靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

岐黄

 むかし、まだ原塾を始めたばかりの頃、島田先生らが、多分、東洋学術出版社の山本社長の先導で、中国各地の中医学院を訪問したことが有った。そのとき創刊したばかりの『塾報』を持ってまわって、学術交流を提案してみえた。まもなく天津中医学院から交流の打診があって、そのころ、郭靄春教授の『黄帝内経素問校注語訳』が仲間内で評判になっていたことも有って、飛びつくようにして行ってきました。一九八五年の十一月のことです。図はその時の記念品のバッチです。当時、無理矢理コピー機で採った画像が残ってました。本当は赤を主体としてます。何かの交流会の使い回しだと思うけれど、裏の刻印は新しくしたあったように記憶しています。これが「岐黄」の文字が入ったモノの初めです。
 上海に居たときには、いくつもの印を刻ってもらいました。大体は豫園の集雲閣か南京路の朶雲軒で、別に書法の趣味が有るわけじゃないから、ほとんどは蔵書印ですが、いくつかはお遊びです。「神麹斎」の他に、「蔭軒」とか「無齋」とか。「無齋」は友人に進呈してしまったけれど、篆書でこの二字を横に並べると実に良い感じになっていた。「岐黄」はどういうつもりだったか覚えてないが、瑪瑙の印材を見つけて適当な文字を選んだんだろう。無論、岐伯と黄帝なんだけど、考えてみると「岐阜の黄帝」でもある。
 そこで、読書会の名を「読古医書岐黄会」とする。じつは名前を必要とするほどの規模の会じゃない。ほんの数人のグループです。読古医書は李今庸先生の『読古医書随筆』にあやかって、しんどいけれどドッコイショ、岐黄会は「岐阜で黄帝内経」について、はなそうかいキコウカイです。

右手に酒杯

 晋の畢卓が、「一手に蟹螯を持ち、一手に酒盃を持ちて、酒池中に拍浮すれば、一生を了るにたる」と云ったと『世説新語』に載っていて、天晴れ酒飲みの蟹好きの名言と思っていたけれど、『酒牌』の解説によると、『晋書』の畢卓の伝には「得酒滿數百斛船,四時甘味置兩頭,右手持酒杯,左手持蟹螯,拍浮酒船中,便足了一生矣。」とあるらしい。「右手に酒杯を持ち」なんですね。
 酣酣斎酒牌にはもう一つ別の話が使われている。畢卓が吏部郎だったとき、隣の同僚の家が新たに酒を醸したのを知り、夜間忍び込んで盗み飲みをして、案の定、酒庫の番人に縛られた。朝になって、隣の畢吏部であるのがわかったから、釈放されたのだけれど、今度は主人を甕の側まで引っ張っていって、べろんべろんになるまで一緒に飲んだ。

戒求仙也

 最近そのものずばり『酒牌』という本が山東画報出版社から出て、任渭長の「列仙酒牌」も紹介されている。その中に老子の牌について、白居易の新楽府「海漫漫 戒求仙也」から採られたというのは甚だ良いが、「酒令避清乾隆帝玄燁之諱,改云元元」は腑に落ちない。どちらかというと「玄〃」に見えませんか。つまり老子を玄元皇帝と呼んでいるわけじゃなくて、『道徳経』の五千言を「玄のまた玄なるもの」と言ったんじゃないかね。では、諱を避けなくてよかったのか、というと末筆を缺いているみたいです。もっとも、筆でさらさらと書かれたら、缺いているか缺いてないかの判定には、虫眼鏡が要りそうだけど。
海漫漫
直下無底旁無邊
雲濤煙浪最深處
人傳中有三神山
山上多生不死藥
服之羽化爲天仙
秦皇漢武信此語
方士年年采藥去
蓬萊今古但聞名
煙水茫茫無覓處
海漫漫 風浩浩
眼穿不見蓬萊島
不見蓬萊不敢歸
童男丱女舟中老
徐福文成多誑誕
上元太一虛祈禱
君看驪山頂上茂陵頭
畢竟悲風吹蔓草
何况玄元聖祖五千言
不言藥 不言仙
不言白日昇靑天

