日本赤十字看護学会

委員会活動

国際協力における赤十字看護師の活動

国際救援・国際協力における赤十字看護師の活動
-国際協力を実践している赤十字看護師の活躍を知る
-第9回日本赤十字看護学会学術集会 交流セッション
主催:日本赤十字看護学会国際活動委員会

日本赤十字国際活動委員会の原でございます。日本赤十字看護学会国際活動委員会は、赤十字看護師の国際活動について情報を共有しながら学術的発展を支援することを目的に2007年度に新しく立ち上げられました。委員会活動のスタートとして、海外での活動実績のある方の体験談等を会員相互で共有する場をつくりたいと考えております。

「赤十字看護師の国際的な活動」として、紛争や災害で苦しむ人々を救うための国際救援や、さまざまな国際協力が挙げられます。「国際救援」については、戦時救護を含めると日清戦争を始まりとして、歴史的に数多く報告されています。しかし、「国際協力」については、どのような活動がされているのかその実態については、あまり知られていません。

そこで、日本赤十字国際活動委員会が開催する第1回目の交流セッションでは、「国際協力における看護師の活躍」に焦点をあてることにしました。3名のシンポジストによる国際協力の動機やキャリア発達のための取り組み、活動の実際や自身の体験を通して日本赤十字看護学会に望むこと等の話題提供を受けながら、赤十字看護師の国際協力について理解をすすめ、未来のあるべき姿を考えていきたいと思います。

ここから先の進行は、日本赤十字看護大学の関先生にお願いをしております。関先生よろしくお願いいたします。

国際活動委員会 委員長 原 玲子

皆様こんにちは、日本赤十字看護大学の関と申します。司会をさせていただくことになりました。宜しくお願いいたします。本日の進行は、まず三人のシンポジストに15分から20分位、各方の発表していただき、その後フロアーからの質問やディスカッションをしていきたいと思います。どうぞ宜しくお願いいたします。

では、発表者のご紹介をいたします。最初の発表は、葛飾赤十字産院の助産師である荒巻東香さんです。「国際救援協力における看護職の活動」というテーマでお話をしていただきます。宜しくお願いいたします。

国際活動委員会委員 関

話題提供者

荒巻 東香(葛飾赤十字産院 助産師)

「国際救援協力における看護職の活動」

こんにちは、私は、葛飾赤十字産院という赤十字の中で唯一の産院、そして下町にある赤十字病院で、助産師をしております荒巻と申します。現在、助産師暦8年目となりまして、その中で国際活動を2回経験しています。そのことをもとに今日お話をさせていただきます。配布させていただいた資料に経歴を少し書かせていただきました。国際救援参加までの経緯として、英語がどうしても必要だったので英語の研修を受けておりました。その最中にスマトラ沖地震が発生しまして、スマトラ沖地震被災地への救援活動に対して一般公募があったので、それに応募して派遣をされました。その後、帰国して再度英語研修と国際活動に必要な基礎研修を受け、終了後の2006月12月から6月までの半年間、アフリカのジンバブエに派遣されて活動をして参りました。

国際救援活動の経歴は、今お話しましたスマトラ沖地震とジンバブエのHIVエイズの二つの活動です。スマトラ沖地震は、2004年12月に発生しましたが、この時、必要な研修をまだ何も受けておらず、ただ私のやる気だけで参加させていただいという形になります。全5班が発動しましたが、その中の最後の班=撤収班の一員として2005年3月から1ヶ月間派遣されました。私は助産師として派遣されまして、母子助産活動を現地助産師に引き継いで日赤の仕事を終了させてくるという役割で行って参りました。今思えば、この時の発動、この時の私の役割というのは、とても明確だったと思います。

第9回学術集会:交流セッション

写真を見てのとおり、簡易型の医療テント内で、診療の補助や簡単な処置、必要な薬を患者さんに渡すというようなことが、看護職の役割になりました。また、自分たちが宿泊している場所に戻って、必要な器材の蒸気による消毒や、薬をボトルから袋に入れ替えたり、当日の活動をまとめて記録するなどの活動を行っていました。また、仮設住宅やテントを回った時には、その地域のアセスメントをするために、その土地のリーダーさんに会って、この仮設住宅には、いったいどの位の人が住んでいて、どういう人口構成でどういうことが問題なっているのか等を、聞き取り調査するということも看護職の仕事でした。また、医療ボランティア=地元の医療ボランティアの人たちに、どんな活動をしているのか、どういうところをフォローしてくれるのか、どんな物品が足りないのか、私たちが協力できることはないのか、といったようなことを聞いて回るということもしました。私自身の、助産師としてのERUでの目的・役目は、助産師として活動すること、活動を終了させるということでした。ですので、妊婦検診、妊婦への予防接種、新生児検診、小児検診=2歳以下を対象に検診、を行ってきました。また、活動を終了させるために、これまで使用していた器材をすべて片付け、幾つ運ばれてきていて、幾つ使って、幾つ残っているのか、それを何処に寄付するのか、持って帰るのか、破棄するのかというような振り分けをしました。写真の向かって右下は、地元の助産師=黄色のベールみたいのをかぶっている人に、私がフォローしていたキャンプ地、テントや仮設住宅に居る妊婦、産婦、新生児の情報を伝えて、今後のフォローを委託して引き継ぎました。

また、ジンバブエHIVエイズ事業には、2006年12月から6月まで携わってきました。このときには、国際救援活動に必要な基礎研修は一応すべて終了しており、二国間事業=日赤とジンバブエ赤十字が提携して行っている事業に、研修生として派遣される形で行きました。この研修生として派遣された日赤本社からの課題は、将来、ヘルス・デリゲートになるための資質を身に付けるということでした。

ジンバブエといっても広いですが、ジンバブエにある八つの支部の内の一つに派遣されて、そこの支部で行っている活動の内、日赤が寄付をして行われている「HIVエイズに罹っている方たちへの在宅支援事業」を中心に活動して来ました。それまでに、6人の研修生が派遣されており、わたしが行った支部では、日赤から派遣されてきた研修生は初めてでした。

この時の目的・活動内容は、はっきりしていたのですが、内容自体は自分自身で見出す必要がありました。支部の活動のサポートをするということで行っており、私自身は、その地域にある能力を活かして更なるレベルアップをめざすとか、あと、私が居なくなってもプロジェクトを継続していけるかということが大前提なのか?そのプロジェクトが人々に受け入れられるのかが重要なポイントなのだろうなと思って行きました。支部のサポートといっても、私は、これまで病院でしか働いたことがなかったので、大きな広い地域に対して何かをするということはわかりにくく、その方法や、見知らぬ地域、生活に慣れてそこで問題点を見出していく過程は、本当に難しいことでした。

ただ、私が派遣される半年くらい前に、日赤の人たちがグループを組んで中間評価をして下さっており、問題点を抽出してあり、それをもとに自分の計画をし、活動をしてきました。在宅支援というかたちで、HIVエイズ患者さんの所にボランティアが訪問に行って健康状態を聞くということをしていたましたが、そのボランティアさんたちへの研修の開催が滞っておりました。

