靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

憂い顔の騎士

ドン・キホーテは嫌いじゃないし、むしろドン・キホーテを気取っているふしも有るけれど、ドン・キホーテに過ぎないという現実を突きつけられると、やっぱりがっくりして意気消沈する。だから九月はおとなしくしていようと思う。
かといって、風車につっかっていくのを止めようとは思いませんがね。風車であることを知っているドン・キホーテ、という嫌味な憂い顔の騎士を目指していこうかな、と。

五蔵病形

脈診に座標軸を持ち込んで,あらゆる病をそのどこかに配置する,などという構想(妄想)を抱くと,『霊枢』の邪気蔵府病形篇は魅力的な資料です。ところがそこに書かれている脈診には謎が多い。
先ず第一にどこで診るのかはっきりしない。左右寸関尺に配当するのは歴史的に論外(?)としても,独り寸口を診るというのがそもそも問題でしょう。だからと言って,常識的にいえばどの五蔵の病であるかが分かってない段階で,五蔵の診処をさぐるわけにもいかない。で,実は窃かに,どの蔵の問題であるかは脈を診る前に見当をつけているんじゃないかと思っている。具体的にいえば多分,顔色で。その上で五蔵の原穴の脈を診る。問題は原穴の脈で,緩急小大滑濇を診るなんてことが出来るのかであるが,これはできる人にはできる,と言っておかなければしょうがない。本当はまた窃かに,これは実用的な脈診法というより理念的な枠組みの構想だったんじゃないか,とも考えていますがね。
で,もう一つ大きな疑問として,それぞれの脈状に間と甚が有って,しかも何だか間のほうが重篤なんじゃないか,というのが有る。そこで考えてみると現行の脈診で重視される浮沈がここには無い。まさか甚微がそれに相当するわけでもあるまいね,と。でもね,羅列された病症名に痹の字をふくむものは、いずれも微である。寿夭剛柔篇に、病の陽に在るものは風、陰に在るものは痹と名づけるが、陽に在れば脈は浮、陰に在れば脈は沈とも言えるだろう。それに、現在の脈状がそれぞれしっかり定義された情況を離れて虚心に考えれば、指が皮膚に触れるか触れないかで感じられる脈は甚と捉えられたかも知れないし、指を余程押し下げないと得られない脈は微と捉えられたかも知れない。まあ,まだ戯言の段階です。

経絡を発見しよう

古典に出てくる経絡は,おおむね血管のことであるなどと言えば,古典の読み手から猛反発をくらうことは分かっている。でも,言っていることがちょっとだけ違うんですよ。
流れる身体に流れていると思われていたものは,まず一番分かりやすいものとしては血液,主たる役目として全身を栄養する。次いで身体あるいは物体一般の外表を覆って,モノとして形あらしめている何か。この役目を現代的に説明するのは厄介だけれど,考えてみると古代文明にはかなり普遍的に言われていた。例えば,エジプトのミイラの棺もそれを逸さないためのものだったらしい。
そしてもう一つ,診断兼治療点を結ぶ線を連絡する何か。スイッチとランプとコードが有って,そのコードを伝わる信号の担い手。(いっそのこと血と気と信号と言おうか。)
血液については,もう現代医学にお任せして良いのじゃないか,というのが,つまり「おおむね血管のことである」という発言なんです。その部分からは手を引いて,「スイッチとランプとコード」の関係を追求したほうが良いんじゃないか,と言うことです。血液循環を制御する方法としての刺絡や,外表を覆っている気の調節という,厄介な問題は残ってますがね。古代人がこれら区別して考えるのには限界が有っただろうけれど,現代に至ってはその中で一番特殊な部分を抽出して発展させる試みも必要だと思う。
だから私のは経絡否定論でもあり,また「経絡を発見しよう」とする論でもあると思っています。あまり空白が続くので,出任せを一つ。

太素新校正

11日に、待望の『黄帝内経太素新校正』が届いたので、「太素を読む会」のほうに夢中で、こちらはしばらく手薄になります。
それにしても、これA4版なんですよ。扱いに困る。繙く前に、机の上を整理する必要が有る。書見架に立てるとむこう側が見えない。

8月の読書会

8月はお休みにします。

第三輸みたび

 六府について「井滎輸経穴之後,別立一原」と言うのは、明らかに変だから、あるいは「井滎輸経穴之後,別立一原」の誤りで、「井滎輸経合穴」はつまり「五つの本輸穴」で、「之後」はつまり「の他に」の意味かも知れない。五つの本輸穴の他に、別に一原穴を立てる。
 だとすれば、陰陵泉と陽陵泉を「太陰第輸」、「少陽第輸」と言って、要するに「疾高」なんだから本輸の一番上の、つまり五番目の合を取れと言っているに過ぎないのかも知れない。

