靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

東洋の神秘

 もうすでに旧聞に属するけれども、日本と中国でツボの位置がくいちがっていたことから、患者さんに不安が広がって、斯界の上層部では、針灸師ならちゃんと正しいツボを知っているし、実際には指頭感覚で確認しているから大丈夫、と宣伝にこれつとめていたらしい。そういう心配も有ったんですね、というかそういうのが主流だったんですね。
 私なんぞからすると、そもそも針灸治療で確かに分かっていることなんてほんのわずかです。臨床家が古典の知識を応用して成果を挙げたと言っているのをみると、大抵はその古典の解釈を誤っている。でも、成果を挙げているのも確かなんです。だから、「大丈夫」だとしたら、分かることと治せることとは、あんまり関係ないから大丈夫なんです。
 分かってないというのも、どうしてそうなるかは皆目分からない、ということです。どうすればどうなる(と考えられてきたか)は、結構だんだん分かりかけてはいるんです。
 五里霧中で手探りで治療しているというと、患者さんは不安になるのかも知れないけれど、それはどんな治療だってそうなんです。あらゆる患者さんは、治療家にとって厳密には初めての経験でしょう。それをわずかな知識と経験で、ああではないかこうではないかとやってみるわけです。豊かな経験と知識にもとづいて、「あなたは治りません」と言われてうれしいわけがない。分からないけれどやってみる、これでダメでも、別の手を探す。そして、上手くいけば患者さんの(身体の)手柄なんです。医者を見つけさえしたらそれで全く安心、なんとかしてくれる、というわけにはいかない。例えば、切開して取り外して縫い合わせてまでには外科医の巧拙が問われるけれど、それで健康を取り戻せるかどうかは本当は患者さん次第でしょう。回復できるように調整するのも治療家の役目だけど、それに反応してくれるかどうかは、結局のところ患者さん次第です。

人迎脈口診

 人迎脈口診は『霊枢』五色篇にも有る。ここには『太素』の文章によってあげる。
雷公曰:病之益甚與其方衰何如?
黄帝曰:外内皆在焉。切其脈口滑小緊以沈者,其病益甚,在中;人迎氣大緊以浮者,其病益甚,在外。其脈口滑而浮者,病日損;人迎沈而滑者,病日損。其脈口滑以沈者,其病日進,在内;其人迎脈滑盛以浮者,其病日進,在外。脈之浮沈及人迎與寸口氣小大等者,其病難已。病之在藏,沈而大者,易已,小為逆;病之在府,浮而大者,其病易已。人迎盛緊者,傷於寒;脈口盛緊者,傷於食飲。
①滑と氣は、釣り合いからいえば、どちらかが誤り。
②損、『霊枢』は進に作る。
③前後は脈口なのに、ここだけは寸口。あるいは出所が異なるのではないか。
 人迎にせよ脈口にせよ、滑緊あるいは盛堅なるものは病む。
 脈口は浮いてくれば回復に向かっており、沈んでくれば悪化している。その病は中つまり蔵府に在る。
 人迎は沈んでくれば回復に向かっており、浮いてくれば悪化している。その病は外つまり肌肉に在る。
 病が蔵に在るときに、脈が沈んでいる。この脈は脈口であって、その沈んでいたのが、浮いてくるのは吉である。大きければ、已え易い。逆は良くない。
 病が府に在るときに、脈が浮いている。この脈は人迎であって、その浮いていたのが、沈んでくるのは吉である。小さければ、已え易い。
 人迎が盛堅となるのは肌肉に問題があるのであり、寒に傷なわれたのである。
 脈口が盛堅となるのは蔵府に問題があるのであり、飲食に傷なわれたのである。
 中外を蔵と府とするのと、蔵府と肌肉とするのが混在している。
 「脈之浮沈及人迎與寸口氣小大等者,其病難已」は、おそらくは夾雑物であろう。これを除けば、ここには人迎と脈口の比較の要素は全くない。

