第8回日本赤十字看護学会学術集会 交流セッション
主催:日本赤十字看護学会臨床看護実践開発事業委員会
去る6月16日(土)、本委員会は第8回日本赤十字看護学会学術集会の交流セッションに参加しました。セッションには予想以上の参加者があり、アンケート結果からも好評を得ましたので、この場において公開したいと計画しました。
今回は、長年培ってきた赤十字の看護の技を発掘し、その技の実践と効果、エビデンスをどう検証するか等について、現在それぞれの立場でご活躍されている方々から話題を提供していただきました。
最初に、川嶋みどり先生(日本赤十字看護大学)には「看護実践の質を担保するもの-経験知からエビデンスへ-」、西村和美先生(NPO法人ディサービスこのゆびとまれ)には「赤十字看護の心と技」について、
続いて「こんな看護を伝えたい-臨床看護実践を通して-」では3名の方々から話題提供していただきました。
ご覧になった方々からのご感想やご意見、また日々看護実践している中で、是非後輩に伝承したい看護の技の情報をお待ちしています。連絡先は、“伝えたい看護の技”掲示版に自由にご記載下さるか、又は下記の本委員会事務局にお知らせ下さい。皆様からの情報をお待ちしています。
臨床看護実践開発事業委員会 委員長 二ツ森 栄子
臨床看護実践開発事業委員会
〒090―0011 北海道北見市曙町664番地の1 日本赤十字北海道看護大学
日本赤十字看護学会 臨床看護実践開発事業委員会事務局 山本 美紀宛
話題提供者
- 川嶋みどり(日本赤十字看護大学)
「看護実践の質を担保するもの-経験知からエビデンスへ-」 - 西村和美(NPO法人 デイサービスこのゆびとーまれ)
「赤十字看護の心とわざ」 - 小野 芳子 (山口赤十字病院)
「緩和ケアに移行する患者とその家族への支援」 - 堀 ゆかり (北見赤十字病院周産期母子センター)
「母乳育児支援の継続に向けて」 - 塩川 美奈子(日本赤十字社医療センター)
「助産師外来の取り組み」
川嶋みどり(日本赤十字看護大学)
「看護実践の質を担保するもの-経験知からエビデンスへ-」
みなさんこんにちは 川嶋でございます。
誰でも幼い頃から、生まれ育った環境の中で、習慣的に教えられ身についた経験知というものを持っていると思うんですね。例えば、煮炊きをしているガスコンロの前に行っちゃいけないとか、あるいは沸騰しているお鍋に手をつけたらやけどするとか、あるいは石油ストーブの側に近寄らないようにとか、よそ見をしながらご飯を食べてはいけないとか、のどに引っかかるから歩きながら物を食べてはいけないとか、いろんなことを小さいときから教わって、いつの間にか自分の身についていると思います。
看護の場合もそういったことはたくさんあるんですけど、特に、赤十字の伝統的な看護というのは、はじめに実践ありきでした。とにかく言葉に出さなくても、看護イコール実践あるのみで、そしてその実践を通して患者さんが“ああ本当に赤十字の看護師さん達は素敵な方たちですね”とか、“ほんとにいいケアを受けました”という気持ちで退院されて、赤十字看護への評価が社会的に作られていった歴史があったと思います。
しかし、そうした伝統がそのまま正しく継承され、新しい知とともに、あるいは理論として発展してきたかというと、必ずしもそうではないところに、今、学会としてこのような問題をテーマとして掲げなければならないんじゃないかなと思ってます。多くのナース達は、学校で学んだほんのわずかな知識とそれから自分自身のコツあるいは勘のようなものを、整理しながらなんらかのケアを提供して、そしてその提供によって、自分のケアを通じて看護の有用性を確かめ、それを何回も何回も繰り返しているうちに、いつしか自分の経験知として身につけていってるんだろうと思います。私もこの数十年、看護師であったわけですけど、何時でも実践に価値を置いてやってまいりました。
ところで、経験とは何かということですが、これは、「人間が感覚や内省を通じて得るもの、及びその獲得の過程である」といい、「他の人と関わりつつ、感じ、想像し、思い、考え、ふるまい、行動することを通して、現実とのふれあいを深め、1人1人の具体的な生を営んで行く。そのような私たちの生き方の具体的な諸側面」であると、中村雄二郎は述べています。
では、看護の経験とはどのようなことをいうのでしょうか。先ず、受け身の実践ではなく、能動的に対象に関わり働きかけることを通じて得られた、対象の反応と行った実践との因果関係を体感することです。その実践を媒介にして生まれた知識を経験知と呼びたいと思います。今日の私の問題提起である「看護の質を担保する経験知」とは、こういうものであるということを最初にお話しておきたいと思います。
さて、このスライドは、今から56年前くらいの川嶋みどりの新人時代です。乳児をだっこして哺乳をしているところです。そこで、実践を媒介にした知の生成ということについて、2つのことをお話しようと思います。1つは、新人であろうと学生であろうと、若い時代のひたむきな実践がとても大切であるということ、何かを行って役にたったことを、理屈抜きで肌で感じるそのことがすごく大事だと思います。私の場合は小児病棟時代の新人時代から始まりましたが、その時代の実践は、どれをふり返って見ても主観的ではありますが、多くの真理に通じています。時間の関係で詳しくお話しませんが、1人の少女の清拭が私に教えてくれた安楽の概念と、その清拭を通して看護の本質が生活行動援助にあるということを、しっかりと認識できたことでした。そして、実践を通じて看護技術には、安楽性と安全性という考え方が根底にあり、それは紙の裏表のようにどちらも重要であるということを、新人になって10日以内という、未だ本当に未熟な時代の実践で直感的に経験的に実感したのでした。それ以来50年以上を経て今も、それは真理であるということです。しかも、私だけの真理じゃなくて看護界全体に通じ、時代を経てなお新鮮であることに驚きます。このような実践体験は豊富ですが、もう一人の印象的な少年のことも、今日の私にとっては忘れることができません。原因不明で言語を失った9歳の男の子で、周囲を海に囲まれた小さな島の子でした。言葉の回復を目指してひたむきに関わる過程で、彼が幼い頃からずっと泳ぎ親しんで来た「海」がキーワードであると思い、歌を通してそれを探り当て彼の言葉が再生された時の感動…。少年は診断がつかないまま、やがて亡くなりました。でも、たった9年間の人生を生きた彼が、何よりも愛した黒潮の海を共有したことは、現在老年看護学を専攻している私にとりまして、認知症のお年寄りの人生の時と場を共有するということに通じる真理であると思います。こういった若い頃の未熟であっても若い頃の実践というもの、経験というもものがいかに大事か、若いからといって未熟だからといって決して捨てちゃいけない 真理は真理なんだということを強調したいわけです。