使煖氣内聚

『太素』21九鍼要道
按而引鍼是謂内温血不得散氣不得出
楊上善注:以手按其所鍼引之煖氣内聚以心持鍼不令營血得散外閉其門令衛氣不得洩出謂之補也
 、缺巻覆刻は「後」に作り、『黄帝内経太素校注』も何ら疑いを抱いていないようだが、これはむしろ「使」ではあるまいか。

体例と校正

『中醫古籍考據例要』王育林撰 學苑出版社
顧觀光《素問校勘記》
《寶命全形論》:“刺虛者須其實,刺實者須其虛。”顧記:二句誤倒,當依《針解》乙轉。實字與下文失、一、物韻。
  案此言是。試觀這一段經文:
  “刺虛者須其,刺實者須其虛。經氣已至,慎守勿。深淺在志,遠近若。如臨深淵,手如握虎,神無營於眾。”
  這應是一段偶數句入韻的韻語(OAOA式),孫說是。另今檢《針解》文,未得所指。待考。
 この書物は内容が簡潔であることといい、文章が平易であることといい、結構良い本だと思うけれど、体例には不満が有る。例えば上記の「案此言是」以下は、顧觀光『素問校勘記』には無くて、だから王育林さんの案語のはずで、だから引用とは別の書体にしてくれたほうが分かりやすかったと思う。
 また、ここの「孫說是」は「顧說是」の誤りだと思う。この前の文章で、孫詒譲の『札迻』を紹介している影響であろう。どこまでが『札迻』、『素問校勘記』の引用なのかはっきりしないので、すぐには誰の說を云々しているのか分からなかったし、今なお「誤りだと思う」としか言えない。ついでに言えば、『箚迻』と書くのもあまり気に入らない。
 さらにまた、どうして「今檢《針解》文,未得所指」などと言うのだろう。針解篇には「刺實須其虚者,留鍼隂氣隆至,乃去鍼也。刺虚須其實者,陽氣隆至,鍼下熱,乃去鍼也。」とある。これでは不足と言うのか。要するに、刺實のほうが刺虚より前に在る例を示せば充分だと思うが。
 古籍考據について述べる書物であるから、当然ながら校勘の学についてもかなりのページをさいてる。その書物にしょうもない校正ミスが多いというのは滑稽ではあるけれど、書物は校勘せずには読めないということを実感させてくれるという点では、有用なのかも知れない。

少陽戌也

『太素』8経脈病解
少陽所謂心脇痛,言少陽戌也,者心之所表也。
楊上善注:手少陽脈胳心包,足少陽脈循脇裏,故少陽病心脇痛也。戌為九月,九月陽少,故曰少陽也。戌少陽脈,散胳心包,故為心之所表。
 この戌を成と見た人がいるが誤りである。戌を『太素』原鈔のような形に書く例は、碑別字などにいくらも見える。一と丿を続けて書いたに過ぎない。
 ただし、この字を成と見誤るのは古くからのことのようで、『素問』はさらに盛と誤り、王冰注の「心氣逆則少陽盛」もそれにそった解釈だろう。
 なお、例に出した字より上に最初に登場する戌は、さらに成に似ているようだが、仔細に検討すれば、はらいは塗抹されているのが判かる。

第三輸ふたたび

 第三輸は第五輸の誤りという説が有るそうです。その説の内容が分からないので、本来は何とも反論のしようが無い。だから、以下は想像しながらの難癖です。
 そもそもここのところの楊上善の注には変なところが多いのだけれど、先ず最初に第三の輸が特別な価値を有していると言っているのは良い。つまり、五蔵にあっては井滎輸経合の三番目の「輸」が即ち原穴となる。ただし、六府にあっては「井滎輸経四穴之後,別立一原」と言い、「六府以第四穴為原」と言う。これがそもそも変で、四穴の後に別に立てるのであれば、第五穴を以て原と為すと言うべきでしょう。本輸の記述からすれば「井滎輸経四穴之後」が「井滎輸三穴之後」の誤りのはずです。
 また、楊上善が第五輸という詞語を用いるのはここだけで、そもそも五輸は五つの輸であって、五番目という意味で言われた箇所は無いはずです。当然、五番目だから大事であるという発想も無さそうです。
 勿論、第五輸であると言っただけで、別に特別に大事だなどとは言ってない、という考え方も有り得ます。「疾高」だから本輸の一番上を指示したんだと。でも、そうだったら「而内者」のほうは「太陰第五輸陰陵泉」で良いとしても、「而外者」のほうは「少陽第六輸陽陵泉」と言うべきではないのか。
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