日本赤十字看護学会

学会出版物・報告

東日本大震災被災地における健康・生活状況の把握と支援活動報告

平成23年度日本赤十字看護学会災害看護活動委員会

東日本大震災で被災された看護職の皆様にはお見舞い申し上げます。

私たち日本赤十字看護学会災害看護活動委員会メンバーは、下記のねらいの元に、東日本大震災被災地における健康・生活状況の把握と支援活動を企画し、現地に入らせて頂きました。訪問先の方々との話し合いを通し、報告書をまとめましたので、学会HPを通してお知らせいたします。尚、今回は石巻赤十字病院看護部、石巻赤十字看護専門学校、有限会社あおい訪問看護ステーション、気仙沼市面瀬中学避難所について報告いたします。

【ねらい】

発災1カ月半後における被災地の災害対策本部、病院、避難所等を訪問しながら、被災者の健康やくらしの視点から看護ニーズ等を把握し、学会のホームページやニュースレターを通して、日本赤十字看護学会に所属する会員に実態を伝える。また日本赤十字社看護部の構想に対応し、被災地における看護・介護チームによる中長期の健康・生活支援活動計画への一情報として伝える。

【活動目標】

  • 宮城県看護協会・日本赤十字社宮城県支部より、中長期支援の活動計画や課題について、実態を把握する。
  • 気仙沼市面瀬中学校避難所の訪問により、被災者の生活と健康状態から看護ニーズを把握する。
  • 石巻赤十字病院では、看護管理者から被災病院の役割や看護活動の経緯について把握する。
  • 1、2、3については、日々の記録を行い、学会HPやニュースレター掲載に繋げる。

【参加メンバー】

本委員会メンバー4名、記録者および運転手計2名

【訪問地域と訪問先:宮城県仙台市、石巻市、気仙沼市】

  • 宮城県看護協会
  • 有限会社あおい訪問看護ステーション
  • 日本赤十字社宮城県支部
  • 気仙沼市面瀬中学避難所
  • 石巻赤十字病院看護部
  • 石巻赤十字看護専門学校仮校舎

【交通手段・日程と経路】

  • レンタカー(8人乗り4WD、救援物資、荷物搬送のため)
  • 4月23日(土)
    5時出発:日本赤十字看護大学~首都高~東北自動車道~仙台市~宮城県看護協会・日本赤十字社宮城県支部訪問・支援活動~塩釜市宿泊
    4月24日(日)
    塩釜市~気仙沼市面瀬中学避難所~塩釜市宿泊
    4月25日(月)
    塩釜市~石巻赤十字病院訪問~帰省

【各訪問先の報告】※各訪問先の報告にリンクしています。

石巻赤十字病院 看護部

石巻赤十字看護専門学校

有限会社 あおい訪問看護ステーション

気仙沼市立面瀬中学校避難所

石巻赤十字病院 看護部

1. 被災から1か月半経過しての病院の現状について

院内の医療と地域・避難所、住民に対する医療救護が切り離されている。被災地の救護は宮城県災害医療コーディネーターが一元的に統括する石巻圏合同救護チーム編成されエリア・ライン制を導入し全国各施設からの救護班が協働していた。看護部は、病院内での医療と看護の体制作りを担っていた。石巻赤十字病院が本来担わなければならない、医療と看護の部分において、今できる最大可能なことは何かを診療部と話合い、活動することができた。被災を受けたスタッフに対しても早い時期に支援が得られたので、円滑に活動ができた(詳細は後述)。

東日本大震災被災地における報告

石巻市内

地域の医療体制から、産科の必要度が増すことが考えられ、本社支援により助産師の派遣数を増やして、3月は通常45~50人のところ99人のお産に対応した。

1) 患者の来院状況と対応

発災直後は、津波による低体温症や外傷が多かった。現在は、循環器疾患、肺血栓症、消化器系・胃潰瘍、吐血・下血、肺炎が多くなっている。災害関連といえる避難所生活によるADLの低下から、起こるべきして起こる疾病がみられた。