桃園結義


 上は青木正児「支那の絵本」に紹介されている元刻全相三国志平話の挿図である。
 「筆致は素朴の中に姿態備わり、洵に珍とするに足るものである。」
 絵の評価はこれに尽きようが、画かれている内容は、細かく見ると興味が尽きない。先ず桃園結義なんだけれど、桃は右上端にちょこっと画かれただけで、柳の木が二本有りそうで、ここも桃と柳の組み合わせだ。絵の右半は専ら酒宴に興を添える楽団である。野郎ばかりなのは三国志の性格から武骨を貴んだのだろう。太鼓と鼓と笛と、右端のはおそらくは拍板だろう。簡単に言えば短冊状の板からなるカスタネットのようなもの。太鼓が平たいようだが、これは今でも普通に有るものなのかどうか。中央のテーブルに載っているのはたぶん酒瓶で、左のテーブルには各人にそれぞれ酒杯と箸と小皿が有る。酒肴は三皿。少しずつ違って画かれているみたいだから三種であって、三人に一皿ずつではなさそうである。だから小皿は取り皿だろう。盛り上げた姿から乾きものかと思ったけれど、箸が添えられてるところからするとそうとも限らない。テーブルの下には黒犬が横たわっている。中国だからといって狆やチャウチャウばかりではない。三人の豪傑の脇にはそれぞれの武具を従者が捧げ持っている。張飛に青竜刀、劉備に剣、関羽は何だかわからない。青竜刀は関羽じゃないか、などと言うなかれ。演義ではこうして飲んでいるところへ商人の一行が通りかかり、鉄の寄贈を承けて、劉備は二振りの剣、関羽は青竜偃月刀、張飛は蛇矛をあつらえている。この図はむしろ正確なのである。鉄は当時の統制品で、そう簡単に好みの武具をあつらえることはできなかった。つまり、鑌鉄一千斤を贈ってくれた商人というのもそんなにまともな商人ではなかろうし、志に感じてなんてきれいごとじゃなくて、暗に強請ったのかも知れない。関羽を関王としるしているのも面白い。三国志の中でも関公とくらいは、呼ばれておかしくなかったろうが、今や関帝である。ここではその中間の関王。
 で、ここにながながと三国志の図をながめて戯言を吐いてきたのは、実は「刘俻」を見つけたからなんです。こういう俗字、元代にすでに有ったんですね。関王も關じゃなくて「関」です。

防禦

 『東京夢華録』に仇防禦とか蓋防禦とかいう薬屋が登場し、日本語訳の注には「防禦とは武官の防禦使のことであろうが、医者がどうしてこの官名を僭称するようになったかは未詳」と言っているけれど、中国伝統医学が「未病を治す」と唱えて予防重視を標榜していると関係が有るのではなかろうか。
 注釈には清明上河図にも、某防禦が描かれているというが、私には見つからない。(張択瑞のものでなく、清院本のことだろうか。でも、そうだったらそう書くべきだろう。)
 大夫なら一軒有るらしい。ちょっと不明瞭になっているが「楊大夫經驗」云々じゃないかと思う。対になった向こうがわの看板は「楊家應症」云々だろう。現代でも大夫と書いてdaifuと発音すれば、医者のことである。

 大夫だってもとはと言えば、卿の下で士の上の古代の官名である。僭称には違いない。こんなに堂々と看板に掲げて良いんだろうか。
 巻末近くには「趙太丞家」も有る。太医院の属官に太丞というのが有るかどうかは調べてないけれど、これも多分は僭称。

金屈卮


勸君金屈卮 滿酌不須辭 花發多風雨 人生足別離

 この于武陵の勧酒の詩、井伏鱒二の訳が名訳なのか迷訳なのか、そっち方面ばかり気になって、金屈卮とは何ぞや、なんて考えたことなかったですね。考えてみればこれは当然ながら酒器である。卮というのは『漢辞海』によると、「木を円筒状に曲げ、漆をぬった酒器」で、ジョッキのように持ち手がつくことが多く、ふたがつくものもあって、容量はビヤホールに喩えて言えば、大きければピッチャー以上、普通のものでも中ジョッキに近いそうです。ちょっとイメージと違うなあ。