次に、経験といってもうまくいったものばかりじゃないんですね。私が勝手に成功知と失敗知という名前をつけたんですけれども、うまくいった経験というのはいつまでも印象深く、あの時のあの経験というのを思い出しますね。もうひとつ、人には話したくない悔いを残した経験、できれば思い出したくない経験というのがあります。インシデント・アクシデント例がそれです。時間の都合上お話できませんが、実践を媒介にした知の生成という場合に成功知と失敗知があると思います。
しかし、成功とか失敗を問題にする前に、何よりも何よりも看護実践に価値を置くということの大切さです。「実践が大事」と、誰でも口ではよく言いますけれども、身をもってこの実践の大切さを教員は学生に教えるべきだし、先輩は後輩に伝えるべきでしょう。そのことを伝えなくして経験知は育たないし生まれないし、伝わらないと思います。ですから、この看護実践に価値を置くということ、すなわち苦しむ人、病む人に対して先ず苦を和らげるということ、そこから看護はスタートすべきです。最近看護師たちは、苦痛の緩和という看護本来の役割を忘れているのではないでしょうか。
さて、スライドには仮説に基づく行為とありますが、ここでの仮説は、看護実践過程では、こうしたらこうなるんじゃないかな、この人に対してこうしたらいいんじゃないかなという、意図した結果を頭の中に描いて行うわけで、これを仮説的というわけです。そして当初の意図通りの結果が得られた時には、「ああよかった。本当に楽になりましたね、よかったですね。」「おかげさまで」とそういうやりとりがあると思いますが、そこで対象とともに喜びを分かち合いますよね。こうした経験、すなわち実践回数を重ねるうちに、その行為の契機となった患者の状態と行為の過程と結果との因果関係を把握するようになります。これは未だ主観的なレベルで、このような患者さんの場合にこうすればうまくいくということを、うっすらと自分なりに把握するレベルです。
こうした経験は、先ほどの新人の場合がまさにそうだと思いますが、自分が一回やってうまくいったと感じただけでもいい、「うまくいった、よかった」というその思いがとても大切だと思います。このような、未だ客観的ではないけれど、自分のからだに印象づけられた知を、人によっては、暗黙知と表現したり、身体知と表現したり、または、経験知といわれたりしています。何れにしても、まだ言語化されていない非言語的なものであって、もっと平たく言うとコツとかカンのような感じで、体の中に埋め込まれて他人には伝えることができない知のレベルを言います。従って、言葉で覚えるのではなくて、まずは実践に価値を置き、何かを行うことから始まるのだろうと思います。しかしまた、そこで終わってしまってはだめです。
こうして考えて見ますと、これまでの赤十字の看護実践の蓄積は、先輩がいなくなったらもうお終いということが随分あると思うんですね。豊富な実践の蓄積をうまく伝えてこなかったということに問題があると思います。そこで、先に述べた暗黙知のレベルのものをも言語化して、真の知として伝えなければならないのです。単なる自分の個人的な経験知にするのではなくて、やはりきちんと知にしなければならないんです。そこで、対象の状態と行った過程と結果を、今度は頭の中だけで考えているのではなくて、きちんと記述をします。
その第1段階としては、なぜそうなるかは明らかでなくても、なぜそうなるかはまだはっきりしなくても、確かにそうなるということは経験的に語れるわけです。つまり何回も何回も繰り返しやっていれば、「私は自信を持っていうことができるわ」、「こういう患者さんにはこうしてごらんなさい、必ずこうなるから」、と言えるようになると思います。例えば、「すごく訴えの多い患者さんがいらっしゃって、ナースコールが頻回で、15分おきくらいにコールされました。訪室しても特に用事はなかったんです」、なんていう申し送りを聞くことがよくあります。そういった患者さんの場合、これは、不安が高まってコールせずにはいられない状態で、不安が不安を呼んで救いを求めている状態なんですね。つまり、来てちょうだい!何だかわからないんだけど苦しいの、来てちょうだい!と、コールするわけです。何回も何回もコールする患者さんを誰が作っているかというと、患者さん自身の病状とか悪化とかいろいろな要因があるんですけれども、ナースが作っていることが非常に多い。つまり、「また呼んでいる、何?何でもないじゃない?」、という感じで、何回も何回も足繁く行ったり行かなかったり、呼ばれても無視したり、部屋に入っても目を合わせなかったり、ということが多分あると思うんですけれど、そういう態度をとればとるほど、不安が不安を呼ぶ状態になってきて、ますます患者さんはコールし始めるわけです。そこでスタッフみんなで意思統一をして、その患者さんのところに行ったら、“あなた一人が私の患者さん、という目でみてみましょう。それだけでコールは減るわよ”と。これは、永年の私の経験から言えるのですが、本当に減るんですね。そういう意味で、これは私の経験から生まれた経験知といえます。
ただ、その経験知からはみ出るものがあります。それは、本当に病状が悪化していて看護師を呼ばずに入られない身体状況がある場合です。集中して皆で見守っても絶対訴えが遠のかない、そのような場合は、体の中に何かが起こっている証拠ですから、早く察知して的確な対処をしなければなりません。そうでないと、訴えを聞き過ごしてアクシデントにつながることもあり得ます。これも経験知なんですけれども。
そこで、このような経験知をそこにとどめず、それを仮説にすれば看護研究ができます。つまり、実践から生まれた確かな経験知、研究の仮説になり得る経験知、これを言語化して蓄積しないとダメなんですよ。つまり一回限りの経験でも真理は真理なんですけれども、みんなが信用してくれませんね。ひょっとしたらまぐれあたりかもしれない。だから、たくさんの優れた看護実践を蓄積しなければいけないんですけれども、残念ながら今の現場の状況は、蓄積できる状態にはなっていないんですね。