石門ふたたび

 『医心方』巻第二の灸禁法に、陳延之云うとして「『黄帝経』に、禁不可灸なるもの十八処有り、而して『明堂』の説はすなわちこれを禁ぜず」とあって、その十八処の中に「石門,女子禁不可灸」が有る。
 その後に、曹氏の説として挙げる中にも:
關元者,下焦陰陽宗氣之奧室也。婦人無疾不可妄灸,灸則斷兒息;有疾可灸百壯。
血海者,名爲衝使,在膝內骨上一夫陷中。人陰陽氣之所由從也。無病不可灸,灸,男則陽氣衰,女則絕產,不欲動搖肢節也;有疾可灸五十壯。
が有る。
 つまり、『明堂』派はもともと禁ぜず、むしろ不妊症の治療に臍下の正中線上のツボを利用としており、別に無闇に灸するなという一派が有ったということだろう。ただし、無闇に灸するなというのも、本意は「尋不病者,則不應徒然而灸,以痛苦爲玩者也」(病気でもないのに、ただなんとなく灸をすえるなどということは、痛苦をもって玩びとするようなものである)に在る。だが、この用心自体にも老婆心の気味が有り、誤読に発している可能性が疑われる。そもそも彼らも不妊症を治すためには灸をすえたかも知れない。要はすえかたであり、現今の温和な灸で問題が生じるとは思えない。

石門

 『甲乙経』巻三・腹自鳩尾循任脈下行至会陰凡十五穴第十九に「石門,……女子禁不可刺灸中央,不幸使人絶子」とあり、巻五・鍼灸禁忌第一下に「石門女子禁不可灸」とある。『甲乙経』には石門が主どる症候がいくつも見られるが、この「禁」は「女子」と断っている以上は、必ずしも誤りとは言えない。
 しかし、巻十二・婦人雑病第十に「絶子,灸臍中,令有子」とある。これは臍中に灸すれば子が有ると言っているのであるから、「絶子」は明らかに不妊症であり、その治療のための方である。同一の詞語を一方で医療の過誤と読み、一方で治療の対象と読むのは腑に落ちない。
 『甲乙経』の巻十二、つまり古の『明堂』からの採録と思われる婦人科の条項に、絶子は何度も登場する。
女子絶子,陰挺出,不禁白瀝,上窌主之。
絶子,灸臍中,令有子。
女子手脚拘攣,腹滿,疝,月水不通,乳餘疾,絶子,陰癢,陰交主之。
腹滿疝積,乳餘疾,絶子,陰癢,刺石門。
女子絶子,衃血在内不下,關元主之。
女子禁中癢,腹熱痛,乳餘疾,絶子内不足,子門不端,少腹苦寒,陰癢及痛,經閉不通,小便不利,中極主之。
絶子,商丘主之。
大疝絶子,築賓主之。
 石門の条自体は、「刺」と断ってあるのだから、刺すのはよいが灸は禁物と強弁できないことはない。しかし、他はともかくも、同じ腹部正中線上の二寸上の臍中に灸すれば子が有り、一寸上の陰交、一寸下の関元は絶子を主どるのに、石門だけが禁忌であるとは到底納得できない。「主之」は、『甲乙経』の凡例によれば灸刺いずれも可である。 
 乃ち「不幸使人絶子」という忠告は、「絶子」を読み誤った後人の老婆心であり、妄りに付け加えた贅言であると考える。

必厭於己

 『太素』巻27邪客に「善言人者,必厭於己」とあって、「厭」の厂が原本では广になっている。それ自体は仁和寺本『太素』には他にも例が有るし、「厭」の場合の実例は敦煌の俗字にも見えるらしいから、まあいいとして、傍らの書き込みがわからない。「☐艷反,安也,飽也,足也」とあって、☐で示しておいたのは八の下に一である。そういう字は字書に見つからない。『集韻』去声豔第五十五に厭は「於豔切,足也」とあり、豔の隷書は艷と書くとある。してみると、八の下に一は、於の略字のつもりなんだろうか。
 で、ここの足はどういう意味なんだろう。無論、脚ではない。楊上善の注は、「善言知人,必先足於己,乃得知人;不知於己,而欲知人,未之有也。」まあ、知ることが「たりる」なんじゃないかと思うけれど、何とも迂遠な感じがする。
 そもそもここは、天について語ることができる人は、人のことにそれを応用できるし、古について語ることができる人は、今のことにそれを応用できるというのに続くのだから、他人について語ることができる人は、自分のことにそれを応用できるといっているはずではないか。とすると、「厭」はいっそのこと注を離れて、「適合させる」くらいに取ったほうが良くはないか。『集韻』入声葉第二十九に「説文:笮也。一曰伏也,合也」とあるうちの「合也」を取る。『説文』には別に「猒,飽也」というのが有る。もともとは別の字であった。