救護班は地域の救護所で活動し、開業医も再開できるようになり、病院は、救急患者を中心に受け入れている。救急センターの受診者は発災3日目がピークとなり1200人に上った。その後絶対数は減少しつつあるが、現在も150人前後の受診患者がおり平時に比するとまだ3倍以上の受診状況である。現在平日の昼間は、一般外来で診察対応している。しかし、土日、夜間は、地域の開業医の休日体制・夜間体制が崩れ診療ができないため、救急センターに加え、黄・緑エリアの患者を健診センターで受け入れ診療を行っている。このエリアには本社よりER看護師の応援派遣を受け機能させている。入院ベッドはまだ、救急患者を優先して確保している。そのため、通常の入院治療の必要な患者(がんの手術、化学療法など)の受け入れが滞っている。ベッド確保できなかった緊急患者は、仙台や他の地域へ搬送しているが、交通手段が限られるため、地域での治療を再開することが急務である。急患を受け入れられるのが石巻赤十字病院だけであり、現在、急患のコントロールが大きな課題である。

2) 被災前から生活支援を必要としている方の対応

避難所にいた寝たきりの方は、<遊楽館(音楽会等を開催する施設)>に移動して、市立病院の看護師がシフトを組んでケアをしている。<遊楽館>の具体的な状況は看護部ではわからないが、石巻圏内の避難所に寝たきりの人が混在している状況はなくなっていると思う。

ショートステイの対応は、ロイヤル病院が受けている。福祉避難所というより老人病院的である。入院治療の目的ではなく、生活支援を必要としていた人である

2. 看護スタッフの状況

1) 看護の体制

3月15日より本社からの院内支援看護師の派遣が始まり、16日から看護師11名、助産師7名が5日間クールで支援がある。派遣された看護師の技術が高く、救急エリア(赤と黄エリア)も担当してもらった。3月29日からは、救急エリアはER看護師に限定し、並行して一般病棟に看護師、産科病棟に助産師が入っている。4月25日現在で、看護師83名、助産師78名、ER看護師59名、また3月31日からは専門学校復旧のために専任教師17名が入り、応援総数は237名である。

東日本大震災被災地における報告

災害拠点病院 石巻赤十字病院

本社浦田看護部長の<石巻のスタッフが休養をとれるように応援を活用した方がよい>というアドバイスがあり、2班目から院内支援看護師を各病棟に1名と救急エリアに配置した。病棟では、院内支援看護師が入り、また、稼働ベッド数を減らすなどの調整から、<2週に1回の2日連続休暇>の勤務体制を作り、スタッフ個々が被災後の住居の片づけや安否確認などを行うことができた。

注目する点は、院内支援看護師は、赤十字救護服そのままで病棟の応援に入ったことである。救護服を着用することで“危機的な状況である”ことを、患者や家族、また、病棟で働く職員にも十分に意識してもらう意図をもたせたものである。職員であると<被災にあった人もいるかも>ということで、患者、家族も遠慮して辛い被災体験を話せない状況があった。「【赤の服を着た人(救護服の看護者)】にケアしてもらいたい」、「話しを聞いてもらいたい」という患者からの言葉が聞かれるようになり、院内支援看護師がケアをしながら、患者はじっくり話しを聞いてもらうという関係づくりが波及効果としてみられた。

2) 今までの災害時のマニュアルにない看護の取り組みとその必要性

地震発生が平日の14時46分で、勤務していた者が多かった。直ぐ対策本部を立ち上がり、登録し業務の振り分けをした。初動体制の訓練は役立ち、傷病エリアの治療部門については、訓練通りに活動することができた。しかし、想定外のこともあった。例えば、以下の3点は大きな課題であった。