現場は、まさに危険信号が鳴り響いている。多忙を口実にした実践量の低下ということは、看護師が看護を行ってないということになります。膨大な仕事をしているのに、その仕事の一体何分の一が、何パーセントが看護といえるのでしょうか。日本全体の医療がIT化され機械化されていますが、効率性を優先した結果、ケアが切り捨てられている、何でもかんでも早いことはいいことだ、少ないことはいいことだ、短いことはいいことだということで、タッタカタッタカ切り捨てられている。そこで本来なら看護と衝突が起こるわけなのですが、その衝突を苦にしなくなってきている、だんだん慣れっこになってしまっていることに気づかなければ駄目でしょう。何よりも看護独自の専門性の価値付けをする必要があります。患者に手を触れない看護師が増え、パソコンにのみ向き合ってパソコン上の指示に忠実な日々になっていないかということを、私は現場の看護師さんに問題提起したいんです。
くどいようですが、経験知を仮説にして、一定の枠組みに沿ったルールによる研究計画を立てて、理論構築の第一歩とする。真の看護理論は、実践の質に影響する力を与えてくれます。
看護の価値づけとは、ごくありふれた営みを援助する専門性の再認識を言います。最初は家族の中から、人々の暮らしの中から生まれた看護です。保助看法では療養上の世話と表現されていますが、私は、以前から生活行動援助という言葉で同じ意味を持たせています。生活の援助ではなく生活行動、個別の個体レベルの生活行動は、それ自体を他人が代わることはできません。食事にしてもトイレに行く場合でも、身体をきれいにするのも、自分の営みであって、他人はこの行動を交代できないのです。それに対して、生活は、暮らしとか暮らし向きという言葉で表現されますが、掃除、調理、洗濯、買い物など、誰かが代わることができるのです。つまり、看護と介護の根本的な分業は、生活行動と生活に分けて考えるとわかりやすいと思います。生活行動面の援助は、病人の内面の生きる力を喚起させ、手術後の回復力を早め、闘病意欲を高めます。
そうはいうものの、この日常的な個体レベルの生活行動援助は、研究の量として考えた時に非常にプアであるということです。ここを高めていかなければならない。そこで、先ず何よりも先ほど言ったように、優れた看護実践が仮説になっていくわけですから、優れた経験を発掘して、看護ナラティブを語り聞く機会を持ちましょうということです。
そこで今の話を違った方面から言うと、経験を語ることで、自己の知覚を投入して得たことを言語によって追体験し、その経験の背景や、その経験の再現性、つまり一回行った経験や、一回限りのものでは困るので、誰がやっても他の人がやっても、他の場面でやっても、再現性がはかれて初めて普遍化できるわけです。個人レベルの技、つまりコツとかカンのレベルを言語化して技術化すれば、みんなで共有できます。みんなで共有した技術を学んでまた個人レベルの技能にし、するということは、新たな技能がそこに必要になってくるという循環をたどるわけです。
もう一度言いますと、経験知とは、対象との能動的な関わりを持って、対象の反応と自らの実践との因果関係を知ることを言います。この経験知から経験則、法則につなげていって実践における客観的法則性と呼びたいと思います。この法則性を研究の仮説にして検証していく過程で、実践の根拠となるエビデンスをつくることができるのです。
西村和美(NPO法人 デイサービスこのゆびとーまれ)
「赤十字看護の心とわざ」
こんにちは。富山からきました。富山はご存じでしょうか、よく兼六公園のあるところでしょといわれますが、兼六公園のあるところは石川県です。その隣の富山県からきました。とっても大きいタイトルです。川嶋先生の次にお話しするのは、おこがましいですけれども、とにかく現場の話をさせていただきますので、そのつもりで聞いて下さい。私は話し出すとつい長くなりますので、知らせて下さい。
よろしくおねがいします。
私どもこのゆびとーまれは、富山市で平成5年7月に誕生しました。富山赤十字病院に勤めていた看護師3人が退職金をはたいて、一軒家を建てて始めたデイケアハウスです。朝来て夕方帰るデイサービスです。看護という意味を全て含めて、ケアという言葉を使いました。お母さんが、頭が痛いと言った子供に手をあてることから、医師の指示を受けて行うことまでもできるという意味で、ケアという言葉を使いました。利用して下さる方は、赤ちゃんからお年寄りまで、障害児も障害者もみんないらっしゃいこのゆびとーまれ。みなさんが小さいときに、かくれんぼするものよっといで、このゆびとーまれと遊ばれましたか?はい。うなずいていらっしゃいます。だいたい年代がよくわかります。
このゆびにとまった人たちは、仲間外れにしない。このゆびにとまった人たちは、お茶を飲みたい人でも、悩み事のある人でも、看護の必要な人は、どなたでもどうぞこのゆびとーまれという運営になっております。
なぜこんなことをしようと思ったかといいますと、退院許可がでたお年寄りがなかなか自宅に帰れないというケースが多くなってきました。わしのうちなのに何でわしのうちで死ねんがか、自分の家で畳の上で死にたいと思っているのに、どうして家に帰れないのかというお年寄りの声でした。自分の思いとは違うところで、自分の人生を終えていらっしゃるお年寄りに、もしかしたら地域の中にこういうところがあれば、いいと思いました。せっかく病院で疾病、病気、気を含めた疾病を治したとしても、自分の望むところに帰れないケースが多くなってきました。それで地域でこういうことをすればいいのではないかと始めたんです。始めたんですけど、最初の日に県内中の報道機関が来るというのに、誰も利用者がいない。桜は何人か作っていたんですけれども。7月1日の夕方にあるお母さんから電話がかかってきて、「3歳の男の子なんですけどいいでしょうか」「どうぞどうぞ」「3歳の脳性麻痺です」とおっしゃいました。あの時ほど1本の電話がありがたく感じたことはなかったです。最後の最後まで頭を下げていました。病棟で、夕方になって電話がかかってきて、「おたくの病棟に入院です」っていわれると、「何でうちの病棟になの」って思わないでもなかったですけれども、ああこれが独立をするっていう厳しさなんだなと初めてわかりました。
最初の利用者は小児麻痺を持っているお母さんのお子さんでした。髪の毛を一つに結んで、預けに来られて、帰ってこられたら、「まあお母さんステキ」、ソバージュにして来られたんです。「この子が生まれてから一度も美容院に行けませんでした」20代、おしゃれざかりの母親です。障害を持っていらっしゃる方達の親・家族のニーズが大きいんだなということを、地域に出て初めて学びました。