天府下五寸

 実は「大禁二十五,在天府下五寸」は、『太素』では、気穴の羅列を「凡三百六十五穴,鍼之所由行也」と締めくくり、三種の輸穴の所在を「水輸在諸分,熱輸在氣穴,寒熱輸在兩骸厭中二穴」と説明したあとに、改めて大禁について述べるという位置に在る。「二十五」の意味が良く分からないが、大禁は二十五有って、それは口伝であるけれども、一番大事な「天府下五寸」だけには注意を喚起しておく、というつもりかも知れない。
 何れにせよ、鍼刺に際してこれだけは危ないと注意するとしたら、「心臓には刺すな」というのは最も切実な一件だろう。とすると、天府も必ずしも現在の天府穴でなくて腋中かも知れない。本輸篇の「腋内動脈手太陰也,名曰天府」には、むしろそのような気配が有る。その下というのが臂の側にではなくて、脇肋の側だとすれば、天府の下五寸はおおむね心臓に相当するだろう。骨度篇では腋から季肋までが二尺だけれど、季肋から髀枢が六寸というのだから、季肋を相当に下方に取っている。また『甲乙』では腋の下三寸が淵液、淵液の下三寸が大包である。大包は脾の大絡で、脾の大絡とは実際には心尖搏動のことだろうともいわれている。

五里

 結論は分かっている。肘上の五里穴は禁穴なんかじゃない。でも、どうやったらそれを証明できるのかが分からない。禁穴なんぞと誤解されている元凶は、『素問』気穴論「大禁二十五,在天府下五寸」の王冰注である。これははっきりしている。『太素』の楊上善だって同じことだが、たまたま亡佚していたから影響力は小さかった。
 実は気穴論の経文自体には、それが五里穴であるという説明は無い。五里の禁を言うものは、『霊枢』小針解の「奪陰者死,言取尺之五里,五往者也」だけど、これは『霊枢』九針十二原篇の解釈であって、九針十二原篇の前のほうには「取五脈者死」とも言っている。そっちの小針解は「取五脈者死,言病在中,氣不足,但用鍼盡大寫其諸陰之脈也」である。つまり奪われると死すという「陰」とは、「尺之五里」であるとともに「諸陰之脈」でもある。だから「尺之五里」が、例えば「陰之五脈」の誤りであると証明できれば、一番すっきりする。つまり、本意は五蔵と密接な関係にある陰経脈を無闇に瀉すのは極めて危険だ、というに過ぎなかった可能性が有る。なんたって、今よりはるかに粗大な針だったんでしょう。本当は失血死が恐かったんだろうけど、理念的には失気死だって恐い。『素問』玉版篇の「迎之五里,中道而止,五至而已,五往而蔵之気尽矣,故五五二十五而竭其兪矣」だって、その線で解釈できる。だけど、「尺之五里」をどういうやったら「陰之五脈」になるのかが不審だし、王冰も楊上善も五里穴だと思っているのだから、今さら古い資料の出現は望めない。『霊枢』本輸篇の「陰尺動脈在五里,五輸之禁」、これは「陰之動脈在五里,五輸之禁」(陰の動ずる脈は五ヶ所に在って、その五つの輸穴は禁の最たるものである)であったかも知れない。なんとか援軍に仕立て上げられないものだろうか。

内経の募穴

 『内経』に募穴は有るのか。無いけれども有るべきである。『素問』三部九候論の上部の脈処は頭部に在るのに、中部と下部の脈処は四肢に在るというのはおかしい。中部と下部だって、診るべき対象の近くに脈処は在るべきだ。なんだかいつも同じことを言ってるようだけど、誰も聞いてくれないのだからしかたがない。繰り言めいてくる。中部と下部の、つまり五蔵を診る処には、やっぱり募穴がもっとも相応しい。だから、原初の三部九候診は、言ってみれば募穴診だったわけだし、次註本『素問』の三部九候診は原穴診である。してみると、三部九候診は『素問』に独特の脈診法であるという教条も、あほらしいことになる。