  • エレベータが動かないことによる患者の移送に関わるマンパワーの結集
    手術室や検査室にいた患者や入院する患者を担架で病室へ移送しなければならなかった。階段は十分な広さはなく、床もドロの汚れですべりやすい状況の上に、時折、降りてくる人と交差することもあり困難をきわめた。また、安全に搬送するために1台の担架に8人のスタッフが必要であった。看護職だけでなく他の職種、ボランティアも含め搬送班として働いたが、特に男性の力を要した。
  • 広域から集中してきた透析患者の受け入れ
    水や設備の問題で透析をできる施設がなく当院に集中した。通常60人(30人を2クール)であるが、プラス150人また多い時は200人近い患者を受け入れ夜中の0時過ぎまで稼働できる体制とした。自家発電、備蓄の水での対応で、途切れることなく、ライフラインの復旧まで対応することができた。
  • 医療処置は不要だが、ケア・看護処置が必要な患者の効果的なトリアージ
    被害を受けた介護施設や避難所から要介護者が搬送された時に、要治療者なのか、要介護者なのかを判断するためのトリアージが必要であった。全ての要介護者が通常のトリアージエリアを通過すると、緊急性のある医療処置が必要な傷病者への治療が遅れたり、治療エリアのキャパシティを超えてしまうということが起こる。要治療者か、要介護者かの判断を効率的に行う必要があると実践しながら気づいた。また、HOT患者も停電のため酸素濃縮機が使用できず多数の患者が酸素を求めて来院した。その場合もトリアージエリアを通過すると混乱するため、HOTの担当者を配置し、患者が来院したらトリアージタッグをつけず直接HOT担当者が対応した。HOT患者は多い時には80数名に上り、中央配管がある4人部屋の入院病床を間借りし収容する状況であった。また、既存病床402床に加え、リハビリテーション室を活用し30個程度の簡易ベッドを入れ収容エリアを増やした。HOT患者の受け入れは、電気が復旧し濃縮機が使用できるようになる2~3週間後まで続いた。
    フェイズ0はマニュアル通りであったが、傷病者以外の<日常的に医療処置、ケアを必要としている人>が全て集まるという想定はなかった。今後、酸素吸入、胃ろうチューブの対応等が明らかである人(緑ではない)を受け入れるためのトリアージの方法やエリア確保を検討する必要がある。

3) 地域連携室の役割

東日本大震災被災地における報告

石巻市内

発災後増え続ける入院患者、要介護の状態の患者に対し、石巻圏内、近県との連携搬送は重要であった。その調整役を地域連携室が動いたが特に退院調整看護師の役割発揮は非常に大きかった。

4) スタッフへの“こころのケア”

発災当日から不眠不休の活動であった。家の被災状況や家族の安否が不明のまま数日間を経過する職員もいる中で、外の景色が見える院長応接室を開放し、「こころのケア」として設置した“リフレッシュルーム”は被災医療現場から心を開放できる拠り所となった。利用者数は担当が主に本社の心のケアチームが担っていたため看護部では把握できていない。

活用方法としては、

  • 初めの頃は、師長がスタッフに勧めて送り出したが、入りにくいようであるとの意見から、部署ごとに使用する時間帯を決めた。その後次第に自由に活用できるようになった。
  • リフレッシュルームの有用性として、新人への対応ができたことがあげられる。新人も被災し、避難所や親戚の家から通勤していた。初めての医療現場でわからないことも沢山あり、勉強したいと思っても現在の生活状況では、時間もそのための場所を確保することさえも難しい。通常の新人とは違う状況があり、こころのケア要員より「あの新人が気になる」という情報をもらい、面接をしてみると、「他の人がこうやっていると言われるとできていない私は焦る。」と悩みが打ち明けられた。新人看護師担当者が気づかないところで、新人は悩んでいたり傷ついていたりしている。こころのケア要員から、情報提供により早期に対応することができた。
  • 新採用者には、電話の回復を待って、早い時期に本人と保護者に安否・被災状況の確認と入社式の連絡をした。住居状況を確認して、病院がホテルなどの手配をした。「娘一人を被災地に送り出すのは心配である」と1名キャンセルがあった。「宮城が好きなので、3・4年経験を積み成長してから必ず来ます。」と語ってくれた。入職辞退者は少なく、沖縄県からも空路とバスを乗り継ぎ来てくれ感激した。石巻赤十字看護専門学校卒業生は17名で、避難所から通勤する新人もいる。
    例年通りに新人看護師の教育ができず、2日間の集合教育の後、配属部署での現場教育をしている。その結果はどうなるか今後、経過を見ながら対応していきたい。

3. スタッフの生活・通勤の支援

1) 現在の休み

精神科の医師の助言があり、2週に1回は2日以上の連休がとれるよう勤務調整を実施している。

2) 通勤ができにくくなった看護師等への対応

1週間目はほとんど職員が病院で寝泊し交代勤務していた。2週目からは、ガソリンの供給が可能となるまで動きがとれない状況で、自宅を失った職員を含め、病院がホテルを確保し対応した。ガソリンは2週目後半から地域の協力で病院職員が通勤に必要なガソリンが均等に行き渡るように、申込制で許可書を出し、近隣のスタンドに並んで入ることができた。