当時の私達、きれいですね。若かったです。真ん中が代表の惣万、向こうが梅原けいこで、3人で一緒にやりましょうということで始めたメンバーです。
私達が大事にしていることは、誰もが地域でともに暮らす、地域というのは大げさですので町内で一緒に暮らす。今は縦割り行政です。お年寄りならお年寄り、知的障害者なら知的障害者、精神の人は精神の人達だけで、50人、100人、富山も500人の施設があります。同じ人達ばかりではなくて、いろんな人達、町内にもいろんな人達がいますよね、豊かな人間関係の中で人は育って、そんな中で喜びもおき、そして、ハンディキャップがあったとしてもひとりひとりが輝く、そんな町であって欲しいなということを大事にしながら活動しております。
もうひとつ私達が大事にしていることは、みんながひとつ屋根の下で過ごすことは、日本の文化である。お年寄りは赤ちゃんの顔を見ただけで笑顔がでるとおっしゃいます。2歳のモモカちゃんと両隣は認知症のお年寄りです。向こうの認知症の方はお家でお嫁さんの顔を見ると顔が引きつるんです。この子達といると気がはれるとおっしゃいます。
ほとんど言語で話すことのできない認知症の高齢者、いつもこうやって机を叩く音で私達はその人の言語をみています。でも、抱っこして子供の顔を見せると、本当に「おーかわいい」と言葉を発せられるんです。どんなスタッフよりも子供にサラリーをやりたいと思うことが何回もあります。そういう力を持っております。よく見学者の方達が画期的・先駆的なことをしましたねとおっしゃるんですけれども、私達はごく当たり前の普通の生活をしているだけです。
じゃあどうしてごく当たり前の普通の生活のことをあなたたちは始めたのかとよく聞かれます。私達は看護の対象は全ての人である。健康な人はより健康になるため、ハンディキャップを持っている人は、持ったままでQOLを高めるためにどうすればよいか支援をすることが看護です。3人の根底にそれがよく染みこんでいましたから、これをするときごくごく普通に全ての人を対象にしましょうということになりました。
去年、一昨年、チリの方達が見学にこられて、そこのトップの方が看護師さんでした。このアイディアはどこからきたのか、「idia?」と聞かれました。「私達はナースである。看護の対象は全ての人である」と言ったら、「ok!」といって帰られました。
これは去年のトピックスなんですけれども、秋篠宮殿下が訪問して下さいました。私なんかは前髪を少しお切りしてあげたいなあと思ったんですけれども・・・。
全ての人に声を掛けていって下さいました。気軽にいいですよとお返事したのですけれども、とっても大変でした。でも新聞紙上発表になってお年寄りに、秋篠宮殿下がお見えになるんですよと朝一番に言った時、ほとんどのお年寄りが「それ、誰け?」という返事でした。
80代後半、脳梗塞で半身麻痺の男性、私達は宮家の方がお見えになるとすごく嬉しかったんですけれども、この方は戦争でお友達をたくさん亡くしてらっしゃいます。言葉をかけてくださり、握手をしたとたんに手をあげて、涙ぐんで笑われたところです。ひとりひとりの思いが本当に違います。後ろでアンパンマンのような顔をして笑ってらっしゃるのが、富山市の森市長です。私と同級生です。
平成5年に私達が始める時に、お年寄りと子供は合わないでしょうと批判されました。特に大学の教授は。どうしてですかって言ったら、「前例がありません。文献がありません。とおっしゃいました。本当に合わないかどうか。一人暮らしのこのゆびとーまれの近くに住んでらっしゃる認知症のヨネさんと24週で700g弱で生まれたよっちゃんです。頬ずりされている人もしている人もとってもいい顔をしている、キスって言うのはこういうのでないとだめなんですよね。よっちゃんはいつも何ヶ月のお子さんですかと聞かれるんですけれども、今年6歳になって養護学校に行きました。よっちゃんは大人の人の輪の中に入って、毎日きています。よっちゃんはこれまで生死を何回もさまよったんですけれども、来ていなければどうしたのかと認知症の方達も話をされます。
Aさんは、最高金額の年金をもらってらっしゃるんですけれども、今までクーリングオフを何回かしました。成年後見人制度も考えたんですけれども、県外にいらっしゃる長男さんに頼まれて、私達はお金の管理もしています。そうしないと千何百円の電話料も払えないくらい、みんな使ってしまわれるんです。
お男性の方もいらっしゃいます。男性の方は職業が出ます。総合デパートに勤めていらっしゃいましたから、このゆびに来る人にいつも「大和デパートにありがとうございます。ありがとうございます。」よく挨拶してくださいます。
認知症の人は、昔とった杵柄、身についたものは忘れられません。小学校の先生をしてらっしゃいましたから、エレクトーンがすごく上手で、いろんな歌を弾いてくださって、みんなで一緒に楽しみます。
私達は看護という現場から、介護という現場に行きました。介護という場は生活の場ですから、たまにこうして裸になって入浴介助をすることがあります。これは病院でしたらだめですよね。
畳の上で死にたいというお年寄りの手助けをしたいと思って始めたのですが、なかなかケースがありませんでした。在宅で寝てらっしゃる時に、こんな酷いのに救急車を呼ばないといけないのではないか。救急車で病院に行かれた人も何人もいらっしゃいます。いままで6人の方の看取りをさせていただきました。一人目の看取りをさせていただいたキヨさん、86歳の方です。キヨさんは、自由業の手伝いを一生懸命しておられた。不景気になって、「母ちゃん仕事せんでええよ」。家の前の八百屋で買い物をして食事の準備をしていた。郊外に大きなスーパーができて、店がなくなった。買い物に行くこともできなくなった。でもご飯のしたくをしなければという思いが強くて、家にある容器の容器中に、米を研いでいました。そういう認知症の方です。他のデイに行ったけど、なんで年寄りばかりのところに行かなければならないのかと言ってダメでした。お家から出て散歩している時に、自宅に帰れなくなる。キヨさんは、「日本の警察は優秀やよ。わし歩いとったら家まで送ってあげっちゃ」。何回か警察に世話になって、このゆびとーまれにお見えになりました。
このゆびに子供がいるのをみて、「あれ、よっちゃん、あんたもここにおるがけえ」といって毎日通われるようになったんです。7年4ヶ月ほとんど毎日お見えになりました。子供の世話をしに来ていると思ってらっしゃるので、5ヶ月のまりちゃんをみたら、おんぶひもを持ってきてひょいとおんぶされます。
ちゃんと子守をしておられます。