これに対して、予算をつけて、研修を開催しました。いろいろな地域の病院へ行き、HIVエイズ・薬・マラリアの専門家に会い、講師を依頼し、私自身はコーディネーターの役割を担ってきました。また、そのボランティアのリーダーさん達が、受けた研修を活用できているかどうかのモニタリングシステムを考え、実践してきました。三つの地域にリーダーが居ましたが、そのリーダー達でどのようにボランティアを管理していくのか、物品や情報を管理していくのかを話し合う機会を設けました。これらの活動を通しながらも、ずーと、自分の中で私の役割とは何なのか、と考えながら活動するような形で、その前のスマトラのときと比べて、自分の中では役割が曖昧というか、明確にならないまま活動していたような感じがありました。私は、研修生としているが、相手からは日赤代表として見られており、ヘルス・デリゲートになるためにということで行ったが、ヘルス・デリゲートとは何なのかという思いがずっと渦巻く中で仕事をしていたり・・・あと、私は看護職として行っているのか、看護職というよりコーディネーターとして行っている私は、何か別の資格や勉強が必要ではないかな、と思いながら、この時仕事をしていました。活動内容は、自分で決定するということで行ったのですが、難しく、どうやって問題点を抽出していくのか、6ヵ月の限られた期間の中で活動を終了させなくてはいけないこと、どの位の配分を使って問題点を抽出するのか、計画に持っていくか、計画の妥当性、などが分からないいまま、右往左往しながらやっていたように思います。

それと経済面です。病院で働いている時には、これに対していくら付くとか、そういうことを考えて仕事をしたことがなかったので、例えば自分が視察に出る際のガソリン代や宿泊代、人件費等を考えれば、果たして、その視察にいくことが本当に妥当なことなのかとか・・・考えていました。

そもそも、日赤のプロジェクトを把握するということは=長い事業であるジンバウエHIVエイズ支援事業の経過や概要をつかむことは、私にとっては、非常に難しいことでした。私は研修生として行ったはずですが、通常病院で看護婦・助産婦として働いている時、研修中にレポートを書けば、病院の中では当然のようにそれに対するフィードバックがありました。しかし、報告書を書いていく中でのフィードバックはなく、フィードバックがないというのはいいということなのか、それとも読まれてないのかなあとか、そういうことを常に不安に思いながら、悩みました。私が今後、国際活動していく上で自分で見ださなければいけない課題でもありますが、私のやってきたことを振り返って何かアドバイスなどがあればいいのにと思いながら今も過ごしています。

この二つ、たった二つの経験の中だけですが、私が感じた相違点は、第5班スマトラでは撤収班、最後の班として行ったせいもあるのと思うのですが、ある程度、自分主体で動けた活動でした。国際協力は、私がと主体にはならず、相手がもうほんとに主体となって動かなければいけない活動です。ここが、すごく違うなと感じました。

いろいろな意見があるかと思いますが、ERUでは、看護師・助産師として持っている技術をどんどん活かす感じでしたが、ジンバウエの開発協力では、どちらかというと私が大学で学んできた中の、保健師としての知識、地域住民に対してどうアプローチをするかとか、どういうふうに課題を見つけていくのかっていうようなところで、保健師としての知識や技術が必要になってくるのかなというように感じました。結局のところは、看護職の役割は、今言葉できちんと表わせないところが、私の今の現状であり、今後、勉強を重、活動を重ねていく中で、「役割はこういうものですよ」と言えるようになっていきたいと思っています。どうもありがとうございました。

国際活動委員会委員 関

ありがとうございました。荒巻さんがトップバッターになっていただいたのはですね、やはり卒業して臨床にいて、そこから救援とか国際協力に出かけて行く、その時に出会うような課題とか問題などを、彼女は非常によく伝えられる立場に今いるということで、今回お話をいただきました。非常にいろいろな課題があることが、私たちにも伝わったと思います。

では、次のシンポジストです。小川里美さんです。日本赤十字秋田短期大学の講師をされています。タイトルは赤十字国際活動と研究です。小川さんには、赤十字国際委員会(ICRC)での活動をメインに別の角度から活動についてお話していただけると思います。宜しくお願いいたします。

話題提供者

小川 里美(日本赤十字秋田短期大学)

「赤十字国際活動と研究」

日本赤十字秋田短期大学から参りました小川です。私の発表は先ほどの方と違って写真がまったくありません。なんとか話術でつないでいきたいと思います。宜しくお願いいたします。

まず最初に、私のこれまでやってきた活動を紹介しておきたいと思います。日本赤十字社から92年に出て、9回派遣をさせていただきました。9割がICRCということで、紛争地域でずっとやって参りました。で、今日のお話もどちらかというと日赤でもなく、国際赤十字・赤新月社連盟(連盟)でもなく、ICRCの話になっていってしまうと思う所をご了承願いたいと思います。で、同じICRCの中でも昨年参りました2007年のスーダンのダルフールのラフォスティ以外は、すべて病院の支援、赤十字の戦傷外科病院、或いは国の中で内戦が起こって病院が機能しない所での支援ということを中心にやっておりました。ただ、98年のアフガニスタンの地震調査というのは別です。で、1点修正をさせてください。

では、これらの活動を通して、私自身が自分の課題をどんなふうにとらえて、それに対してどんなふうに取り組んできたかのということをお話したいと思います。だんだん国際救援をやる人間の中でも私は古い人間になって参りました。で、92年に出た前の年に、日本赤十字社幹部看護婦研修所で、赤十字の理解としてジュネーブ条約を、その中で、医療要員の権利と義務ということを、全部の条約から見て、それをまとめてプレゼンをするという演習をやりました。また、語学研修でも若干似たようなことをやっていて、私の中では、そうか紛争地域で活動する時は、こういう条約がこんなふうにやって、すごい犠牲者も守られている、しかも私たち医療要員もこんなことができるんだと思ってロキチョキオに参りました。このロキチョキオというのは、ICRCが設立した戦傷外科病院で、日赤から出るナースのファーストミッションですね。初めて出る時のビギナーズコースで必ず通るような登竜門で、ここで、戦傷外科のノウハウとか、病院でケアすることの基本的なことを経験させていただくという所でした。92年当時は、まだ国連とICRCしか入っていなくて、それはまあ、惨憺たるようなとこだった訳であります。行ってみてわかったことが、実は国際法というのは、条文であってもまったく機能していない。ほとんど無法地帯というような所で、我々医療要員や、或いは犠牲者となって運ばれた患者さんが、攻撃の対象になっているというようなことが何度かありました。

私自身は、あんなに研修所で学んだジュネーブ条約って何とか、それと、私は病院の支援に入って、看護師なんですけれど、その医療の支援でしか赤十字というものを捉えていなかったのですが、実はICRCに行っていただけると分かるのですが、医療の部門というのは、地下のほんとに一部分で、それ以外は全部違う部門なのです。じゃ、赤十字っていったい何をやっている所なのかということを、もう少し知ろうと思って大学に入ることを決めました。京都ですので、立命館大学の法学部の夜間に行きました。そこで、国際法を学びたかったのですが、夜間は国際法のゼミが開講されておらず、ただ一生懸命勉強したら、そういうゼミに参加してもいいということで、私はジュネーブ諸条約について、ゼミでまとめました。ちょうど1990年代は、人間の安全保障ということがいわれ始めた時代でした。国際協力の中で、いったいそれをどんなふうに実現していくのか、それがちょうど今、この間TICAD Ⅳというのがアフリカの開発会議とかあったのですが、国連も開発のミレニアムの目標にあげているのですけれど、そういう中で赤十字の果たす役割は何なのだろう、ということをもう少し広く考えたくて、そのまま大学院で研究をいたしました。ところが大学がこういう大学ですので、保健の研究はしてくれるな、ということだったので、赤十字と予防外交、紛争に行く前にいったい赤十字の果たせる役割っていったい何だろうと政治学と法学の視点からまとめました。

ちょうどその時に、本社の方から、「いい加減に勉強やめてもう一回フィールドに戻れ」ということで、スーダンのジュダという所に行きました。ここは、ICRCの中でも、ICRCの病院でなくって、スーダン政府の病院の中で、そのシステムを借りて支援をしているようなものです。