3) 職員・患者の食糧

入院患者用水・食料の備蓄は3日分であるが、病院内の備蓄で対応した。ガスは機能しなかったが、自家発電による電気使用ができ、電気釜でご飯を炊き、一口大のおにぎりを朝昼晩と患者・職員に提供できた。避難してきた人には出すことはできなかった。災害拠点病院として診療を開始するために、院内に避難してきた住民を早期に避難所に移れるようにバスの手配を市役所に依頼し、移動時におにぎりを一個ずつ渡し避難所に移って頂いた。

救援物資が届いてからは、栄養課が中心に、スタッフも協力し食事を準備した。水は1週間分あったが全職員で節水を間に合わせることができた。4月10日まで1ヶ月間は職員全員分を栄養課は準備していた。

4. 病院内に救護班等、外部の人を受け入れることと救護班の姿勢

東日本大震災被災地における報告

災害拠点病院 石巻赤十字病院

受け入れ側の疑問:看護・業務の達成感や宿泊の環境などが整っていなかったため、負担が大きかったのではないかと危惧している。院内支援3班からは、リハビリセンターが宿泊場であったが、簡易ベッドがあり、若干環境は改善したと思われる。電子カルテ上の看護記録ができないので、診療の補助は実施せず、被災者との会話などケアを中心に行った。毎日の班員間のディフィージングも良かったとの反応であった。

  • 病院支援隊の姿勢として助かったこと
    支援に来た看護職の間で申し送りノートを作り、次の班員に現場で申し送り・オリエンテーションを行った。申し送りを丁寧に、具体的にして、翌日から直ぐ活動できるように効率的に行っていた。自分たちでシステムを作ってくれたことにより、とても助かった。
  • 支援活動の期間
    急性期は短いスパンで、慢性期では長いスパンでと、活動期間を切り替えていくことが必要であろう。病棟に入ると、短い期間では、救援に入った病院の看護システムに従って、患者と関わり看護記録を行うことには困難がある。今回は電子カルテへのアクセスができないので、看護周辺の業務となった。「仕事の満足感がなく、私達でなくてもよいのではないか」との思いで帰った人もいると聞く。長期間であるとIDも準備できるので受け持ち患者を持ち関われる。受け入れる側も依頼していいのかとの遠慮があり、気遣いもある。スタッフとの信頼関係を築き連携することで患者のケアをスムーズに行うことができる。
    5月中旬では救援期間を10日くらいに変更予定である。一般病棟の支援は終了となり、ER部門だけの支援となる。
  • 多くの外部の人を受け入れる構え
    今まで、資格をもった人の研修や看護学生の実習では、「外部の人が入ることにより、そこに対応する部署やスタッフが成長できる」という考えがあった。専門看護師の研修も全国から、受け入れてきたので、外部の人が入ることへの拒絶反応や壁はなかったと思う。外部からの応援を有効に活用できる部署と、うまく活用できず今後に課題を残した部署もあった。

5. 看護部長としての動き

看護部長は、災害対策本部の役割があり、災害レベル3とされたので院内の被害状況を把握し、各部署の人員配置、患者受け入れの病床管理を行った。本部に設置されたテレビモニターに映し出される大津波による被害を目の当たりにしながら、当院の災害対応が急展開された。石巻で唯一被害を招かれた病院の看護部長でありながら目前の対応に追われ、どう思考し行動していたか言葉には言い表せない状況であった。病院の職員が全員無事であったことが救いであった。

看護部は入院外来業務担当、人員配置担当、そして被災しているスタッフの生活支援を看護副部長に分担した。朝・夕二回の師長ミーティングを行い各部署への情報伝達、問題対応に努めた。

早期に本社から近衛社長と浦田看護部長に来院して頂き、今後の院内看護支援について相談ができ石巻だけでやらなくてもよいのだと安堵した。名古屋第二赤十字病院看護副部長に看護部支援を頂き、看護部の運営・支援看護師の調整など相談ができ助けていただいた。

