先月、岩波書店から発行された『孫子発掘物語』に次のような記事が有りました。p.244~
……一九九六年一二月八日、中国文物界でもっとも権威ある新聞『中国文物報』は「孫武兵法八二篇はまったくの偽造」と題する長文を発表し、激しく非難した。
「……人民に害をもたらす違法犯罪行為は、偽や質の悪い商品よりはるかにその危害は大きい。現在すでに出版されている『孫武子全集』(銀雀山漢墓出土の『孫子兵法』およびニセの『孫武兵法』などを含む)はまことに玉石混淆であり、その結果は人に損害を与えるのをどうして止められようか。古代兵学研究、軍事史及び中国歴史研究全体に多大の妨害、破壊作用をもたらす。……」
この『孫武子全集』の出版元が、実は学苑出版社なんです。早く忘れたい、忘れてもらいたい事実でしょうね。
もともと五蔵の診断兼治療点は腹部に在って,おそらくは今言うところの募穴であって,それを臨床の都合から腕踵関節に移動させて,原穴を五蔵の診断兼治療点とした。それが現在の『素問』三部九候論における脈診であって,だから内経には募穴が無いとか,『霊枢』には三部九候診が無いとか言うのは,表面的な見方にすぎないと思う。『素問』の三部九候診自体も,文章の構成から見れば,中部・下部の天地人を手足に配当する部分はおそらくは後人による解釈の付け足しだろう。本来,五蔵の病は表面から五蔵を触知できる(と考えられる)ポイントを活用して治療したのであって,そうすることには種々の差し障りが有って(当時の針を腹部に使用するのには危険が伴ったと思う。),だから四肢へ移動させたんだろう。で,四肢の原穴で埒があかなければ,思い切って腹部を試してみる。現今の針なら,多分そんなに危険は無い。
『霊枢』の邪気蔵府病形篇に緩急小大滑濇が有って、浮沈が無い。一番の可能性は五蔵の脈がすなわち浮沈である、ということですよ。言うまでも無いと思うけれど。極めて浮いていれば肺、極めて沈んでいれば腎という具合にそれぞれ配当する。肺は毛、腎は石なども、突き詰めて言えば浮沈でしょう。問題はそれと緩急小大滑濇は本当に両立しうるかということで、他の可能性も探っているんです。
それに腎の脈は沈と言ったところで、沈であれば腎というわけにはいかない。腎の脈は沈石であるべきだけれど、今診ると弦浮である、だからこれは腎の不足と判断する、なんてことがあちこちに出てくるでしょう。やっぱり、腎の診処の脈が云々、でないと具合が悪いでしょう。で、どこだ!となる。六部定位というわけにはいかないでしょう、歴史的に。
稼ぐのが目的であれば,稼いでいる先生方がたくさんいるグループに参加すれば良い。これは比較的簡単である。ちょっと観察すれば稼いでいるかどうかはわかる。稼ぐためのカラクリというものも、多分有るんだろう。病気を治して患者から感謝されるのが目的となるとちょっと難しくなる。繁盛しているからといって、患者を治しているからとは限らない。まあ、長い目でみれば治しているから繁盛しているんだろうけれど、偽医者は大抵繁盛しすぎてばれる。そこまで言わなくても、患者も治療家も、治ると錯覚しているだけかも知れない。よしんば確かに治しているとして、グループに参加すれば先生と同じように治せるようになる、というのは少なくとも錯覚である。主導者と同じレベルまで一般会員を引き上げるための教育マニュアルを持っているグループなどは、無いといっては拙いかも知れないけれど、ごく珍しいだろう。どうして治るのか、いろんな方法で突き詰めて、それに則って治療したいという人もいる。だけど、これは殆ど絶望的である。運が良ければ、朧気に真理らしきものが見えてくるかも知れないけれど、その時にはそれに則って修行するには年を取りすぎている可能性が高い。でも、それ以外にはどうしようもない、度し難い、因果な性格というものは有るわけで、そういう人はシコシコと寂しい日々を送るより仕様がない。馬鹿にされるのは致し方ないとして、非難される謂われは無い。
