師2人、事務2人)が常駐している。多くの支援団体が入っていて、統制がとれていない。被災者は、昼間は自宅のがれき撤去や仕事のために不在で、夜に戻ってくる人が多いため、夜間帯での健康状態の把握や対応が必要である。 - 熊本空港ホテル・エミナース
日本看護協会災害支援ナースが入っている。ホテルは営業再開し、避難者は少なくなっている。 - 益城町総合体育館
日本看護協会災害支援ナースは入っていない。保健師は入っている。 - 熊本市内避難所
熊本市民病院ナースが、各避難所に2人体制で支援活動を行っている。若葉小学校に、日本看護協会災害支援ナース2名が入っている。小学校は、自治会、市職員が入っており、自治会長がリーダーシップをとっている所もある。 - 御船中学校体育館
日本看護協会災害支援ナースが3泊4日で駐在。 - 南阿蘇中学校体育館(南阿蘇は、道路が寸断)
大阪赤十字病院のd-ERUによる診療所、キッズルームが設営されている。医療ニーズは減っており、クリニックでの診療再開のため、撤退予定。一時ノロウィルス流行の兆しがあり、感染対策の徹底、食中毒の衛生管理、避難所の掃除の徹底を救護班や保健師等が行った。 - 車中泊者
家屋の全壊、半壊が多く、余震が続いているため、車中泊者が多かった。エコノミー症候群予防対応もあり、車中泊は減ってきた。 - テント暮らし
テントでは熱中症対策が必要。トレーラーハウスを5月11日に試験的に1台設置し、50台まで増設予定で、熱中症対策設備をして、福祉避難所適応などを聞き取り調査後、実施される。 - 避難所の医療ニーズは減ってきており、病院・クリニックの診療が再開しているために医療救護は撤退するが、日本看護協会の対応としては、支援個所は3カ所(南阿蘇村、西原村、益城町)が増え、災害支援ナースの支援活動は継続する。
【4.要介護者への対応について】
- 医療ニーズは減ってきているが、介護ニーズは増えている。介護ボランティアを全国的に呼びかけている介護福祉施設もある(南阿蘇村ボランティアネットワークなど)。
- 福祉避難所は空いているが、介護する人がいないので入れない、スタッフが疲れている。
- 福祉避難所に一般の人が入っている。一方、一般避難所に要介護者がいる。
- 要介護者の介護保険審査の時期であるが、新しく申請する人の審査が進まない。
要介護者を次にどうするか、ケアマネジャーがいない、地域包括で回っている人が間に合わない、担当者は人数的にも少なく至っていないのが実状である。 - 5月13日から保健師による全戸訪問が開始されるが、どこに誰がいるか不明確。
【5.避難所生活支援における課題】
- 訪問看護師の活用
- 避難所ケアには、災害支援ナースだけでなく、訪問看護師の活用も検討する。訪問看護師は、在宅支援スキル、保健師へのつなぎ、ケアマネジャーへのつなぎができる。
- 避難所訪問によりニーズを把握し在宅ケアに繋げる。家が片づけられない、在宅したいが余震が続くので戻れない、などの住民の声が聞かれる。
- 避難所の運営について
- 避難所の統括リーダーの必要性
支援者は多いが、避難所の統括リーダーがいない。 - 避難所運営に必要な住民による自治
地域リーダーがいると自主運営に繋がる。 - 地域町内会のコミュニティ
小学校は、学校と自治会とが連携し運営している。自治会リーダーと日頃からのコミュニティができている。中学校は、様々な校区であるため難しい。 - 地域の人の防災意識、受援について
「災害の時はたよる、我慢しないで」といった自治会の中での話し合いが必要。
- 避難所の統括リーダーの必要性
【6.災害支援ナースのこころのケア】
災害支援ナースは活動終了後、熊本県看護協会で活動報告とデブリーフィングが行われる。災害支援ナース用の部屋は、リラックスできるように配慮されていた。活動していた災害支援ナースは「おいしいコーヒーをいただきながら、振り返りや話ができ、気持ちが落ち着く。」と語っていた。
熊本県看護協会災害支援ナース用部屋
熊本県看護協会にて
【益城町保健福祉センター避難所】
益城町保健福祉センターは、敷地面積7,928㎡、床面積3,004㎡の鉄筋コンクリート造一部鉄骨造2階建てで、保健福祉センターと児童館があり、駐車台数約140台の場所である。自衛隊、多団体、多組織チーム、ボランティアによる支援活動が行われていた。
熊本県看護協会の紹介で、災害支援ナース2人にインタビューと館内を案内して頂いた。
- 避難所の被災者の状況
避難者は275人。一般住民とともに要介護者が一緒にいる状況である。 - 避難所の生活環境