大震災で何が起きているのか、どんな活動をしているのか、その状況を公開するという役割がある。各担当エリアや業務の第一線で対応したスタッフが取材に応じている。

6. 今後の石巻赤十字病院の動き

  • 5月9日に通常業務に戻る予定。病院は420床で行う予定であるが、看護部としては400床を超えない範囲でさせてほしいと申し出している。各エリアの救護班の撤収と近隣の病院の復旧状況による。
  • 現場で体験した者(私たち)しか言えないこと、わからないことを報告する義務があると思っている。院内では赤、黄色、緑という体制ではないところ、病院支援、透析の体制・ケアのところは伝えたい。
  • 地域連携室の役割。その看護師の役割も伝えたい。

石巻赤十字看護専門学校

1. 被災状況

石巻赤十字看護専門学校は、石巻市吉野町にあり、今回の地震・津波により甚大な被害を受けた地域である。専門学校では前日に平成22年度の卒業式が行われ、発災時は、1、2年生が授業を受けていた。発災後近所の住民も学校に避難してきた。津波発生が知らされ間一髪、学生、教師は避難してきた住民を助けながら地域の指定避難所である湊小学校に逃れ、全員無事であった。前日に卒業した卒業生も全員の無事が確認できた。発災当初、1960年チリ地震による三陸沿岸の津波を経験した住民も今回の津波の発生は予想せず、学校に避難すれば大丈夫と考えていたようだ。

東日本大震災被災地における報告

専修大学の教室を借りて授業再開

津波により、専門学校の建物は1階が壊滅され、教材、図書、記録類もすべて消失した。授業ができる状態ではなく、しばらくは石巻専修大学(石巻市南境)の一角が仮校舎になる。訪問した4月25日は学生の生活や学習環境把握・支援整備のため登校日にあたっており、学生と教師が震災後初めて顔を揃えた。「学生の顔をみると元気が出る」と教師は語っている。廊下には演習用のベッドが数台置かれているが図書や教材などまだまだ、揃えなければならないものはたくさんある。

教師、学生ともに被災者でもあり、生活基盤が整わず、震災のストレスもあるが、3人の学校支援専任教師の支援を得て、6月からの新学期、新入生、新2、3年生の授業再開に向け、準備が進められている。

2. 避難所生活

震災直後学生と教員は、住民とともに避難所に避難した。食料も無く、水は当初、一人当たりコップに4分の1程だった。学生は、トイレ等の掃除や被災者へのケアを実施、ケア提供者としての役割を発揮した。

3. その他

東日本大震災被災地における報告

発災時は、ライルラインが断絶し、また、かなりの期間電話が不通だったため外部からの情報は全く入らず、震災の規模や状況を把握することができない環境下にあった。

有限会社 あおい訪問看護ステーション

1. 訪問看護ステーションの概要

有限会社あおい訪問看護ステーションは、代表取締役以下3つの訪問看護ステーションから成り、総数166名の利用者の方に対応している。訪問看護ステーションは、仙台市若林区にあおい訪問看護ステーション(訪問看護)とあおい訪問看護ステーション(居宅)が、黒川郡富谷町にあおい訪問看護ステーション富谷(訪問看護)があり、各ステーションでは看護師が所長を務めている。まず、あおい訪問看護ステーション(訪問看護)では、所長以下看護師4名、事務員1名、理学療法士1名(訪問看護ステーション富谷と兼務)がおり、利用者数は75名である。あおい訪問看護ステーション(居宅)では、所長以下、介護支援専門員(介護福祉士)1名、事務員1名がおり、利用者数は、訪問看護と共通する26名を含む72名である。あおい訪問看護ステーション富谷(訪問看護)では所長以下、看護師3名、准看護師1名、事務員1名、理学療法士1名がおり、利用者数は45名である。利用者には、在宅酸素療法や人工呼吸器などの医療依存度の高い方もいる。

2.発災時の状況

東日本大震災被災地における報告

仙台市若林区は、オレンジ色部分が津波で壊滅状態

3月11日14時46分、地震発生。震度6強の揺れが5分以上続き、訪問看護ステーション近くまで津波が押し寄せ、広範囲で壊滅的な被害が生じた。ライフラインは電気、水道、電話が断絶された。発災当日、携帯電話は繋がらず、携帯のメールが辛うじて繋がった。