私自身はこのミッションが非常にターニングポイントになったのです。それまでICRCは、8年間この病院への支援をしておりました。ですがアウト感がゼロだったので我々のアプローチに問題があるのだろうと考え、私への使命は、「それを明らかにして対策をたてよ」でありました。看護の実態を見ていくと、いろいろなことが分かって来ました。この中身については、九州で日赤看護学会が開催された時、発表させていただいたので、割愛させていただきますが、いろいろありました。

一つには、ICRC自体のアプローチの仕方に、ダブルスタンダードがあり、誤っていたこと、それから、国のシステムの問題、紛争という文脈の中で看護そのものを考えないといけないということがありました。そこで、それまでのアプローチをまったく変えていくことにしました。ICRCは、いわゆる紛争地域で緊急的な人道支援に入る機関なので、人の教育をするのは、オン・ザ・ジョブ・トレーニングでやっていくということですが、それでは駄目だろうということで、教育のアプローチを抜本的に見直すということにしました。ちょうどですね、その頃、それこそ人間の安全保障ということがいわれているのと、多くの国際機関が人道支援の中で、やはり人材開発をしていかないといけないということで、キャパシティ・ビルディング、サスティナビリティ、つまり持続可能な人材開発を目的とした人材開発ということが言われていた。ICRCもジュダでもう5年も紛争がおこっていないのであれば、そういうふうなアプローチにしていかないといけないとの調査報告をまとめました。きっと看護部門だけだったら、絶対ICRCは「うん」と言わないのですが、時を同じくして医師部門からも同じ報告書がでた。それから病院の管理部門から、私たちは三つ頭をそろえて、「ICRCのアプローチを変えてください」とジュネーブに提出しました。難色は示されましたが、何とか説得ができ予算がつきました。5年間は、このプログラムで人材育成をさせてくださいということを言い、教育支援のプログラムが立ち上がりました。

私はそれを立ち上げて、実施したところで帰国して、再びリベリアを経由して戻ってきたわけです。次は看護管理者でした。そうすると、プログラムを実施して、その結果をある程度見ることができたのです。

ジュバもやはりファーストミッションの方を多く受け入れました。皆さん何かしたくて仕方ない。「国際協力では新しい考えでなく、プロジェクトとこのラインをフォローしてください」と、目標管理をコントロールしまして一定の成果を見せました。そして、私が入った2001年当時よりは、看護のレベルとか医療のレベルは改善を見ました。ですが、それは一時的で継続はしていきませんでした。教育の評価は、そんなに簡単にはできるとは思いません。波があって少しずつのぼっていけばいいのですが、波があったら、それにさらされてですね、また砂地に戻るというようなことで・・・結局ですね、すぐには、成果が上がってこない。

次に発表される吉田千有紀さんも、ジュバにも行かれていたと思うのですが・・・まあ確かにいろいろ改善があるのですけれど・・・最終的に2007年にICRCが撤退をして、JICAが入りましたがJICAの報告を聞いてもやはり、あまりいい結果は出ていません。

ということで、私は、自分のアプローチはあの時あれだけ調査をして、問題分析をして筋道を立てて、間違いはないだろうって・・・だけど、結果が出ないのはなんでだろうということを自分自身に問いました。もしかしたら何か人材育成のあり方に、もうちょっと考慮しないならないことがあったのではないか、ということが疑問にあがってきました。

もう一つは、プロジェクトの後、ICRCに対してあのジュバの結果はどういうことなのかと問うたのですが、「あれは終わったことだからもういいのです」とのことでした。私は、追跡調査をして、あれだけの予算と人を使ってやったことに対して、どんなんだろうということを聞いたのですが、それに対しては回答が得られなかった。

本当にそうなのだろうかと思ってですね、実はICRCの中には、マネジメントのミーティング、マネジメントをやった人達で集まる研修というのがあるのですけれど・・・そこでやはり、プロジェクトの評価が必要ではないかと言われ始めました。これはやはりほっておけないということで、研究的に取り組んで物ことを明らかにしたいと思い、青森県立保健大学の大学院で、博士論文の研究テーマとして、このジュバの体験を基に、研究してみようと思っております。

実は看護というのは私の中では、個人的なのですけれど、国家とかそういう文化を含めて普遍的なものじゃないだろうかと思っていたことが、実はそうではないじゃないのかなっていうのが出てきました。これを明らかにするために8月から調査に入って、紛争という中で看護職を選択した人達がいったい何を考えているのかというあたりを、聞きながらまとめていければな、というふうに思っています。ICRCがやっている看護支援プログラムとしての技術主体型になっている。もうすでに、日本の災害看護学会など、いろんなところで・・・・の弊害ということは言われていて、技術も必要なのですがそうではない何かもっと素地になるものを出していかないとないではないかなというあたりで、何か教育支援のプログラムを構築していく関与をしていきたいというふうに思っています。

もう1点はですね、ICRCで先ほど言いましたようにマネジメントのメンバーの中でそのプロジェクトの質の評価もしていかないといけない、病院に対して、病院支援に対しては、病院機能評価をICRCは持っています。しかし、それもやはりスナップショット、一時的なものでしか、その場限りの病院の像というのが出るようになっているのですが、はたして私達がやってきた中身の質だとか、その継続はどんなふうになっているのかということはやはりいえないですね。でもそれはやっぱり人道支援機関とは言いながら、やっていって明らかにしないといけないのでないかということで・・・おそらくそのミーティングが9月からたちあがってやっていくことになっています。

ですので、いずれそういうプロジェクトの質の評価のあり方というのも考えていきたいと思っております。で、最後に今後の日本赤十字看護学会に期待することですが、こうやって自分自身がこれだけの機会をもらって、ICRCでやってきたのですけれど、自分を含めてやはり活動報告で終わっています。

その中での気づきだとか、課題は提言してきましたが、研究的に取り組むということはやってこなかった。でも、実は報告書も非常に貴重なデータになるし、私たちの体験というのもものすごく貴重なものであると思うんです。それをそこで終わらせるのでなくて、やっぱり発展させていくためには研究という形で残していく、それの必要性があるのではないか・・・

それは、ここだけでなく、ICRCに対しても一言は言いたいのですが・・・やはりどんなふうにその研究の問いを立てていくのかっていうことを、今、博士論文作成をしながら非常に苦しんでいます。リサーチクエスションのたて方、クエスションに対してどういう研究方法をすればそれが明きらかになっていくのか、何が妥当な方法なのか、これを一人でやるのは非常に悶々として苦しいです。なので、やっぱり研究になかなか皆さん足が進まないと思うのですけれど、こういう所で、先生方から、研究でやっておられる方からちょっとお尻をたたいていただいたりとか、助言をいただけたらありがたいな、と思っております。以上で私の発表を終わらせていただきたいと思います。ありがとうございました。

国際活動委員会委員 関

どうもありがとうございました。あのスーダンのお話がもう少しリアルな写真と一緒に出るかとなあと思いましたら、もう非常にご自分の課題の所にフォーカスを当てて、そのことを話していただきまして、研究をどういうふうにするかというあたりの示唆があるかな、というふうに思います。ありがとうございました。

では、最後のシンポジストですけれど、吉田千有紀さんです。日本赤十字社和歌山医療センター国際医療救援部で看護師長をされております。今日発表していただきますのは、「思いは繋がる、赤十字の輪をもっと広げていこう」ということで、スマトラ島で出会った赤十字ボランティア達を中心に話をしていただきます。あのニカラグアのお話もできればちょっと入れていただければな、と思いながらいました。つい先日、ニカラグアの調査から戻られただけ、たった今戻ったということなので、できればそういうこともちょっと入れていただければな、と思っております。どうぞ宜しくお願いいたします。