お見えになった時から左乳房にしこりがありました。だんだん大きくなりました。認知症を総合病院の精神科でみてもらっていて、外科受診して試験穿刺しました。今、外科的手術をしないとあと半年だと言われました。でも意味のわからないキヨさんはこのままの方がいいだろう、家族と私達で決めました。結果的に3年半長生きされました。2000年の4月に「さよなら」と帰ったとたんに、「かあちゃん今日お願いします」と玄関での声。乳房が破れてろう孔を作ったんです。すごかったです。暑い暑い暑い夏が越せて、9月29日86歳の誕生日が越せて、10月に入って寝たり起きたりになりました。泊まってもいいですよって言ったんだけれども、戦争未亡人で3人の子供を育てたキヨさんのことを、あんちゃんは、どうしても家でみてやりたい、そういって断られられました。結果的に5日間だけこのゆびで泊まられました。これは亡くなる2週間前の映像です。もう貧血が強くて真っ白です。顔もむくんでいます。ほとんど寝ておられて、大人の私達が行くと、「いじくらしい、いじくらしい、触らんで、触らんで」と言われるんですけれども、子供が顔を覗きに行くと、むっくり起き上がって、子供の世話をされるんです。「冷たい足してるぜ、靴下はいとられ」、最後の最後まで仕事をしていかれました。マズローの欲求説で一番下は生理的欲求ですね、一番上は自己実現です。認知症の人に自己実現なんてありえないと思いますよね。でもキヨさんはちゃんと示していってくださいました。本当に最後の最後まで子供の世話をされました。12月31日、大好きな饅頭が喉を通らなくなって、みんなの見守る中で、もう家へ連れていっていいでしょうと先生が話されました。「自営業の仕事の整理と、家を掃除して、明日連れに来ます。もう今晩一日みて欲しい」。私達は「わかりました」。と、言ったと同時にあんちゃんは、「覚悟はできております」。午後9時過ぎ、祝詞をあげにこられたあんちゃんにそっと手をだして、あんちゃんと手を握って、紅白歌合戦の聞こえる中、惣万と私が添い寝をしました。2001年の1月1日、朝の5時39分、静かな眠りの中で息を引き取っていかれました。「母はいの一番が大好きな人でした。2001年1月1日神に召された。死亡欄の一番に書いてあった、完璧な死でした。ありがとうございました」と、長男の喪主の挨拶でした。
タカさん。95歳。この方も14日間泊まられ、このゆびとーまれで亡くなられました。14日間で土、日曜日が2回ずつありましたので、7人の子供さんがお世話をしに来られました。亡くなる5日前に「家にかえりたい」っておっしゃったんです。ああきたなと思いました。95歳の長男は71歳、「母ちゃんどこの家?」。自分の生まれた故郷の庄屋の家を言われました。「母ちゃん、その家もうないよ。もう代も変わっとるし」長男は涙ながらに言いました。そしたらタカさんは、コクンとひとつうなずいて、その後は一回も家に帰りたいとおっしゃいませんでした。14日間で1回だけ、点滴500mlをしました。医療費はそのほかゼロです。7月4日3時、もうそろそろだなと思うとき、先生を呼びました。先生はあなた達で看取りをしてくださいと言われた。「どうして先生?」「ワシは夜は運転せんことにしてるから」。70半ばのお医者さんだったんです。職員が迎えに行きますって言ったのですが、先生が一番に来て下さって、職員と家族の見守る中、3時30分に永眠されました。家族と一緒にお風呂に入れてあげ、着物の大好きな明治生まれの方だったので、大好きな着物を着てお家に帰っていただきました。
隣のおばあちゃんです。この方も95歳で亡くなられました。心不全で入院したんですけど、もう病院は嫌だと口を塞いでものを食べなくなりました。このまま病院にいても仕方ないからと連れてきました。隣のうちとこのゆびは、ナースコールのように、ブザーが鳴り、しょっちゅう行ってました。家にきてしばらくは食べたんですけど、そのうちまた口を塞いで食べなくなった。このままじゃなんでうちに来たのか意味がないしどうしようとみんなで悩みました。私が行って、「ばあちゃん、ばあちゃん、食べても食べなくても人間は死ぬときは死ぬんだよ。のどが渇いた時位は飲もうよ」。と言ったら魔法にかかったように、「うん」て。それから2週間生きて亡くなりました。おばあちゃんの部屋でベッドで亡くなられました。
これは、グループホームで亡くなられた方です。
これを見たときに、ある看護学校の教師の先生が、あ~この手浴の仕方は、洗面器がふたつしてあってとっても感激しましたと、あ~感激されるところが違うなと。
このゆびは「小規模」「多機能」「地域密着」でやっております。
7つの制度を超えてやっております。
今は、本当に赤ちゃんが生まれること、人が死ぬことが在宅で無くなりましたね。
看護師は、「気づき」、「観察」、「判断」、「予測性」が大事です。判断のところまでできるスタッフがたくさんいます。看護師は何が違うか、やっぱり予測性だと思います。病態生理に基づいた予測性ができることが、看護師の出番・本番だと思います。
私達は富山県に、「一人一人が日々感動とチャレンジ精神を持ち、死にがいのある町づくりを」ということを県知事さんに言っています。即、死にがいのある町作り?と言って、却下でした。厚生部長さんも却下でした。
死にがいのある町づくりとは、この町で生まれてこの町で育って、この町で死ぬんだと腹を決めること。あの人みたいに畳の上で死んでよかったな、という身近な死のありがたさを感じる、町づくりのことです。
重度の認知症であっても、こういう笑顔のでる町づくりをしていきたいなと活動を続けております。ありがとうございました。
小野 芳子(山口赤十字病院)
こんな看護を伝えたい-臨床看護実践を通して-
緩和ケアに移行する患者とその家族への支援」
山口赤十字病院でホスピスケアの認定看護師・緩和ケア病棟の師長をしております小野といいます。よろしくお願いいたします。私は、専門的支援というのはちょっと恥ずかしいのですが、緩和ケア病棟に来られる患者さんとご家族に対してどのようなかかわりをしているのかということをお伝えしたいと思います。
まず緩和ケアの考え方についてお話します。WHOは「緩和医療とは、治癒を目的とした治療に反応しなくなった疾患をもつ患者に対して行なわれる、積極的で全人的な医療であり、痛みのコントロール、痛み以外の諸症状のコントロール、心理的な苦痛、社会的な問題、スピリチュアルな問題(spiritual problems)の解決が重要な課題となる。緩和医療の最終目標は、患者とその家族にとって、できる限り良好なQOL(quality of life:生活の質、生命の質)を実現させることである。このような目標をもつので、緩和医療は末期だけでなく、もっと早い病期の患者に対しても、がん病変の治療と同時に適用すべき多くの利点を持っている」(世界保健機関編(武田文和訳):がんの痛みからの解放とパリアティブ・ケア:金原出版:1993)と定義しています。