3.発災時の看護師の行動

1) 在宅酸素療法被災者の救出搬送

看護師が在宅酸素療法の方を訪問しケアが終了したところで地震が発生した。住まいが13階建マンションの7階でかなりの揺れで、利用者と家族、看護師の3人は床の上を3mぐらい引きずられた。地震発生から1分ほど経過して停電し器械も全て停止した。利用者は酸素が止まりどんどん顔色が蒼くなってしまい、地震が一時的に弱くなった瞬間に、酸素マスクを予備ボンベに切り替えて地震の間を凌いだ。揺れが止まった後、電気と電話はしばらく無理と確信し、脱出しようと思ったが、玄関がマンションに設置されていた給湯パックで塞がれ、ベランダに非常用梯子もなかった。民生委員の方が、真っ先に駆けつけマンションの管理からレスキュー隊に連絡してくれた。午後4時過ぎにようやくレスキュー隊が到着し、おんぶして1階に下ろしてもらい、訪問看護師の車で病院に搬送した。予備ボンベは6本あり、1本あたり1時間利用でき、最大6時間しかもたない。幸いにも、レスキュー隊も間に合い、大事に至らなかった。

2) 人工呼吸器使用被災者の搬送

避難を呼びかける中、自宅で人工呼吸器使用を使用している方に対応する先輩のフォローに向かった。避難する人々と逆方向に向かうことになった。先輩が電源を確保するまで、アンビューバックを押し続けた。途中、「津波が来る、逃げろ」の電話があったが、対応を続けた。不安で一杯だった。無事電源が確保でき、区役所保健師と連携を取って、利用者を病院に搬送できた。しかし、利用者は、表情一つ変えることはなかった。

3) 在宅看護ケアの継続

安否調査により、避難所には行けず、病院での受け入れが不可能な利用者がいることを把握し、自転車で訪問看護サービスを再開した。夜間対応などのためスタッフが交代で訪問看護ステーション事務所に泊まりながら、少しつつ体制を整えていった。

4) 救護班への参加

東日本大震災被災地における報告

訪問看護ステーションで在宅支援の把握

看護師1人は自宅が浸水し避難所(400名ほど収容)に避難した。避難した当日から、看護師として被災者の健康を気遣うだけでなく、時に心臓マッサージや応急処置などにあたった。一人で400人の被災者に対応していたので、健康管理や救急対応から逃れられない状況になった。その結果、被災当日から訪問看護ステーションには戻れず、休みなく1か月間、活動を続けた。

4.訪問間看護ステーションの対応

1) 安否確認

発災当日も可能な限り、予定していた訪問場所に行き、翌日も各所を廻って利用者の安否確認を行った。利用者の方がどこの避難所に避難されたのがわからず、また避難所から他の避難所に移った人や病院に搬送された人もあり、誰安否確認に時間を要した。その中、偶然にもテレビ放送で所在が分かったケースもある。

2) スタッフ間の情報の共有

スタッフ間で把握した利用者の状況を記した一覧表を作成し、全員が情報を共有できるようにした。

3) 不安を訴える利用者への対応

利用者には精神疾患の方もいる。不安でひっきりなしに電話をかけてくる人もいる。特に1人暮らしの方は不安が強く動けなくて尿失禁・便失禁している方もいるので、訪問し対応している。グループホームに入っている方は寮母さんが一緒にそばに寝て落ち着いたケースもある。避難所では心のケアとして精神科医師が巡回されているが、心のケアが必要である。

5.訪問看護ステーションの管理者に必要なこと

(1)職員の安否確認 (2)現地の状況把握と確認 (3)利用者の安否確認と情報の共有 (4)避難所巡回による連携 (5)ガソリン調達等に関する行政との交渉 (6)災害時マニュアル見直し

6.その他

今回の訪問では、災害救援物資として日本赤十字看護大学からディスポ予防衣、マスク、ディスポ手袋を届けた。

気仙沼市立面瀬中学校避難所

1. 避難所の被災者の状況

避難者数は100数世帯280人である。津波で全て流された地区であり、行政区はほとんどない。避難者の半分ぐらいは津波で家が全壊し流された方、また家は残っているが住めない状況の方である。しかし、家があるものの独居の方や障害がある方は、余震が続き、不安なことから避難所に来ている方もいる。

2. 避難所の生活環境

1) 居住空間

打ち上げられた船

打ち上げられた船

体育館床にマットや畳を敷いていたが、5月23日にフロアを1丁目、2丁目、3丁目、4丁目の4区画にした。東京都からの支援物資のマット260枚を敷き、間仕切用ダンボールで仕切りを作った。1人当たりの面積はマット1枚の広さである。仕切りは約50センチメートルほどで、避難所生活が1ヶ月に及び、その間に築かれた関係から、被災者は壁をつくるような仕切りの高さは望まず、この高さに決まった。

