靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

必厭於己

 『太素』巻27邪客に「善言人者,必厭於己」とあって、「厭」の厂が原本では广になっている。それ自体は仁和寺本『太素』には他にも例が有るし、「厭」の場合の実例は敦煌の俗字にも見えるらしいから、まあいいとして、傍らの書き込みがわからない。「☐艷反,安也,飽也,足也」とあって、☐で示しておいたのは八の下に一である。そういう字は字書に見つからない。『集韻』去声豔第五十五に厭は「於豔切,足也」とあり、豔の隷書は艷と書くとある。してみると、八の下に一は、於の略字のつもりなんだろうか。
 で、ここの足はどういう意味なんだろう。無論、脚ではない。楊上善の注は、「善言知人,必先足於己,乃得知人;不知於己,而欲知人,未之有也。」まあ、知ることが「たりる」なんじゃないかと思うけれど、何とも迂遠な感じがする。
 そもそもここは、天について語ることができる人は、人のことにそれを応用できるし、古について語ることができる人は、今のことにそれを応用できるというのに続くのだから、他人について語ることができる人は、自分のことにそれを応用できるといっているはずではないか。とすると、「厭」はいっそのこと注を離れて、「適合させる」くらいに取ったほうが良くはないか。『集韻』入声葉第二十九に「説文:笮也。一曰伏也,合也」とあるうちの「合也」を取る。『説文』には別に「猒,飽也」というのが有る。もともとは別の字であった。

Comments

Comment Form