兪募

 病症と兪募穴の結びつきは、『内経』には有りません。有るのは蔵と背兪との結びつきです。だから、五蔵六府と兪募穴の結びつきの兆しは有るのかも知れません。『難経』に至って、五蔵に募穴と兪穴が有って、陰病には兪穴を、陽病には募穴を取ると言うけれど、別に病症によって兪穴のうちのどれ、募穴のうちのどれを取ると言っているわけではありません。それは確かに、病症に五行を配当し、兪募穴に五行を配当して、だから五行のこの病症の場合にはこの兪募穴という程度のことなら、私たちが知らないだけで、かつて試みた人はいるかも知れません。でも、伝わってないということは、その人は失敗したのでしょう。だから、現在試みて上手くいっているとしたら、その功績は創見というに値すると思います。
 『内経』では、井滎兪経合は季節による使い分けが主流のようです。病症については、『霊枢』順気分為四時篇に、井は蔵、滎は色、輸は時、経は音、合は味と言っているあたりがせいぜいで、これもやっぱり主眼は四時に在るはずです。『難経』には、五蔵の病症を配当しているのかも知れない箇所が有ります。つまり、井は心下満、滎は身熱、輸は体重節痛、経は喘欬寒熱、合は逆気而泄。これをそれぞれ五蔵の病として配当できないことはない。でも、これも五つの目立った病症の陰陽の程度を、井滎兪経合の陰陽の程度に重ね合わせたくらいに止めておいたほうが、やっぱり無事だろうと思います。
 病症の陰陽虚実と、井滎兪経合の陰陽の度合いとを相応させるのは、まあなんとか大丈夫だろうと思います。背兪の高下の陰陽と相応させるのも、まあ同じ理屈でどうにかなるかも知れません。でもそれは背兪というよりは背中の足太陽経脈上の穴の運用じゃないでしょうか。募穴はどうなんでしょう。陰陽的な使い分けは、何か別の理屈を探さないと、ちょっと難しくはないですか。
 もともとは、兪募穴は蔵府との相関で、井滎兪経合は陰陽虚実との相関ではなかったかと思っています。両者を連環させれば、新しい面白い世界が開けるのかも知れません。けれども、そんなことをして大丈夫かという畏れも感じます。五行の配当だけを頼りにしてそうするのでは、かつて試みて失敗した先人の跡をたどるに過ぎないのではないでしょうか。
 やっぱり、兪募穴は蔵府のものとしておいたほうが良くはないでしょうか。背兪穴も募穴も本当は直接に蔵府と繋がっているのであって、それをどれかの経脈の穴のようにいうのも、整理の都合上のことに過ぎないと思っています。

胃腸の熱寒

『太素』卷二・順養(『靈樞』師傳)
胃中熱則消穀,令人懸心善飢,齊以上皮;腸中熱則出黄如糜,齊以下皮【楊上善注:陽上陰下,胃熱腸冷,自是常理。今胃中雖熱,不可過熱,過熱乖常。腸中雖冷,不可失和,失和則多熱出黄。腸冷多熱不通,故齊下皮寒也。】胃中寒則䐜脹,腸中寒則腸鳴飡洩。胃中寒,腸中熱,則脹且洩;胃中熱,腸中寒,則疾飢,少腹痛。
※澁江全善『靈樞講義』:竊謂臍以下皮,寒字或誤,疑當作,則上下文意甚覺平穩。
※河北中醫學院『靈樞經校釋』:劉衡如曰:「詳文義字似應改為。自楊上善以下,歷代注家解釋此句,語多堅強,或以此五字屬下,或改前,義均未安,如易熱字,則文義豁然矣。」 證之臨床,腸中熱自無「臍以下皮寒」之理,而以「臍以下皮熱」為是。
※李克光・鄭孝昌主編『黄帝内經太素校注』:皮寒與上「腸中熱」義乖。參楊注則當為「腸中冷」,與下文「腸中寒,則腸鳴飱洩」義切合。樓英『醫學綱目・治寒熱法』則改作「皮」,並注云:「胃居臍上,故胃熱則臍以上熱;腸居臍下,故腸熱則臍以下熱。」
※神麹斎案ずるに:『太素校注』が楊上善の注を重んじて、なんとか理に叶うようにしようとするのは当然かも知れないが、やはりこれは取れない。ここの文章は全体として、先ず胃と腸の熱の場合、次いで胃と腸の寒の場合の症状を挙げ、最後に胃と腸の寒熱が異なる場合を言っているはずである。
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