話題提供者

吉田 千有紀(日本赤十字社和歌山医療センター国際医療救援部)

「思いは繋がる、赤十字の輪をもっと広げていこう」

ご紹介ありかとうございます。日焼けをしておりましてちょっと見苦しい顔を人前に見せなければいけないという恥ずかしさと、私自身のことについて話しをしなければならないというもどかしさで、ちょっと複雑な気持ちです。初めに、こちらの大学に初めて来させていただいて、非常にもう自然に恵まれたとてもいい環境で勉強されているんだなとつくづく思いました。一番に、はっと気づいたのが、「ムカデに注意」という張り紙が、女子ロッカー室の所に張ってありまして・・・「あー、これは水がきれいだからムカデがいるのだな、山が近いのだな」って、ふと思ったのです。私もそういったような状況でいつも仕事をしているものですから・・・ムカデにはいつも敏感でして・・・水の綺麗な所に寄ってくるのですよね。特に水洗トイレの所が皆さん危ないですので、トイレ開けたとき中を良く見てから、あのー用をたされた方がよろしいかと思うんですけど。すいません、ちょっと感想述べさせていただきました。

まず私のことから少しお話をさせていただきたいのですが、私は生まれも育ちも和歌山で非常に温暖な気候と静かな城下町で生まれ育ちました。看護師の道を選んで、それから助産師となって地元の赤十字病院に就職しました。で、もう20年くらい前のことになるのですが、病院勤務を始めた頃は、いかにお母さん方に肯定的な妊娠と分娩の過程を過ごしていただくか、そして産後の母乳栄養をどう確立していくかということを、真剣に考えて8年間を過ごしました。その結果いろいろな技術訓練を受けて、一時助産所を経営したいと自分自身で思ったのですが、ひょんなことで病院から研修生として英国の病院で働く機会を与えていただきました。

その中で、いろいろ助産のことも含めて訪問看護活動や、地域保健の重要性を学び、海外での看護活動に対して非常に興味を持ったところがこれからの活動のきっかけになっております。

赤十字活動との関りについては、就職して8年目、カンボジアの医療協力事業に6ヵ月間派遣する機会を得ました。1995年カンボジアのプノンペン市にある母子保健センターでの活動が、ファーストミッションになります。小川先生よりは少しまだ若い(笑い)、要員だとここで自負したいのですが・・・1年違いですか・・・いやいや、小川先生はもう非常に経験もおありなのです・・・私の話など恥ずかしくてここで言うのもなんなのですが・・・少し聞いてください。

赴任してすぐに母子センターで分娩がありました。センターのスタッフから分娩介助を見せてほしいという要望があったんですね。多分私の助産師としてのこれは力量を試されたんだなあって思ったのです。非常に感動的な分娩で、元気な赤ちゃんが生まれました。初めて取り上げたカンボジアの赤ちゃんで、今でもよく覚えております。お母さんが、「この子の名前は、千有紀って名前を付けてみようかな」って言ってくれたのが非常に頭の中に残っていまして、非常に感激いたしました。

派遣先では、時々、こういったことに遭遇するのですが、アフガニスタン、スーダンでも同じように、自分の子供に私の名前を名づけてくれるご両親がおります。発音が少し違うのですが、アフガンの場合はチェキで、スーダンの場合は、チウという発音です。南部スーダンの訛りの言葉で、えーと、現地語で「非常にやんちゃな、いうことを聞かない子」という意味らしいです。子供たちがほんとに元気で勉強できているのかな、とか考えることがあります。

さて、カンボジアでは、カンボジア赤十字を支援したのですが、保健省と共に活動することも多く、その中で予防接種活動とか、訪問看護活動を学ぶ機会がありました。私自身、初めてのミッションということで、一応、「BTC」といいまして基礎研修を修了して行ったのですが、まだまだ知らないことだらけでした。特に自分の体調をコントロールするというのが非常に難しくて、下痢をしたことなどがありました。その他、デング熱が流行した頃に、発熱や湿疹が出てしまったことも・・・その時に初めて熱帯シマカという蚊がいるということに気が付いたというように、まったく世間知らずの私だったな、と思いました。

村の方に出たら、極度に栄養失調児で、コレラや結核で患者さんが亡くなっていく様子を目の当たりにしたのもこの時が最初でした。伝染病の恐ろしさとか、予防の大切さというものを本当に痛感しました。この頃のプノンペンの治安は、決して安定した状況ではなく、初めて銃声を聞き、戦車が走る様子を見たりしました。この派遣の時にもICRCの人々と出会って、その活動の一端に触れることができました。その時感じたのが、同じ赤十字なのに役割や活動の範囲が違うということを実感しました。でも、私たちは、結局は赤十字という連合体の中で活動していること、そしてまあー、英語で言えばソリダリティ、という意味になると思うんですが、連帯というのはこういうような気持ちなのかなという感慨もあり、その後、いろいろ勉強しなくてはならないと思うようなことが幾つか出てきました。

先程も小川先生が、法学部に進学されて国際法などを勉強された、ということでしたが、私も通信教育課程でしたが、法学部に進学し、特に国際法や政治史、外交史を通して様々なこと例の基に紛争時の平和的解決手段について、研究というより雑学程度だと思うのですが、勉強しました。国際協力分野では、特に赤十字で活動するには、国際情勢や活動に関連した法律を理解することが必要と感じたからです。それと今もこれは続けていることですが、やはりミーティング・国際会議などに出たりする機会がちょくちょくあります。その時に、きちんとした共通言語で討論できるだけの力とか、あと英文を読み書きがきちんとできるための語学力はやっぱり付けておかなきゃいけないということで、勉強を続けております。それと、いうまでもなく、公衆衛生学、時に疫学、社会調査法、フィールドワーク論、そういってものは、地域保健の分析を行う上で非常に重要です。それに使える知識と手法です。こういったものも大学や外務省などの主催するセミナーなどに参加して、実践で活用できるための訓練を続けてきました。その後、働きながら多くの学ぶ機会に恵まれたこと、そして、やっぱり和歌山の病院の上司の方々がいつも私の成長を見守っていてくれたこと、加え、赤十字関係者の皆様が、派遣の機会を与えてくださった、ということで、現在4年と6ヵ月になりますが、インドネシア、アフガニスタン、スーダンなどで、国際協力活動もしくは国際救援活動に参加する機会を得ました。

現在、私が取り組んでいることですが、国内外に問わず、新人ナースといえない年齢でもあって、シニアナースとして、そして、チームリーダーとして地域の人々やメンバー、ボランティアの活動を支援すること、そして、赤十字の輪を広げる活動が私のこれからの課題になってきています。それと、もう一つ仕事のことですが、国際赤十字連盟のフィールド・アセスメント・コーディネション・チーム(FACT)と呼ばれるチームがありますが、その一員としてこれから活動していくための訓練を受けています。このFACTは世界各国で起こる大規模災害発生時に24時間以内に現地に入り調査調整業務を行うことを役割としております。