1) 居住空間ロビー、ラウンジ、多目的室、2階各室が被災者の居住空間となっていた。地区ごとにおおよそ固まっている。一家族ごとに床に敷物はしてあるものの間仕切りは使用されていない。顔が見えるようにという住民の要望による。支援物資として間仕切り段ボールは送られてきているという。通路は確保してあるが、プライバシーへの配慮はなく、休んでいる方々の顔をみながら通行する状態であった。昼間は、自宅のがれき処理や片づけ、あるいは仕事に行っている方が多く、夜になると帰ってくるので、夜は過密状態になるということであった。実際に玄関から入った廊下の両脇にも被災者の方が家族単位で場所を確保されていた。この状況は、発災直後とあまり変わらないということであった。玄関には段ボールで作られた下足箱(中学生達が作製)が設置され、地区別に番号が書かれて整理整頓されていた。
要配慮者への対応としては、家族が付き添う介護の必要な方(車椅子や杖歩行の方)に、センターの奥にある児童館が提供されていた。児童館では、2畳ほどの広さでカーテン間仕切りとダンボールベッドが設置され、13組が利用されていた。トイレは下水が使用できないため、災害用トイレ・自動パック式トイレが設置されていた。
乳幼児のいる母子には、2階の各室が提供されていた。診察室は、住民の治療・相談とともに支援者のミーティングや控室としても併用されていた。
館内トイレは使用不可で、館外に仮設トイレが設置されていた。ボランティアが定期的に掃除していて、清潔さは保たれていた。雨天用にテントが張られ、電気も取り付けられていた。手洗い場は、熊本赤十字病院が給水設備を設置し、手洗いと手指消毒が励行されていた。
歯みがき場が外に設置されていて、夕食後の歯みがきを被災者の方が順番に実施されていた。うがい水はペットボトル水が使用されていた。下水道が復旧していないため、下水のにおいは解消できていないということであった。
入浴は、自衛隊による入浴サービス(午後3時から10時)が実施されていた。
3) 電気電気は復旧し、館内は明るかった。夜間の消灯は22時ということであった。
4) 食事・水食事の配給は、朝はパン類、昼は自衛隊の炊き出し、夜は弁当が主である。食事の配給では、当初、一斉に並んで2時間待ちであった。整理券を配布し、長時間並ばなくてもよいようにした。5月13日からは、食事・弁当は、名簿を作成し食事カードによる配布とし、室内・室外の地区ごとに取りに行くように変更となった。
支援物資のペットボトル水のほかに、自衛隊の給水車輌による給水が行われており、車中泊や近隣の方の給水所にもなっていた。
5) 睡眠フローリングの床に畳や敷物を敷いた上での休息である。寝具は、配布された毛布や各自が持参した毛布を使用されていた。それでも夜は休めるようになってきたという。しかし、余震があるために子どもが不安で騒ぐこともあるということであった。
当初、区長の意向でダンボールベッドは設置しない方向であったが、膝痛のある方に対しては、途中でダンボールベッドが提供され、「寝起きが楽になった」ということであった。
6) 物資食料、飲料水、日用品、ペットフードなど、支援物資が積まれていた。
7) ペット対応ペット対応として、センターの出入り口の外側にペット用のゲージが設置されていた。ペット用品も自由に使用できるように配備されていた。
8) 医療ニーズ医療的には、発災から1~2週間は、内服薬切れや血圧などの問題が多かった。血糖値が500以上に上がり急変した人や熱発した小児もいた。徐々にこころのバランスの問題が出てくる時期なので、神戸日赤、DPATが入って対応している。医療ニーズは減ってきており、地域の病院も再開し、保険証がなくても無料で受診できるようになっていた。
9)情報提供玄関の掲示板や出入口、壁に様々なお知らせが貼られていた。連絡事項は、館内放送でも行われていた。児童館ではテレビも観られるようになっていた。
昼間は、罹災証明書手続きの受付が設けられていた。
- 支援体制
1) 多団体、多組織チームによる支援自衛隊、各県行政チーム、DMAT(災害派遣医療チーム)、JMAT(日本医師会災害医療チーム)、DPAT(災害派遣精神医療チーム)、JRAT(大規模災害リハビリテーション支援チーム)、日本看護協会、兵庫県チーム(保健師他)、保健師チーム、薬剤師会、歯科医師・歯科衛生士チーム、JDA-DAT(日本栄養士会)、DCAT(災害派遣福祉チーム)、その他のボランティアが入っており、それぞれの専門領域での役割が発揮されていた。しかし、避難所運営の統括リーダーは不明瞭であり、専門領域ごとのミーティングにより調整や継続した支援活動が行われていた。例えば、医療支援に関しては、JMAT、DMAT、DPAT、JRAT、保健師チームなどとのミーティングによる情報共有と調整、被災者の健康・生活支援に関しては、保健師チームと災害支援ナースとのミーティングで情報共有と調整が行われていた。
2) 災害支援ナースの支援活動について熊本県看護協会の災害支援ナースは、2人体制で17時から翌朝9時までの夜間帯に、3泊4日から1泊2日を5名のローテーションで入っている。同じ避難所で、ローテーションで活動することから、被災者のニーズの変化や経過がみれるということであった。