2) 衛生環境

水道が復旧し、洗面所、トイレは通常通り使用できるようになっていたので、手洗いや食器洗いは、洗面所で行われている。また、体育館内の男女別トイレは水洗式で、紙類は流さないように汚物ごみ袋を設置している。さらに随所に速乾式手指消毒液を設置し手洗いの励行や体育館入口に設置された洗濯機で各自が洗濯を行えるようになっている。

3) 電気

電気も復旧し、暖房も使用できるようになっている。

4) 食事

最初はボランティアが作るおにぎり1個だけで1日2食だったが、自衛隊の炊き出し支援により1日3食になった。飲料水はペットボトルの水を使用している。

5) 物資

衛生用品は体育館の舞台に整理されている。被災直後1週間は物資不足していたが2週目からは依頼した物はほぼ配給され、地域の人が来ても渡せるように揃えている。

6) 日常生活

日中は仕事に行っている人や家の片づけに自宅に戻っている人もいる。

3. 支援体制

1) 常駐スタッフ

車やがれきの気仙沼

車やがれきの気仙沼

事務局(市の保健師・事務員)に加え、事務局支援事務員3名(他県から派遣)、奈良県保健師(厚労省派遣)、日本在宅ホスピスケア(日ホ)看護師、群馬の介護ボランティアスタッフが支援のため常駐している。支援者は数日から10日程度で後任者と交代し支援を継続している。

2) 支援体制

職種は様々であるが看護職を中心に24時間体制をとっている。事務局と日ホの看護師が避難所に泊まり、奈良県保健師は8時から18時ごろまで活動し、約1時間かけ宿泊所に戻っている。

4. 役割分担

奈良県保健師は、避難所の健康管理、全体的な管理、訪問者の対応と日中のコーディネートを、看護師は、個別のケアや支援の必要な方、在宅支援、心のケア、医師の診療支援を、日ホは、中心になって在宅支援(民生員から要請のあった方、看護師が地域から情報を得た方)を、そして医師は、眼科診療(毎週火曜日)、歯科診療、心の相談を担当している。

5. 避難所の運営

ミーティングは1日4回行う。8時に全体ミーティング(事務局、医療・保健・介護スタッフ、民生員、自治会長)で、今日の事業の確認と割り振りをし、次に医療・保健・介護のミーティングで個別の割り振りを行う。16時~16時半に医療・看護・介護のミーティング、報告事項などを行い、19時に最終ミーティングを行う。避難者代表のミーティング参加は、人材の偏りがあるため、避難した元市職員をキーパーソンとしている。

気仙沼市立面瀬中学校体育館での避難生活

気仙沼市立面瀬中学校体育館での避難生活

避難所は、地区ごとに顔見知りが多く、概ねコミュニィティは固まっている。被害にあった違う地区の人も若干いるが、人間関係は悪くはない。現在は区画の「丁目」でトイレの掃除当番、ゴミ出し当番を決めている。また配膳は、「丁目」ごとに順番に行い、日々順番が変わるようにしている。

6. 避難所での健康上の問題

  • インフルエンザやノロウィルスなどの感染症はなく、風邪による下痢、肺炎、アレルギー性の目の痒み、喉の痛みなどがみられる。暖房を暖かくし過ぎて乾燥するということで、今は夜も暖房を低くし、看護師の協力で、濡らしたタオルを周囲にかけ、床に水を置き加湿している。また、加湿器も設置予定である。
  • 介護の必要な人は少なく、要介護で家族が付き添っていない人は1人である。支援の看護師は、介護の必要な人をお風呂に誘ったり、清拭をしている。
  • 乳児は当初、5~6人いたが、家に戻ったり、他の所に移り、今はいない。幼児は小さくても2歳ぐらいである。また、子どもが夜にかけてよく熱を出している。必要な治療は日中開業の病院に行ったり、緊急の場合は市立病院で診てもらったりしている。
  • 精神的な疾患で通院している人は、3人ぐらいいるが、落ち着いている。
  • 心のケアは、児童相談所関係経由で、札幌市立病院の精神科の医師が来ている。医師は何日かに1回は来たいが相談者ゼロの時もある。相談しづらいことや、プライバシーのこともあるので、診察の形で行っている。心のケアは、待っていてもお母さん方は我慢強いのでなかなか相談に来ない。今回はお茶のみ方式にし、午前中かけて話をした。子どもの学校が始まること、勉強場所をどうするかなど抱えている問題はいろいろある。
  • 運営のミーティングでは、歯の相談、心の相談、医療チーム、栄養相談などをどう活用するかを話し合う。できるだけ支援いただけるものは皆の為だと思うので拒まない。