関先生から、先ほどニカラグアの調査の話が出ましたが、これもFACTの仕事の一環で、中米が非常にサイクロンの多発する地域の調査を実施しました・・・実際に行った国は、ベリーズという国ですが、そのベリーズ赤十字社の方から、災害に備えてどういったプランが必要かというような話が出てきまして・・・FACTのメンバーと、あと公衆衛生の専門家を約18名ほど集めて、調査をしました。ただしこれは完全なミッションでなくって、ある程度その流れを勉強するという意味も含まれておりまして、私にとっては有益なものでした。ヘルスですが、ヘルスといっても私達は、疾病の、特に病院にいれば疾病について、ケアについて、研究したり勉強したりしていますが、地域に出るとヘルスの最も重要なテーマは、バイタルニーズ、例えばシェルターであったり、水、衛生であったりそして栄養状態、食料の補給の状況・・・そういったものが非常に関連しあってヘルスと、ヘルスの健康問題と関連しあっており、その一つ一つのバイタルニーズについてのアセスメントを今回行ってまいりました。また、今日は別にスマトラのお話をさせていただきたいので、また後ほどそのことについてお話させてもらいたいと思います。

救援活動の現場では、本当に私達一人一人の力はとっても小さいと思いました。時折その厳しい現実や援助の限界を感じることがありますが、だからこそ負けてはいられないなと思ったのです。何が必要なのかと思った時に、やっぱり互いにこう支えあって、一つのプロジェクトなりを考えていく気持ちとか行動というのが大ことなのだと思いました。世界では、ゆっくりかもしれませんが、着実に人種や宗教や価値観、国境を超えたところで人々が交じり合って、優しい気持ちで繋がって、支えあっていく輪というものは大きくなっていっているということを、時々実感することがあります。

最後のお話になりますが、そのーを感じた今回のスマトラ島沖地震津波復興支援活動の中での話をさせていただきたいと思います。2004年の12月26日午前7時59分、インドネシアのスマトラ島北端で強い地震と津波が起こりました。死者、行方不明者が約22万人、被災者が210万人の被害を出しました。その頃私はスーダンにおりまして、特に日赤の方々の活動は、テレビや送られてくるメールなどでも拝見して、本当に大変だったろうなという思いを実感しております。

スーダン帰国後、日本赤十字社より災害復興支援事業の保健プログラム策定のお仕事をいただきました。2005年6月にスマトラ島に向かいました。アチェ州での保健施設の再建や地元赤十字社の能力強化、防災計画に対応した救急法を含めたヘルスプロモーション、CBFAの活動支援に対する保健プログラムを立案して、それを国際赤十字の、連盟調整会議で承認をもらうというのが私の責務となっておりました。その承認のためにインドネシア全体のCBFA事業の標準化であったり、明確な資金運用計画を立てなければいけなかったり、アチェ州での赤十字の存在をジャワ島を拠点としているインドネシア赤十字社本部に認めてもらう活動をしたり、派遣の前半は、アチ州に居るというより、ジャワ島へ向かって各国赤十字社、連盟、国際機関、そして保健省との調整業務にめまぐるしく動きました。その中での私の力は、ほんとに小さいものでしたが、それを支えてくれたのが、地元赤十字社の職員であり、ボランティア、大学職員、保健省の職員でした。私達の活動は歩み始め、村で基礎保健調査を行うこともでき、そこで協力できる赤十字ボランティアを募集して、一人一人と面接を行いながら30名の協力員を選びました。

この写真は、ナガンラヤという所の支部で行った基礎保健調査を行ったワークショップの模様です。2日間ワークショップをおこなって、プレテストをして、サンプリングの取り方や集計の仕方などを再確認しながら、約850世帯の対象に対して調査を実施していきました。ボランティアの皆さんは、ほんとに朝早くから夕方近くまで活動してくれました。私たちは、日当といいますかお昼ご飯代だけは出したのです、お昼ご飯を出したのですが、それ以外は何も出さないけれども、朝から夜までほんとによく働いてくれて・・・しかし、彼らも実は被災者だったのです。ある女性は、津波の際、両親を失って、バンダアチェの看護学校にも通えなくなった学生さんでした。でも、調査を日赤がすることを聞き、調査に参加したいということで来てくださって、そこで出会った人達と、いろいろなことを話したらしいのです、彼女は、まだお金はないけども、バイトをしてお金を貯めて、そして、自分の夢を諦めないようにして、看護師の道を続けたいと話していました。

関先生もご存知かと存じますが、グループリーダーを務めてくれた方も学校の教師をしておりまして、5人の子供を抱えて被災したわけなんです。向こうでは学校の先生というのは本当に給料が安くって、食べていけないというのが実情です。でも、「教師という仕事は子供に希望を与える、子供たちが元気だ、だから続けているのだ。」といって、がんばってくれている様子は、反対に私が励まされるような気持ちになりました。

こうやって一人一人の気持ちが重なり合って赤十字は成り立っているのではないかと思うことがあります。今。世界中で約9000万人もの人が、何らかの活動で赤十字にボランティアとして関ってくださっています。それと、赤十字職員が赤十字活動を支えています。私たちもその中の一員であることに私は誇りを持っていますし、これからも私にできる9000万分の一の力を合わせて、赤十字の輪を広げていければいいかなと思っています。

もしこちらにお越しの皆様で、赤十字看護師としてこれから国際活動を目指す皆様がいらっしゃいましたら、私はエールを送りたいと思います。私たちの可能性は無限にあると思うのでそれにチャレンジして、共に世界を見ましょう。ご清聴をありがとうございました。

国際活動委員会委員 関

発表ありがとうございました。ご自身の活動を通して、現地の紹介ですと、やはり私たちが今後、考えていかなければいけないことをご提案していただいたと思います。では、これから、ディスカッションに入りますので、どうぞ皆様前の方にお出でください。

皆さん、非常に濃い内容のお話を短時間にしていただきましたので、聞いている方も非常に、何ていうんでしょうか・・・胸が熱くなったり・・・いろいろな思いがしてくるような内容だったかと思います。

荒巻さんの場合は、最初のご経験から、ナースとしてどういう役割があるんだろうということを非常にいろいろな角度でお話してくださったというような感じがします。

それから小川さんは、ICRCの活動を通して、どういうふうに、やっていることを研究として表現していくのか・・・それをもっと分かってもらうということは、どういうことをしていったらいいのかということだったのかな、と思います。

吉田さんからは、いろいろな経験を通して、自分だけではなくて逆にその現地の方たちの力があるから活動ができる、そういうことをお話していただいたと思います。

話題提供者

質疑応答

少しここで、皆さんの方からもご質問ですとか、ご意見をいただいて、ディスカッションしてみたいと思うのですけれど・・・質問のある方は、どの方にどういうことをお聞きになりたいかっていう形で、挙手していただければな、と思います。

いかがでしょうか。はい、新道先生お願いいたします。

国際活動における報告とフィードバックとは

大変3人の方々のお話に、感動いたしました。本当に体験が語る、体験を語るというのは素晴らしいことだなと、改めてお聞きしておりましたが、まず、荒巻さんにお尋ねしたいのですが、いろいろ国際活動、海外で活動してらして、いったい報告書は、どういうふうに扱われているのか、そういうフィードバックがあるのかと、悩んだとおっしゃいましたけれど、そのあたりは何か解決できたのでしょうか?