災害支援ナースの役割は、夜間帯の巡視、被災者の見守り、こころのケアなど、被災者に寄り添う支援活動を実施していた。
具体的な活動例としては、「小学校1年生の子どもで、学校が再開し不安が強いために母親と一緒に通学してもらった事例については、こころのケアをDPATや保健師につなげた。」また、「栄養士と相談し、子どもの補助食としておにぎりや野菜ジュースなどを出してもらった」、などがあった。
災害支援ナースは、支援者同士が顔の見える関係がとれるように、被災者の情報を提供したり話し合ったりして、“つなぐ”、“橋渡しをする”役割をとっていた。
「県内では自ら被災しながらも活動している人達がいる。自分たちもできることをやろうと思った」「県外の人がいっぱいいたら、自分達も頑張らなくては思う」「災害支援ナースとしての支援があるから活動できる」「活動終了後、看護協会でのデブリーフィングで、メンバーと話し、気持ちが楽になる」「行ったことのフォローや活動の意味づけができるようになった」など、災害支援ナースとしての役割意識やモチベーションの高さが感じられた。
そして、災害支援ナースとして活動するにあたっては、「所属施設の看護部長・看護師長からの『皆と一緒に活動していると思えば楽になるよ』といったバックグランドがあるからできる」、「人と人とのつながりがあるからできる」と語られた。所属施設の看護管理者の配慮や後押しが災害支援活動に繋がっていた。
【その他の学校避難所】
- 避難所の被災者の状況
南阿蘇村白水中学校、長陽町南阿蘇中学校、西原村河原中学校の避難所を訪問した。地域のコミュニティができている地域でもあった。避難者は地域の方々であり、昼間は自宅の片づけや農作業などを行い、夜は避難所で寝るという生活サイクルが定着しつつあった。学校も再開し、子どもたちも避難所から通学していた。 - 避難所の生活環境
1) 居住空間3カ所の避難所は、体育館が避難所となっていた。体育館内は、物資置き場になっている舞台や出入口に向かう通路が格子型に確保され、家族単位分の広さにカーテン間仕切り(1カ所)やローパーテーション間仕切り(2カ所)がされていた。5月2日にローパーテーションが設置された避難所の住民は、「いいよ、眠れるよ。催しなどは見えにくいけどね。」と語られた。間仕切りによって多少のプライバシーは保たれているようであった。下足箱はなく、靴は体育館出入口でビニール袋に入れ、自分の生活エリアに置くようにしている所もあった。
要介護者への対応は、特に見受けられず、一般の中に家族と一緒の生活だった。女性への配慮として、廊下に更衣用のテントが置かれている所もあった。学校が再開し、間仕切りのスペースで机もない床で勉強している子どももいた。避難所生活が長引くと子どもの学習環境への配慮も必要である。
2) 衛生環境館内トイレで水洗ができる避難所では、使用後はタンクに水を補充するように、水と柄杓が置かれ、注意書きが掲示してあった。学校の体育館のトイレは和式が中心で洋式は少ないため、高齢者に対しての配慮も必要であると思われた。
感染対策として、手洗い、手指の消毒、トイレの紙は流す、掃除の徹底がなされていた。
入浴は自衛隊による入浴サービスが行われていた。
水道による生活用給水が復旧し、洗濯機を設置している避難所もあった。
3) 電気電気は復旧していた。
4) 食事・水食料の不足は特に聞かれなかった。支援物資の菓子類は、住民の方は自由に好きなものを食べていいということで「肥っちゃうよ」と語られていた。飲料用水は、支援物資のペットボトル水のほかに、他県からの給水車輌による給水が行われていた。
5)医療ニーズ
南阿蘇中学校 大阪赤十字病院d-ERU
一時ノロウィルス流行の兆しがあり、感染対策の徹底、食中毒の衛生管理、避難所の掃除の徹底を救護班や保健師等が行い、終息したということであった。
南阿蘇中学校には、発災直後より大阪赤十字病院のd-ERUが駐在し、外来診療、手術、臨床検査、薬局のユニットがあり、キッズルームも設営してあった。大阪赤十字病院と高槻赤十字病院の救護班が8名編成で4泊5日のローテーションで、継続して診療が行われていた。地域の医院が再開し、医療ニーズも減ってきたために5月16日で撤退する予定であるということであった。
- 支援体制
各避難所では、自衛隊、行政、DMAT、日赤救護班、日本看護協会災害支援ナース、保健師チームなどが駐在し支援活動が行われていた。朝夕のミーティングで情報共有や調整が行われているということであった。被災者は、昼間は自宅に戻り、片づけや農作業などをしているので、保健師は4人体制で地域の全戸訪問調査を行っていた。
南阿蘇中学校での災害支援ナース
日本看護協会の災害支援ナースは、2人体制で3泊4日のローテーションで支援活動を行っていた。昼間は駐在する救護班が巡回診療を行い、災害支援ナースは、夜間帯の避難所の巡視、被災者の見守り、こころのケアを行っていた。