針灸に関して分かっていることなんてほんの僅かだと思っています。それでも治しているのは詐欺師的な才能が有るか、それとも豊かな応用力のお蔭です。誤解の無いように断っておきますが、詐欺師的な才能で治そうが、真理を突いて治そうが、患者にとっては同じことです。詐欺師的な才能を批難しているのではなくて、嫉んでいる、あるいは羨んでいるのです。
学と術の両輪などと,気安く言うけれど,そもそも術なんて文章化できるんですかね。と言うか,文章化できる人なんてそうそういるもんなんですかね。「言われる通りにしたら治りました(治ったみたいです),センセイありがとう」が関の山じゃないか。
むかし,ある先生に「一緒にやるのは古典の勉強だ,臨床はそれぞれが勝手にやっていればいい」と言われたことが有ります。意味分かりますか。その先生の弟子なら分かると思うけど。
古い医学を全く信じていない古典医学研究家と,ろくに古典の読めない古典派臨床家と。それはまあ臨床家の方がマシなんでしょうねえ。
考えてみると研究対象を最初から信じ切っている研究家というのも異(偉?)なもの。研究した上で,これは信じられる,これは信じられない,というのが普通じゃないのかな。ただ,最初から信じ切っている人の方が臨床家には向いているかも知れない。
右手の寸口が一番弱いから,肺虚のはずで,肺虚だから,手の太陰をとって,肺は金だから,金の母は土だから,虚すればその母を補えだから,土は脾だから,脾は足の太陰だから,足の太陰もとって,だから治るはずだと言う人は幸せである。古典派的治療は,その人の為に有る。信じる者は救われる。
運気論も五行説も,勢い余って経絡治療も,一切合切唾棄しても,それで古典派でなくなるわけじゃない,と思う。ただ,あんまり幸せではないかも知れない。
太陽系の定義が変わる,とか言って騒いでいる。
教科書業界は,今頃そんなこと言われても来年分の印刷が間に合うかどうか,と慌てている。SF作家達は,もともと虚構です,と落ち着いている。そして何と,占星術師の間にも波紋があって,旧来の七惑星に固執する派とどんどん新しい惑星を取り入れで何が何だか分からないものに変わっていく派とが,互いに貶しあっているらしい。
一番しょうもないのはいつだって……。
今,何とか信じられるのは,ツボの有効性です。有効であることの可能性と言うべきかも知れない。
原穴と下合穴と背兪穴,あるいはさらに原穴はもともとは胸腹部に在ったんじゃないかという発想(妄想)から募穴,原穴の撰に漏れたものとしての絡穴,原穴から(それだけでは心許ないと思った,名人ではない人の工夫として)拡張された本輸穴,あるいはその使い分けの工夫。ミャクはツボと病所が離れている場合に,その有効性を保証する論である。
勿論,痛苦の在る箇所に直接的に何かをして効果が有る,ということも信じられる。でもそれは物理療法一般に言えることであって,鍼灸について特に喧伝すべきこととも思わない。
8月の読書会はお休みです。
だから、次の読書会は9月10日(第2日曜)です。
午後1時から5時。
場所は
岐阜市南部コミュニティーセンター。
『霊枢』は師伝篇あたりからだと思うけれど、『太素新校正』を入手できたので、その話も。
『素問』気穴論に、岐伯が「聖人易語,良馬易御」と言い、黄帝が「非聖人易語也,世言其真數,開人意也」と応える。「聖人には話をしやすいのは、良い馬は乗りこなしやすいようなものです。いやいや、聖人にだから話がしやすいのではなくて、その内容が真実であるから人の意を開くのですよ。」まあ、じゃれあっているようなものだけど、考えてみると不思議な文章じゃないですか。岐伯が黄帝を乗馬扱いにしている。これって不敬じゃないのかね。古代中国人の感覚は、現代日本人とは違うということですか。