また、そのことが活用される糸口というのは現在も使っているのでしょうか。

葛飾赤十字産院 荒巻東香

ジンバウエ、スマトラの報告書作成は、私はしていませんが、チームリーダーのみがしたというふうに聞いております。ジンバウエの時には、月に一回メールを通して、日本語バージョンと英語バージョンで本社に送っていました。で、解決したかといわれたら解決はしていないのですけれど・・・でも、「評価をいただきたい」ということは本社の方にお伝えして、本社の人から、「良くやったよ」とは言っていただいたんです。何をもって「良くやった」というのか、そういうところはやっぱりいまだに疑問で・・・きっと、でもそこは・・・「もしかしたら誰かに言われるなんて、自分がもっと自分のやったことを振り返って、振り返って、振り返っていかないとどんな評価が来ても、もしかしたら納得がいかないのかな」って、ちょっとずつ時がたって思い始めて・・・

こうやって、今回のようにお話をさせていただく場を設けさせていただくことで、その間でまた振り返って、振り返って、あ、こういうところが、もしかして・・・もうちょっと必要だったのかな・・・というような点では、少しずつですが、自分の中で何かが見えてきているような気がします。

国際活動委員会委員 関

他にいかがでしょうか。あの、小川さんの場合もどういうふうに評価されているのだろうかっていうふうなことがお話の中であったと思うのですけれども・・・ICRCの場合はどのようになっているのでしょうか。

日本赤十字秋田短期大学 小川里美

ICRCでは、基本的にエンド・オブ・ミッション・レポートは、書いても書かなくても良いということです。ただ、管理職=ヘッドナースとかプロジェクトマネージャーになっていくとそれは絶対出さないといけないっていうことで・・・そのことでディスカッションをしたいので、自分のミッションが終了する一ヶ月前に提出します。

終了一ヶ月前に提出しておくと、まず、自分の置かれている国の代表部で、デブリーフィングといって最後のミーティングがあり、そこで扱って話ができるのとジュネーブでもそのことが協議できるということで、課題の掲示を話す場があります。

国際活動委員会委員 関

では、吉田さんの場合は・・・連盟の活動もICRCの活動も日赤独自のものも経験されていると思うのですが、そういう場合に評価とかですとかフィードバックとかトータルでお考えになってどんな感じでしょうか。

日本赤十字社和歌山医療センター 吉田千有紀

そうですね国際赤十字の場合はミッション評価表というのがありますので、そこで、ご自分達の現状とか、きちんと評価されます。だいぶ厳しいものに評価されて、それで次のミッションこの人、大丈夫かとか・・・また、次のミッションでは、この人でお願いしますと言う話も出るようなこともあります。評価は明確だと思いますし、その後のジュネーブで人事の方たちとディスカッションするのですね。

自分はこういうことを学んできたとか、そこでアピールする訓練ができるので、逆に向こうからいろいろ評価されるというより、自分で自分を評価する、自分の中でこのミッションの達成度であるとか、強みであったり、課題を話したりします・・・だいたい自分がこれだけやったというのを見せていかないといけない、というのがあるので・・・私の場合はけっこう強気で評価に臨みました。

日赤の場合もミッション評価表は確かにあります。「ある」というか、自分が自己評価として書くというか・・・たぶん、荒巻さんの場合そのフィードバックが、思っていたほどのものが得られなかったというようなことをたぶんおっしゃられているのかなと思います。

評価は、やはり自分が何を勉強してきて、次はこういう派遣に出たいとか、勉強がしたいということがアピールができると思います、日赤の評価であっても・・・やはり、自分次第でないかと思っています。

後もう1点いいですか。・・・あの、日赤からの派遣の中に、研修の意味合いを含めた派遣があります。それが、ジンバブエであったり、フィリピンであったり、いろいろあるのですが・・・評価されるのは非常にやっぱり、受ける側も負担だと思うのですね。すごく緊張します。する側も緊張すると思います。

その緊張の中で、はたして何処まで本当のことを言って本人に伝えていいのかというのを考慮する人事の方はいらっしゃいます。だから自分の中で評価をまず入れて、それを評価者に伝えて、そしてそのフィードバックをもらうというもが一番いいのではと思います・・・なかなか難しいです。人を評価するということは・・・

国際活動委員会委員 関

どうもありがとうございました。ご質問、ご意見ございませんでしょうか。大学にいますと私どもの所にいらっしゃる学生の方は、「日赤は国際活動があるから受験するんだ」という方たちが、非常に多くいらして、卒業されてもそういう道を目指す方がたくさんおいでになる。そういうこともあって、先輩たちがどういう道を歩んできたかということを、ここで皆さんにご紹介することも非常に意義があると考え、今回初めて企画・設定したのですが・・・

この会場には、経験された方、あるいは、これからまた経験してみたい方、そういう方もいらっしゃると思いますので、なんなりと、・・・ご意見なり、ご質問なり、あれば・・・と思っています。

話題提供者「質疑応答」

なぜ国際活動にチャレンジするのか

最初の質問ですけれど・・・とっても3人の方々の情熱が私伝わってきたのですが・・・お聞きしているとみんな非常に危険な所に行ってらっしゃる。そして、自分の健康を自分でしっかり守らないと仕事を、与えられた役割を続けていけないということで・・・大変、ご苦労が多いと思うんですよね。そういう所に継続してチャレンジしようと思われる、その背景には何があるんでしょうか。3人の方それぞれの方に、お答えいただければと思います。

葛飾赤十字産院 荒巻東香

私はまだ2回しか出ていないですけれど、1回目の時は、日本人20人で行ったので、研修もあまり受けない状態で行ったので、危険とか、あんまりそういうこと考えないで行っちゃたんですよね。日本人が周りにいるっていうだけで安心して、あまりこう、怖い思いもせず帰ってきたのですけど・・・ジンバウエの時は、独りになって、周りは全部黒人で怖かったです(笑い)。夜は歯しか見えないし(笑い)、ほんとに怖かった。最初慣れるまでは、もうなんか、誰を信じていいか分からなくって、自分さえ信じられないっていうか・・・これはちょっと帰らないと私の精神状態がもたないと思って・・・本当に帰ろうと思って、チケット出して・・・「あと一週間頑張って駄目だったら、帰ってもいい」と日赤本社から言われていたので・・・本社が帰っていいって言うんだったら帰っていいんだろうと思って・・・往復のチケットだし・・・いつでも帰れると思って・・・

でも、もう一週間だけ頑張ってみようと思った時、支部のスタッフの人達とちょっとずつ打ち解け始めて・・・自分が心を開いたら、あ、向こうも心を開いてくれるんだ、というのが分かった時に、「怖い場所」ということから、「人が住んでいる場所」「危険な場所でなく、自分が居る場所」というふうに見方が変わって・・・

・・・それでなんか続けてこれて、これからももしチャンスがあったら行きたいなって思えるようになったように思います。

日本赤十字秋田短期大学 小川里美

私の場合はほとんどICRCになるので、国連並みの国籍でチームが動いていきます。短期で人が入れ替わっていくのですが、「全員が同じ目的で働けること」「そのチームになっていくこと」と「その達成感」ですよね。そういう意味では、十数か国の人達が同じ目的になれるっていうとこに、共通にものがあるだろうっていうのかな。そのおもしろさですね。

日本赤十字社和歌山医療センター 吉田千有紀

同じようなことになりますが、赤十字でしか私は国際救援活動をしたことがないのです・・・。赤十字については・・・赤十字の看護学校を実は出た訳ではなくて、就職した先がたまたま赤十字病院で・・開発協力関係の事業があるということで、初めて赤十字の勉強を始めたのです。でもやっぱり派遣に出てみたら、赤十字のことが分かっていないととてもじゃないけど、これは続けられない。

(派遣に出れば)いろいろな交流の機会がありますし、そういった中で、違った人の意見を聞くこと、違った文化を見ること、でも、私たちは同じ思想(赤十字)の基で活動ができているという素晴らしさとか感じます・・・皆さん救援に参加してみてください。やみつきになると思います。