 青木正児先生の『中華飲酒詩選』の解説では、「つまりコーヒイ茶碗のやうに取手の有る杯」ということで、そこにも引かれている宋・孟元老『東京夢華録』によれば、宮中の宴会に用いる盞はみな屈卮であって、殿上では純金、廊下では純銀のものを用いた。勿論、民間でもこの手の物は用いられたはずで、少なくとも青木先生の経験では「此の式の物は現今も行われてゐる。」

 そういえば、京劇の舞台に登場する酒杯にも取手が有って、金属製のようですね。それから想像しても、まあコーヒーカップ並みの大きさというのが妥当じゃなかろうか。

城趾の桜

 読書会の前に近くの加納城本丸跡で、花見をしてきました。
 本丸跡といっても何にも有りません。空っぽです。もっともこれは江戸時代からすでにそうだったらしい。

 だから、この広重の浮世絵に見えるのは、藩主の御殿が在った二の丸の櫓じゃないかと思います。大名行列が通っているのは中山道で、城の北を東西に走る。それを挟んで町屋が有って、絵の地点は東の町外れなんでしょう。もう少し先から、南へ御鮨街道が走り、私の先祖の何人かはその辺りに住んでました。御鮨というのは将軍家に献上する鮎鮨です。加納城は西への備えですからね、士屋敷は専ら西に広がって、東は堀代わりの川を隔てて田んぼだったようです。
 城跡の花見は空っぽで、車は入ってこられないし、人出もそんなに無いし、何と言ってもカラオケが無いのが良いんだけれど、出店も無いからねえ、それがちょっと寂しい。
 桜の満開がまがまがしいのは、黒い幹からいきなり白っぽい花で、葉がほとんど無いからじゃないか。考えてみると曼珠沙華もそうだ。花が一斉にこちらを凝視しているように見える。

手勢令

 一度だけ手勢令というのを見たことが有る。多分、蘇州か杭州だったろう。大衆酒場で、お兄ちゃんが差し向かいで掛け声とともに、ひっきりなしに杯を口にはこぶ。いや、にぎやかなことだった。江南だから、おそらく紹興酒だったと思うけれど、あのピッチでは相当の酒量になるはずだ。
 残念なことに、その手勢令がどんなルールだったのかはわからない。今、ちょっと調べてみると、両人対座して同時に出した手の屈している指かあるいは伸ばしている指かの数を当てあうというのが有る。これを内拳あるいは豁拳と呼ぶらしい。ただし、豁拳では各指に名前がついているから、単純に数を当てるのではないという説もある。
 いずれにせよ掛け声だから、相当に騒がしい。あまり雅ではない。にぎやかであることに価値が有る。
 各指に性格を与える方法では「五行生剋令」というのがある。大指は金、食指は木、中指は水、無名指は火、小指は土で、互いに一本の指を出し合って、その相剋関係によって勝ち負けを決める。掛け声は必要ないから、静かにやることもできるけれど、ひっきりなしに杯を口にはこぶというのは、やっぱり幽人賢士の席には似つかわしくない。
 そうは言っても、いずれにせよ、日本の若者の一気飲みよりは数等ましだと思う。私は一気飲みを人に強いたり強いられたりしたことは無い。勝手にやったことは有りますがね。啤酒はやっぱり一気飲みでしょう。
 それにしてもビールを口が卑しい酒と書くのはなんともはや。中国人は漢字の民なのに、こういうのは案外平気なんですね。日本人は4は死を連想させるとして嫌うでしょう。中国では気にしないどころかむしろ良い数字みたいですね。四と死は現代中国語でも同じ発音のはずなんだけどね。諱の同音字、甚だしくは近音字まで避ける人たちが、ですよ。李賀は父親の名が晋粛で進士の進と同音だからという理不尽な難癖によって、科挙の試験を受けられなかった。ただ、そもそも鬼才と評されるような人が政治家に向いていたかどうかは問題ですがね。鬼才は幽霊のような才能という意味です。それでも、現代日本の政治家よりは数等ましかも知れないけれど。彼らは何才と呼ぶべきなんだろう。