次に当院の緩和ケア病棟の状況をお話します。病床数は25床で、常勤医師3名、看護師22名、3交替制で3人夜勤を基本としていますが、土日祭日は2人で準夜をしております。チーム医療の提供は医師・看護師・MSW・薬剤師・栄養士・音楽療法士などのメンバーが連携をとりながら患者さんやご家族にケアを提供しております。平成18年度の入院患者さんは271名で、退院患者さんは249名、そのうち死亡された方が173名なので、約7割の方がお亡くなりになっています。しかし3割の方は外来通院に移行したり、あるいは在宅ホスピスケアを受けておられ、昨年度は40名の方を看取っています。平均病床利用率は91.5%で1日平均患者数は22・3名です。在院日数は32.1日です。 緩和ケアに関する診療報酬について簡単に紹介します。緩和ケア病棟は緩和ケア病棟入院料という定額診療で健康保険が適用されます。一日3780点、37800円です。また一定の要件を満たせば、緩和ケア診療加算(一人一回あたり250点)がとれます。現在、当院では緩和ケアチームの活動はしておりませんが10月から活動する予定にしております。
次に緩和ケア移行時の問題点についてお話します。まず緩和ケアのイメージですが、「あそこに行ったらもう終わり」「何もしないところだ」と思っている方も多いです。全人的な積極的な医療を提供しているのですが、消極的な医療というイメージで捉えられがちです。また、逆に「あそこに行ったら何でもしてもらえるから行きなさい」というような説得をされて来られる方もいます。入院後、このような患者さんのもっておられるイメージと実際に提供する医療やケアが違っていた場合は患者さん、家族からは、「何もしてくれない」とか、「話が違う」というような不満や「こんなはずじゃなかった」などの言葉を聞くことがありお互いにとても辛い思いをしておりました。
これらの問題点をふまえて私が支援していることをお話しします。まず患者さんを受け入れるまでの流れを説明します。入院希望があった場合必ず緩和ケア外来を受診していただきます。患者さんやご家族が緩和ケア外来を受診されたら医師は診察をしたあと緩和ケアについて説明をします。その後で病棟見学をしていただきます。病棟見学は看護師長または看護係長が対応します。さらに社会的な問題がある場合にはMSWが対応しています。
私が主にかかわっています病棟見学について説明をします。
病棟見学時の対応として、傾聴、説明、調整という3つを心がけています。まず傾聴です。病棟見学の目的は患者さんやご家族の方に安心感を提供することです。医師からどのような説明を聞いたか、緩和ケアをどう捉えているかを聞きながらその人のことばを引き出すようにしています。最近は大きなズレはなくなりましたが、「何でもしてくれるところ」とか「治療をしてくれるところ」と考えておられることもありますので修正が必要になります。
2つめは説明です。正しい情報提供をします。緩和ケア病棟とはどういうところなのか、病棟で提供できるケアと難しいことについてきちんとお話をします。そして緩和ケア病棟入院料の説明をします。診療報酬は一日3780点ですので、それ以上かかるような高額の抗がん剤の治療や手術などは緩和ケア病棟では提供できないこともお話します。しかし、がん化学療法や手術がその人のQOLを維持するために必要ならば、一般病棟に転棟していただき医療を受けることはできるということも説明します。そのあと病棟内をご案内しています。患者さんとご家族に説明するときに二つの保証をお伝えしてます。一つはがんによっておこるつらい症状をとるためには最善を尽くすということです。二つ目はがんという病気を治すことはできませんが、つらい症状を緩和することでその人らしい生活ができるように援助をしていきますということです。
3つめは調整です。患者さんやご家族の希望と私たちが実際に提供できるケアのギャップがないように、またインフォームド・コンセントを得るために調整をしております。
私はインフォームド・コンセントを説明と同意というよりも情報交換あるいはコミュニケーションと考えています。医療者である私たちは病気の状況と治療方法についての専門的知識があります。一方、当たり前のことですが、患者さんは「自分がこれからどのように生きていきたいか」とか「どのように生活したいか」という人生設計や思いなどを情報としてお持ちです。このお互いの情報を提供しあって、現時点でどうすることが患者さんにとって一番よいのかを一緒に考える。そして、どうしたら患者さんがこうしたい、こうなりたいという目標に到達できるのかということを決定する、そのプロセスが重要であると考えております。
いろいろな情報をお伝えして、患者さんやご家族が自分で自己決定できるように支援することと、エンパワーメントできるようにするというところで調整をしています。
今後の展望ですが、がん相談支援センターを設置する予定です。私が今かかわっている時期は死亡時に近い状況のときが多いですが、これからは診断時から緩和ケアの正しい情報を提供していくことも含め、10月からできる緩和ケアチームとの協働をしていくことで、シームレスなケアの提供ができると考えています。がん支援相談センターの看護部門のメンバーとしてはがん専門看護師(がん看護専門看護師)、ホスピスケア認定看護師(緩和ケア認定看護師)、WOC認定看護師(皮膚・排泄ケア認定看護師、がん化学療法認定看護師などがかかわり、療養場所の情報提供やがん治療についての情報提供、化学療法の副作用対策、スキンケア、リンパマッサージ、ご家族へのケア、チームコンサルトを提供できると考えています。
ご静聴ありがとうございました。
堀 ゆかり(北見赤十字病院周産期母子センター)
こんな看護を伝えたい-臨床看護実践を通して-
「母乳育児支援の継続に向けて」
北見赤十字病院は、北海道のオホーツク圏域における救命救急センターを併設する地方センター病院です。周産期母子センターは、北海道周産期医療システムにおけるオホーツク圏の総合周産期母子医療センター、新生児特定集中治療室管理施設であり、産科外来と病棟は一元化となっています。