話題提供者「質疑応答」

自分の立場の捉え方

ありがとうございました。3人の方に共通していたなと思うのは、看護職だけれども・・・「看護とは何か」と、突き詰めて問うていらっしゃると感じたのですが、・・・「看護職なんだろうか、コーディネーターなのだろうか」という発言も、印象に残っているのですが。その辺のところを、どのような捉え方をされたのか、以後どのようにそれを解決していったらいいのかと思っていらっしゃるのか、教えていただけたらな、と思います。

葛飾赤十字産院 荒巻東香

まだちょっと悩んでいる最中なので、なんとも言えないですが。ただ日本に戻ってきて、また職場に戻った時に自分の体験したことがフィードバックできるというか、これまでは、病院に居る患者さんその人しか見えなかったものが、その人には生活があって・・・まあー、日本では普通に手に入る水だとかそういう物の基盤があって、仕事があって、その上でこの人は生きているみたいな感じの見方ができるようになったというか・・・

確か、ナイチンゲールが、「一番最初に、窓を開けなさい」とか、そういう基本に戻るっていうようなところに、私は、むしろ出来たのではないかというところで・・・違う場所に居るようで、何か繋がっているものがあるのかなと、うっすら感じております。

日本赤十字秋田短期大学 小川里美

答えになるかどうか分からないですが、私は、一回スーダンに行った時は、ちょうど看護学校の教員で、教育のプロジェクトだったのでそんなに違和感はなく入っていったのですけれど・・・帰ってきて次にすぐ出た時は、ヘッドナースになっていく、今度は日本の病棟師長だと、病棟管理ですね。

ICRCのヘッドナースは看護部長でその下に医師も入ってくる、病院全体を見ていかないといけない、となった時、自分にその管理の経験が係長レベルでしかなかったという時に、やっぱり自分のその経験のなさの甘さが出てるのと、理論で勉強することと実践が違ったので、帰ってきて看護部長さんにお願いして・・・病棟の師長も経験しないといけないし、看護師で部門全体を見ることや、師長として、管理者として経験しないと分からなかったっていうことで・・・

自分の課題が見えてきて・・・私のこういうところがICRCで出てしまったんだ、人の評価の仕方だとか、指導だとか、サポートの仕方で・・・

基本的に管理者は、やっぱり看護だけでなく、人も見ていかないといけないし、組織の運営もみていかないとならない・・・幅広く見ていかないといけないのだなあと・・・これはどこもいっしょだなということを思います。

日本赤十字社和歌山医療センター 吉田千有紀

私は看護部の看護師で、今は透析室の方の管理をしていますが、その中でも透析患者さんの生活支援活動をしておりまして・・・そうすると、透析を受けるだけでなくて、実は家に帰ってからの食ことも、水分管理も、そして、家での様子のことも・・・いろいろなことについて情報を得て、そして血液データと共にもう一度患者さん達にフィールバックしていくといった仕事をしているので・・・(生活支援活動は患者さんのケアのみに集中することなく)ラッキーだったかもしれません。

始まりが助産師で、その後、一般の外科病棟に出て、ICRCの派遣にも行くのだったら、外科の勉強もしておきなさい、というような感じで、ほとんど回ったんです。私自身、今はスペシャリストというよりもジェネラリストだと自分では思っているので、その中でいろいろな物であり、仕組みであり、人を動かしながら、一番組織にとって良い方法とは何かということを考えながら仕事ができていって・・・それが必ずしも国際救援に行ったから、開発協力に出たから、別の観点でものを見るかといったら、全くそんなことはなくて・・・よく似た視点でものが考えられ、その後、報告書を書く。

それも、やはり論理立てて書かなければいけない。そういった訓練を受けていくのは、やはり、日本の社会で、私たちが看護師としてすべきこととほぼ同じではないか、最近は思ったので、病院に居る間も非常に楽しくしています。

まぁ、できの悪い師長なので・・・スタッフは良くできるので・・・みんなが、私を支えてくれているのが現状なんですけれど。

国際活動委員会委員長 原

ありがとうございました。一対一のケアを支えるような仕組みのようなところが、やはり・・・根本的に国が変わっても変わらないというところがあるのかな、なんて感じたのですけれど・・・そんなところでしょうか。ありがとうございます。

話題提供者「質疑応答」

病院組織・看護部へ支援として望むこと

徳島赤十字病院から参りました、庄野と申します。貴重な体験を、3人の方々ありがとうございました。大変刺激を受けて聞かせていただきました。一点質問ですけど、3人の方にお伺いしたいのですが。私は、臨床で仕事をしているのですが、今度、徳島日赤の方から・・・国際救援に向けて2名のナースが・・・中級だった・・・と思うのですけど・・・語学研修に、熊本日赤の方でお世話になることが先日決まりました。非常に、期待しているのですが、皆さま、3名の方々で、あのー、個人的な意見でかまわないんですが・・・

病院組織とか看護部へ、「支援として望むこと」とはについてお伺いしたいと思います。宜しくお願いいたします。

葛飾赤十字産院 助産師 荒巻東香

えーと私自身は、病院側にほんとに感謝していて、快く、快く出していただくっていう、その快くっていう(笑い)一番大きいかなと思います。やはり中級の英語研修は4ヵ月まるまる病院にいかず、熊本にずっといる形になると思いますし・・・その中でお給料いただいてやるっていうところで・・・あ、本人、私自身もかなりのプレッシャーを持って、学習に望んだつもりではいるんですが・・・

やっぱり4ヵ月でるということは、他のスタッフが穴を埋めていてくれる、ということでもあるので、看護部の部長はじめ皆さんが、私を暖かく見守ってくれると同時に、残っているスタッフに感謝の意を・・・

院長もそうでしたが、感謝の意を表してくれたっていう・・・皆様が居たから、私が4ヵ月の研修にでれた、スマトラに行けたし、ジンバブエに行けた・・・そういうことで私と残ってくださったスタッフとの関係も円滑に進んだというところで、すごくありがたいなって感じています。

日本赤十字秋田短期大学 小川里美

まさに同じことです。私の場合は、病院とそれから今回は短大という組織から出していただきました。病院の時は、やはり、おっしゃられたように居なくなった分は人の手当てはできないですよね。ということはやはり、誰かがその仕事をカバーしていただかざるをえない。で、そういう体制を作っていただけた、ということに・・・「じゃあいってらっしゃい、頑張ってらっしゃい、後はやっておくから・・・」っていうことで、ほんとに感謝していました。

短大の場合は、授業とか実習とかそういうのを科目で教授や準教授の先生、それから助手の先生たち皆さんに協力いただいて・・・穴埋め、一人分の穴埋めをしていただくということがすごいことだと思うんですね。でも、それを、「行ってらっしゃい」と言っていただいたということは、ありがたかったです。その一言が、たぶんこれから出て行く人達の動機というか支えになるのだと思います。

日本赤十字社和歌山医療センター 吉田千有紀

私は、小川先生、荒巻さんと少し違った立場です。といいますのは、私の病院には国際救援部があります。比較的派遣には出やすいことは事実かもしれません。どういうふうに違うのかと申しますと、名古屋も大阪もそうですが、救援部付けの職員として、例えば語学研修に出る間は、一部所の職員という立場ではなくって・・・プラスの立場で、派遣に出るようなシステム作りをしています。

その分、マイナスにはならない。日本にいる間はプラス1っという考え方・・・あと私は、救援部はハーバー構想をもっと積極的に進めるべきだと思うのですけど、各ブロックに国際救援部があるのですから、何故、自分のところの病院だけみるのか、よその病院、例えば京都からどなたかが派遣に出た時に、人事交流で人をうまく送られるのではないかとか、いろんな発想は出てくるのです。ただし、やっぱりそれが現実化されていかない。経験の違いとか、いろいろあるのですが、これもやっぱり乗り越えていかないことじゃないかなと。