7. 仮設住宅

自衛隊炊き出しによる食事支援

自衛隊炊き出しによる食事支援

学校の校庭に仮設住宅が153戸建設中であり、近くに市営住宅も空いているが、5月中旬までに全員が入れるかどうかわからない。地縁・血縁の濃い地域なので、親戚に身を寄せている人も仮設住宅ができたら戻ってきたい人もいる。気仙沼市全体では、仮設住宅は7,000戸くらい必要であるが、まだ1,000戸程度である。気仙沼は海の近くなので、それで被害にあったのだが、高台に広い土地はない。仮設を建てる場所として、津波が来たところには建てられない。場所の確保も課題になっている。また、子どもたちにとって、校庭は仮設住宅、体育館は避難所になっている状態である。

フィールドワーク全体を通してのまとめ

被災後1カ月半が過ぎ、被災地では徐々に外部医療支援チームが5月連休後、5月末には撤退する情報が発信されています。今後、医療チームは撤退の方向である。行政側も自らの力で自立して行きたいと考える時期にきたことが、皆様とのお話の中から感じられました。住民が避難所から地域(元の生活)に戻る過程には時間がかかると思われます。その戻る過程には、中長期に向けた持続的な看護支援活動が要であると考えます。被災者のくらしや健康のニーズに応じた具体的な支援方法としては、住民リーダーの補佐役であり、また、被災看護職の役割遂行を支えることと捉えました。支援活動の一環として、今後は医療支援から、喪失体験に伴うこころのありようを支えながら、生活再建に伴うこころのケアが更に必要とされます。こころのケアの支援に入る方法としては、医療班のように巡回型ではなく、支援看護師は被災者の生活の場に身を置き、信頼関係を築きながら、健康や生活に関するアセスメントを行い、必要なケアをすると同時に、問題解決のために他職種に繋げることが必要と考えます。具体的には、4泊5日くらいの交代で、避難所や仮設住宅の一角に寝泊まりしてはどうでしょうか。赤十字は組織的にこころのケアチームが既に活動に入っていますが、そのチームの機能に被災者の生活支援をプラスすることを推奨します。

石巻赤十字病院や石巻赤十字看護専門学校のように、被災しながら看護活動や看護教育を行って いる看護教員や看護師たちの活動支援は、今後も必要に応じて継続すべきであり、それは、被災看護師のこころのケアに繋がると考えます。

今回の大震災を経験して、今後あらたな各組織における災害対応マニュアルの構築を取り組む構想について、石巻赤十字病院や石巻赤十字看護専門学校、有限会社あおい訪問看護ステーションで確認できました。その中で石巻赤十字病院では、今後の被災病院への支援について伝承できる仕組みとして、下記の5つの事柄が示唆されました。

  • 救護ユニホームを着て各病棟に入る看護師とその看護師による看護と役割
  • 看護ケアトリアージの必要性
  • 被災地の病院での看護支援のあり方
  • 被災した看護師(スタッフ)への病院管理としての生活支援
  • 患者が必要な治療・処置・ケアを受けられように他の医療機関・施設との連携をもった搬送シ ステムの確保

謝辞

日本赤十字看護学会として、1か月半が経過した被災地を災害看護活動委員会メンバー4名、2名の協力者と共に訪問活動を展開してまいりました。被災地では急性期より状況が良い方向に向かっている部分も見受けられましたが、新たな試練もある中で、訪問した先々で多くの方々が私たちの活動を御支援・御協力くださったおかげで、このように報告することができましたことを心から感謝いたします。復興に向かおうとする皆様の心意気や取組に感動さえ覚えたこともありました。皆様の健康をこころからお祈り致します。

日本赤十字看護学会災害看護活動委員会

小原真理子
大和田恭子
小林洋子
谷岸悦子
前田久美子

平成23年5月