1989年にユニセフとWHOが、「母乳育児の保護、促進、そして支援‐産科施設の特別の役割」と題する共同声明を発表しました。そして世界のすべての国のすべての産科施設に対して「母乳育児を成功させるための10カ条」を守ることを呼びかけました。すべての産科でお母さんに母乳育児を奨励することによって、赤ちゃんが人生を可能なかぎり最善のかたちでスタートできるようにしようというものです。この10カ条を採用し、実践すること、長期にわたってこれを守ると「赤ちゃんにやさしい病院」という認定を受けます。
当院は平成15年「赤ちゃんにやさしい病院」の認定を受けました。実際に行っている母乳育児支援を10カ条にそってお伝えします。
- 母乳育児の方針を全ての医療にかかわっている人に、常に知らせること
BFHの認定証であるピカソの母子像は病院ロビーに掲示しています。「母乳育児を成功させるための10か条」のポスターは産科病棟・外来、NICUに掲示し、その内容がわかるようにしています。さらに、病院ホームページに活動を公開し、院内での講演会も開催しています。 - 全ての医療従事者に母乳育児をするために必要な知識と技術を教えること
1年に1回以上、女性や妊婦、一般市民を対象に母乳育児や子育てなどについて講演会を開催し、ご好評をいただいています。また小児科医師とNICU、産科スタッフで、母乳育児が成功したケースやそうでなかったケースも含めて事例検討会を行っています。母子の抱える問題は複雑であり個々に異なるため、答えが出て解決するというような単純なものは少ないですが、母乳育児支援を見直すとともに、スタッフ間の意志の統一を図り次へ生かすようにしています。 - 全ての妊婦に母乳育児のよい点とその方法を良く知らせること
妊婦健診時や母親学級において、妊娠初期から母乳育児への思いを確認し、母親ひとりひとりの乳房の形態を確認しながら母乳育児に関心を持てるように関わっています。妊婦自身が妊娠中から乳房ケアを行うことは、母乳育児に対する意識を高める効果もあるようです。さらに、分娩後の早い時期に小児科医師からお母さんに向けて、おっぱいの話をしていただく時間があり、初乳の大切さをはじめとする母乳育児の利点について知っていただいています。
また、退院前のお母さんから次にお母さんになる方へ向けておっぱい応援メッセージを書いていただいています。そこには、初めておっぱいを吸ってくれたときの感動、赤ちゃんが一生懸命おっぱいを飲んでいる顔を見て愛おしくて感じたこと、女性であるからこそ感じられる喜びをかみしめているという母親としての気持ちや母乳をたくさん飲んで丈夫な子に育ってほしい、という家族の希望も綴られています。 - 母親が分娩後30分以内に母乳を飲ませられるように援助をすること
分娩直後からカンガルーケアを行っています。以前は生まれた赤ちゃんの処置は、お母さんから見えない場所で行われていたため、赤ちゃんはいまどこで何をしているのですか?という声がよく聞かれていました。今ではお母さんや家族から見える所で、羊水を拭き取るなどの処置を受け、その後すぐに赤ちゃんはお母さんのお腹の上で抱かれます。帝王切開時もお母さんと同じ部屋で赤ちゃんの処置を行い、状態によっては早期産の場合でもカンガルーケアを行っています。 - 母親に授乳の指導を充分にし、もし、赤ちゃんから離れることがあっても母乳の分泌を維持する方法を教えてあげること
産褥初期にはお母さんに寄り添いながらお母さんの目線に合わせた授乳支援と、すぐに手を差し伸べるのではなく、お母さんが出来るように見守ることを心がけています。退院が近づくと乳房のセルフケア方法についての説明も加えます。
早期産で生まれてNICUに入院中の赤ちゃんでも、カンガルーケアのために保育器から一時出てお母さんのぬくもりを感じ、とても安心している様子が伺えます。お母さんにもプロラクチンの分泌が増し、母乳分泌が良くなる効果があると伝えています。 - 医学的な必要がないのに、母乳以外のもの、水分、糖水、人工乳を与えないこと
お母さんや赤ちゃんに母乳育児に影響のある既往や内服がある場合を除いて、基本的には母乳以外のものを赤ちゃんには与えていません。糖水やミルクを補足する場合も医師の指示に基づいて与えています。 - 母子同室にすること。赤ちゃんと母親が1日中24時間、一緒にいられるようにすること
分娩室から母子同室が開始となります。母子同室後は自律授乳を勧めています。赤ちゃんは夜間特に母乳を欲しがるため、母子同室しながらでもお母さんが休めるように、添い寝、添え乳をお勧めしています。 - 赤ちゃんが欲しがるときに、欲しがるままに授乳をすすめること
お母さんには授乳の回数やその長さを制限せずに、赤ちゃんの欲しそうなサインを読み取って、なるべく頻繁に十分な時間授乳することをお勧めしています。また、授乳量にもなるべくこだわらず、赤ちゃんの体重増加が良く、お母さんの乳房にトラブルがなければ、赤ちゃんの欲しがるままに授乳を続けていただいています。自律授乳によって、肉体的疲労と頻繁に授乳するために乳房の痛みで母乳育児をあきらめてしまいたいというお母さんもいます。そのような時には、お母さんの気持ちを共感し、努力を認め、お母さんが自信を持って母乳育児を楽しめるようにサポートしていくことが大切と感じています。母乳育児は単に栄養の意味だけではないと考えています。抱っこされ、温かい刺激を受けることで、安定した愛着関係を形成し、目を見て授乳することで絶対的信頼感を持つと言われています。このように母乳育児によって赤ちゃんの心を豊かに育てると考えています。 - 母乳を飲んでいる赤ちゃんにゴムの乳首やおしゃぶりを与えないこと
赤ちゃんに人工の乳首を吸わせると、乳房を吸啜するのが難しくなり、人工乳首を好むようになる吸啜混乱が起こることがあります。その発生を防ぐために、哺乳瓶は医師の指示がないかぎり使用しないことを心がけています。乳頭にトラブルがあるなどの理由で直接授乳ができず、搾乳を与える場合でも、哺乳瓶を使わずにカップを使用して授乳しています。 - 母乳育児のための支援グループを作って援助し、退院する母親に、このようなグループを紹介すること
お母さんと赤ちゃんの心身の健康のため、様々なトラブルを未然に防ぐために退院後母乳育児の状況と赤ちゃんの成長の確認の2週間チェックを実施しています。母乳外来も年間1000件の利用があります。また毎月、母乳育児を行っている母子や家族と医師、助産師などが集まり「母乳の会」を開催しています。これらの母乳育児支援については、退院までにお母さんに紹介しています。
BFH認定後は中心になって、地域や社会での母乳育児を広げるといった母乳育児推進の新たな役割を担います。今後もお母さんと赤ちゃんの最高の幸せのために母乳育児を勧めていただきたいと思います。