春郊


 『唐詩画譜』(明の天啓年間)から採りました。詩自体はさして有名なものではない。椀が大きいので最初は茶かとも思ったけれど、瓶はやはり酒瓶でしょうし、臥そべっているのは酔っているのだろうし、第一、詩題が「春郊酔中」でした。花はおそらくは桃で、やっぱり柳と取り合わせてあります。水辺ということは、西湖のほとりかも知れない。
 おもしろいと思ったのは酌をうけるのに托を持っていること。それと酒肴を入れている割子です。
 こういう器は『水滸伝』の挿絵にもあって、例えば梁山泊の菊の宴でも、いくつかのグループにわかれた豪傑たちのテーブルに一つづつ置かれています。魯智深や武松は大椀でやってますな。ドンブリみたいなのは李逵ですかね。
 

仙人になる

 中国人というのは、なんのかのと言っても、やっぱり道教がお気に入りで、弁証論だの唯物主義だのと言ったところで、進香も易占も護符も、別にすたれた様子は無い。で、彼らの望むところは不老長生であって、なろうことなら仙人になりたい。

 ところが、あれだけの広い大地だから、昔から斜に構えた人には事欠かないわけで、仙人なんてのは、身体に奇妙な毛が生えたり、骨相が変わって人間離れした顔になったり、羽翼を負うたりして、まるで化け物じゃないかという人がいる。人との交わりを棄てて、僻遠の地に住むなんて御免こうむる。美味いものを食らって、暖かにしているのが良いのよ。

 養生にしても、単豹なんてのは、内を養って、七十にもなって小児のようにつやつやした顔をしていたそうだが、山奥に住まいして、飢えた虎に出くわして喰われちまったじゃないか。張毅なんてのは、権門に取り入って良い目をみて、つまり外を養ったけれど、あくせく精神疲労の極で、四十になるやならずで内熱の病を生じて死んじまったじゃないか。普通にしてりゃ良いのよ。

 そうは言っても、それでも仙人になりたい人は多いわけで、努力する人もいるわけで、杜子春にでてくる道士なんてのはそうですね。芥川では父母の優しい言葉に思わず口をきいてしまって、その人間性を嘉されているけど、何とも生ぬるい。そんなことでは仙人になれるはずがない。本場の本当の話では、人間離れした散財ぶりに目を付けた道士の為に無言の行をやって、かなり上手くいっていたけれど、女に生まれ変わらされて産んだ子供が殺されたときに、人間性というよりも動物性によって、本能的にうめき声を発してしまうんですね。しかも道士はそのヘマに怒り狂っている。

......子供の両足を持ち、頭を石に叩きつけた。頭はくだけて、血が数歩さきまでとびちった。杜子春の心に、子供に対するが生じた。突然、道士との約束を忘れて、思わず、声をもらした。「ああ!」

......道士は、叫んだ。「書生めが!わしをこんな有様にしくじらせた!......あなたは、心のなかの喜び、怒り、哀しみ、懼れ、悪み、欲は、すべて断ち切ることができた。できなかったのは、であった。......」
 現代人は、この愛を「慈しみ」とか思うでしょうが、そうじゃないんですよ。この前には女房が切り刻まれても平然としていた。ここの愛は、むしろ「執着」といったことです。母親の、産んだ子に対する動物的な本能的な「執着が生じた」ということなんです。それすらも断ち切らなければならない。つまり、仙人になるというのはそういう異常の世界なんです。しかも、それが批判されているわけじゃないんです。まあ、どちらかと言えばそういうものとして肯定されている。

杜子春は、帰ってから、誓いを忘れたことが恥ずかしかった。自ら努力して再び試み、失敗をつぐなおうと思って、雲台峰に行ってみたが、まったく人影がなかった。口惜しく、溜息をつきながらもどったのである。
 仙人なんてはた迷惑なんです、なろうとする人もね。
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