私は救援部にいて、後輩の育成を担当していくに当たって、いろいろ考えなければならないかなあと思っています。

徳島赤十字病院 庄野

ありがとうございました。来週さっそく帰りまして、「いってらっしゃい(笑い)」と、声を掛けたいと思いました。ありがとうございました

話題提供者「質疑応答」

国際活動をするにあたって、学会・日本赤十字社に期待すること

どうもありがとうございました。三人の方のお話を伺いまして非常に感じたことは、皆さんがご自分の課題ですとか、目標、基準を、明確に持っていらっしゃる、次はこうなりたい、次はこういうことをしたいっていうことで、さらにチャレンジしていく。その辺りが自分のキャリアをどんどん開いていく、そういうことになっているのかな、と思います。

日赤の場合はまだ、なかなかそういう道がまだ良く先が見えないですね。現実はあるわけですけど、そういうところで、お三人のやってらっしゃることが、そういう道をまた作っていくことにつながっていくのかなって感じがしています。

最後にお聞きしたいのですけれども・・・例えばですね、これからまた皆さんが活動される場合、あるいはまた、ナースが国際活動をする場合、そういうことを想定して、学会に期待すること、あるいは、日本赤十字社に期待すること、そういうことがあれば、お三人それぞれお話をいただきたいなと思います。

葛飾赤十字産院 助産師 荒巻東香

ちょっと難しくて、あんまり分からないのですけど・・・ただ、こういうふうに、私も発表者として参加させていただいたのですが・・・

小川先生と吉田さんのお話聞かせていただいて、それがまた自分の目標を決める手だてになって来るというか、こういう体験をされているのだという、体験の共有っていうのが、あ、ほんとにこんなに大ことなものなんだっていうのうを改めて感じさせていただきました。

で、また、自分自身の課題としても、やっぱり振り返りをしていくということが・・・

あのー、自分の・・・帰ってきてすぐは行って満足、よく私帰ってきた・・・みたいなところがあるので、その満足を満足で終わらせずに、次のステップに進むための振り返りの場所として、こういう研究会があるっていうのは、とてもいいのじゃないかなっていうふうに思います。

本社に関しては、ちょっといろいろあるのだと思うのですが(笑い)、緊張して出てこないので後日にしたいと思います。

日本赤十字秋田短期大学 小川里美

まず、これから、あるいは、こういうことやってみたいと思われる方、あるいは、派遣に一回出て今後って思われている方は・・・そうですね。やはり国際的なポジションってそんなになくって・・・連盟にしてもICRCにしても少ないポジションを全世界のナースで争うことになるから・・・やっぱりその何分の一となると回ってこない。

じゃ、回ってこないフラストレーションっていうのを、そこで悶々とするのでなく、勉強の機会だととらえていただいて・・・例えば、初めて出た後、自分に何が足りないだろう、何を勉強しないといけないのだろう、その期間で、そういう力を付けていくというふうに代えていただいて・・・自分自身もそうしてきたので、そういう方法は効果的だというふうに思います。

日本赤十字社に対してはですね。拠点病院、吉田さんのおられる所は、結構人材登録がうまくいくんですが、拠点病院以外というのは以外に情報が来ないですね。で、日赤のナース、私やっぱり素晴らしいと思うのです。他の赤十字社、ここに(会場に)誰も日赤本社の人が居ないから、言ってもあんまり効果的じゃないですけれど・・・他の赤十字社はやはり、人材、人事部の人が、ICRCなり、連盟なりにですね・・・自分と売り(ピーアール)に行くのですね・・・「こういう人材が居ますから使ってください」って。私もヘッドナースの時に、そういう人事部の人が来られるんです。

で、・・・オーストラリア支部だったんですが・・・「どうでしょうか。ナースたちは」って、評価を聞きにくる。そして、「次にこういう人がいるので、どう思いますか」って・・・その意見をジュネーブに持っていって、ちゃんと次のポジションを持って来る。ところが、日本赤十字社はまだそこまで出来ていない・・・やっぱり、そういうところが・・・ちょっとおとなしいんだなって思うのですけれど・・・戦略的に人を送り込んで行くことをやっていかなきゃならないというふうに思っています。

自分自身は、研究課題があって、これをやっていきたいということと、やはりあのー、ここまでやってきたので、うーん世界で通用するナースになって行きたいです。

日本赤十字社和歌山医療センター 吉田千有紀

まず、キャリア開発ラダー、やっと4本柱、えー、国際救援が、一つの柱としてなってきます。これは、私たちの身を守るためにも非常に重要なことだと思います。これの教育システムを具体化していただきたい。そのためには、日本赤十字社だけでは無理です。ここにいらっしゃる諸先生方のお力、そして特に看護大の先生方のお力が必要です。そのためには、国際看護というものがどういうものなのかということをもう少し・・・そして赤十字の看護について検討してかなければならないんじゃないかという思いがあります。

あと、一般の看護師といいますと、そのー言い方が悪いですけれど、保健師、助産師以外の看護師さんの場合に、どうしても、地域、地域保健に関しての必修科目というのが非常に少ないので、そのあたりのフォローアップ、出来れば大学の方でしていただけるような教育システムができると非常にいいのかなと思います。例えば、具体的にはフィールドワークをどうやっていくのか、後は調査法についてとか、あと疫学、統計学で、少し弱い部分がありますし、私も自分が弱いっていうことに気づいたので、いろんな外務省なり、ワークビジョンなり、いろいろな研修会をさがして自分の力で勉強していったのですけれど、もう少しスムーズにこういう機会が・・・例えば修士に入るとか、大学に入る以外で何かそういう勉強できる機会が与えられれば、もう少し実践に対応した学習になるのかな、という思いがしました。

国際活動委員会委員 関

どうもありがとうございました。本社のみならず、本学会のみならず、看護大学に対してもいろいろな課題が出されたなというふうに思います。私も少し、国際活動をするナースのこと前研修なんかに関っているのですけれど、その時に非常に難しさを感じるのは、その基本、基礎を・・・最終的な基礎を何処に置いて、その上に研修教育を積み上げるかっていった場合は、まず、赤十字のナースは、あのー、2万6千人位、居るんですけれども、その68%がだいたい専門学校の教育なんですね。そうすると、どうしても、在宅看護まではやっているのですけれども、その後のフィールドのことでとか、地域のことって、やはり分かりにくいとなりますと、そこらへんも、今後研修の中でかなり入れ込んで強化しないとならない部分かなと、今感じているところです。

吉田さんからご提言いただきましたので、そのあたり参考にさせていただきながら、私どもも考えていきたいと思っています。

話題提供者「質疑応答」

終わりの言葉 国際活動委員会委員長 原 玲子

荒巻さん、小川さん、吉田さん、本当にありがとうございました。三人とは半年ぐらい前から今日までの準備を進めてきたのですが、今日のプレゼンテーションを聞かせていただいて、とても三人ともたくましく、曇りのない目でそのこと実を見て、また自分自身も曇りのない目で見ていて・・・

とても謙虚で、お話をしていて温かくなる思いをしてきたことをお伝えしたいと思います。

今日は本当に貴重な体験を、共有する時間を設けさせていただいて感謝をしております。もう一度拍手をいただいて終わりにさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

以上をもちまして、交流セッション「国際救援、国際協力における赤十字看護師の活動、国際協力を実践している赤十字看護師の活動を知る」を終了します。先生方、会場の皆様ありがとうございました。

国際活動委員会委員長 原 玲子

話題提供者「質疑応答」