塩川 美奈子(日本赤十字社医療センター)
こんな看護を伝えたい-臨床看護実践を通して-
「助産師外来の取り組み」
はじめまして。日赤医療センターの塩川と申します。よろしくお願いします。
私は助産師外来の取り組みというテーマで、これからお話させていただきます。助産師外来とはどういうものかということをまず説明して、それから本題にはいっていきたいと思います。
助産師外来という名前を皆さんは聞いたことがありますか。同じ妊婦を診察するにもかかわらず、医師の外来は医師外来とは言わないのに、助産師外来はなぜ助産師外来と言われているのか私にもわかりません。助産師外来とは助産師が行う妊婦健診のことです。具体的に言うと、助産師が外来を訪れる妊婦の健診を行い順調な経過をたどっているか確認し、妊婦とその家族に快適な妊娠生活や出産について考え、自分で産むという気持ちを妊婦と一緒に高め、安全で快適なお産に繋げていきます。
私が勤めている日赤医療センターの産科の歩みをみていただくと1960年、日赤産院は精神予防性無痛分娩の最盛期でした。1976年に助産師外来は設立されました。2007年の今年、31年たちました。その後も産科はいろいろな取り組みをしてきました。母乳外来も開設しました。主体的に産みたいという女性達の声を反映して、フリースタイル出産の取り組みもしました。双子の出産準備クラスやマタニティヨガの開設もしました。2000年には「赤ちゃんにやさしい病院」に認定されました。助産師外来はどのような経緯をたどり、今まで受け継がれてきたかというと、当時院長であった小林隆先生は産科医だったそうです。小林先生の発案と当時の副看護部長の推進でスタートしました。「正常な妊娠は助産師へ」というコンセプトで始まったそうです。1970年代は非常に分娩数が多く、外来に助産師を派遣することは難しい状況だったそうです。そのような中で31年目の今まで誰が助産師外来を定着させ守ってきたのでしょう。助産師学校の専任教師が助産師学生の教育という名目で妊婦健診を行い定着させてきました。今では、助産師学校の専任教師が助産師外来を行ってはいませが、専任教師が今まで私たちに助産師外来の灯をつないでくれました。
日赤医療センターの分娩数の推移を見ていただくと、1970年代には年間3000件以上の分娩数でした。お産の多い時代でした。出生数の低下に相まって、1990年代に分娩数が減り落ち着くと助産師外来に助産師を派遣することが可能になりました。2000年に「赤ちゃんにやさしい病院」に認定され、そこから少し分娩数は増えました。分娩数の変化が助産師外来のあゆみになっています。
助産師外来の目的ですが、1つ目は、利用者つまり妊婦たちが更に健康に健全に過ごせるように方向づけをします。母子保健の充実と一貫性を図ります。2つ目は、助産師の専門性の確立をします。3つ目は、助産師としての能力、助産診断の能力を養います。4つ目は、学生の教育です。
実施要綱は、助産師外来の対象は20週以降の妊婦です。15分毎の予約制で、月曜日から金曜日の毎日です。助産師が2人ずつ助産師外来に出ています。担当者になるには臨床経験5年目以上です。記録は電子カルテに診察所見を入力します。妊娠28週と34週は医師の診察を受けます。妊婦健診の際、お腹が張りっぽいなどの症状があれば、助産師外来の日であっても医師に診察を依頼します。
診察内容は、妊婦と話しをしながらレオポルドの触診をし、赤ちゃんの胎位や向き、どのような姿勢をしているのか丁寧に観察します。児心音の聴取もします。必要があれば10ヶ月の内診もします。これらを同時進行で診察します。正常に経過しているか判断し、妊娠生活の支援や健康な人たちが対象ですからもっと健康に、今後も順調に、そして自分らしくお産をしていくためには、生活の中でより良くなるヒントを与えます。
部屋に入ってきた時の妊婦の顔色をみて、2週間前に比べて顔つきが暗いな、あれ、顔色が白っぽいな、貧血気味なのかなという直感をはたらかせます。
外診している風景です。お腹の中の赤ちゃんに触るだけではなく、触診の技術ひとつとってもそこからわかることはたくさんあります。赤ちゃんの胎位、お腹は温かいのか冷たいのか、張りっぽいのか柔らかいのか当たり前でシンプルでベーシックな技術を丁寧に行い、助産師外来での能力を培っていきます。
同じように助産師外来の風景です。お腹の計測をしているところです。触診と共に子宮底を計り、週数に見合ったお腹の大きさかどうか、赤ちゃんは妊娠週数相当に発育しているお腹の大きさであるのかみていきます。お腹だけではなく、全身状態の観察もしています。
児心音の聴取をしている風景です。昔はトラウベといって、木の筒のようなもので心音を聴いていました。今はドップラーといわれるもので心音を聴いています。心拍が正確でリズミカルに刻んでいるか観察しています。
今日のテーマであります伝えよう看護のわざ、ということを私なりに考えてみました。31年間歴史を刻んできた助産師外来があります。私は何を先輩たちから伝えられ、そして、後輩たちに何を伝えたいか、かっこいい言葉ではありませんが自分なりなにまとめてみました。まず、ベーシックな触診技術。先程、このゆびとーまれの西村さんのお話にもありましたが、お年寄りが小さな子どもを抱っこして、ほおずりをする、あれも手から手へ、ほっぺからほっぺへ伝わっていくことだと思います。「手」ということを考えた時、実際に妊婦のお腹に先輩と共に触りながらこれはお腹が張っている状態、これはお腹が柔らかい状態、お腹が温かいとか冷たいとか、お腹の中の赤ちゃんの動き方の癖などもわかることなどを受け継がれてきたものだと思うのです。そして、五感です。医療機器に囲まれハイテクを使った診断が行われていますが、先輩が大切にしてきたローテクな診断技術を忘れてはならないと思います。六感は診察室入ってきた妊婦の態度、顔色や表情から何か変だ。いつもと違うといった直感がはたらくことがあります。異常を早くみつけることにも繋がります。これは、看護の世界では共通することだと思います。生活者としての知恵というのは、正常な変化を確認して妊婦に自信を持たせ、もっと元気に健康に生活していけるような知恵を提供していくことです。一瞬にフォーカスをあてるアセスメントと最後に書きました。私たちの助産師外来は15分枠です。時間の長短ではなく、注意深く瞬時に観察し、判断していくちからをつけていき、後輩たちにも助産の技として受け継いでいきたいと考えています。
御静聴ありがとうございました。