靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

陰氣雖少傷

『太素』巻14人迎脉口診(新校正p.296)
寸口大於人迎一倍,病在厥陰;寸口二倍,病在少陰;寸口三倍,病在太陰。

楊上善注:......陰氣雖少,過陽氣二倍,名曰少陰之病,則寸口之脉二倍大於人迎。......

新校正云:原鈔「仍」字触落左半,辨其殘筆,當作「仍」。蕭本作「得過陽氣二倍」;日本摹寫本「過」上闕一字,空一格。

原鈔に書かれている文字は,恐らくは「傷」であろう。(若干不安,でも「仍」ではありえない。)右に挙げたのは「不盛不虛,以經取之,名曰經刺。」の楊上善注中の「傷寒」,これは新校正も「傷寒」としている。ただし,書かれているのが「傷過陽氣二倍」であるとして,それで意味は通るのか,何かの字の誤りではないのか,いつものことながら,それは分からない。あるいは「陰氣雖少,過陽氣二倍」(陰気少しく傷なわると雖も,陽気に過ぐること二倍)では如何。

咽在肝傍

『太素』巻6五蔵命分
肝大則逼胃迫咽,迫咽則喜鬲中,且脇下痛。

楊上善注:胃居肝下,咽在肝傍,肝大下逼於胃,傍迫於咽,迫咽則咽膈不通飲食,故曰膈中也。肺肝大受耶,故兩脇下痛。

肝が大であると,どうして咽に迫るのか。張志聡は,肝は胃の左に在るから,肝が大きければ胃に逼り,そうすると今度は胃が推し上げられて咽に迫る,というように説明している。咽は『素問』太陰陽明論に「喉主天氣,咽主地氣」とあり,区別して言えば食物のほうの道であるから,この説明はやや「風が吹けば桶屋が......」式に迂遠ではあるがまあ良いだろう,仕方がない。

しかし,楊注の「咽在肝傍」はどういう意味だ。「咽は肝の傍らに在る」以外の解釈なんて有るだろうか。咽が肝の傍らに在るとすると,咽は食道の最下部ということになりそうである。『霊枢』邪気蔵府病形篇に「胃病者,腹䐜脹,胃脘當心而痛,上支兩脇,膈咽不通,食飲不下」とあるが,この膈咽は,食道の下と上ではなくて,食道が胃に接するところの膈および咽なのかも知れない。

咽は一般的な辞典では,喉の上部であるが,もともとの意味はそうとは限らない,のかも知れない。
もし,咽はやっぱり食道の上部ということになれば,今度は傍のほうに「そば,近く」の他に,「間接的に影響の及ぶところ」というような意味が必要になる。諸家が今まで気にしなかったのは,つまりそういう意味も有るということか。

血氣所生

『太素』巻10経脈標本に「足太陽之本,在跟以上五寸中,標在兩緩命門。命門者,目也。」とあり,その楊上善注の冒頭は,「血氣所生,皆從藏府而起,令六經之本皆在四支,其標在掖肝輸以上,何也?」であるけれど,『太素新校正』は「血氣所」を「血氣所」に作って疑わない。でも,原鈔はやっぱり「出」ではなくて「生」です。また,巻8経脈連環のおしまいのほうの楊注に,肝から出て肺中に注ぐといって,手の太陰に接するといわないのはなぜかという問いに対して,「但脉之所生,稟於血氣,血氣所生,起中膲倉稟,故手太陰脉從於中膲,受血氣已,注諸經脉。」と答えています。ここは『太素新校正』も「血氣所生」です。「血氣所出」という句は『太素』の経文にも楊注にも見えません。

七診

『素問』三部九候論に「七診雖見,九候皆順者不死。」とある。九候は上中下の三部それぞれに天地人で,合わせて九候である。それでは七診とは何か。一説には「察九候,獨小者病,獨大者病,獨疾者病,獨遲者病,獨熱者病,獨寒者病,獨陷下者病。」で,王冰はこちらを採っているらしい。もう一つは楊上善の説で,沈細懸絶、盛躁喘数、寒熱病、熱中病、風病、病水、形肉已脱を挙げる。ただし,最後の形肉已脱は疑わしい。「形肉已脱,九候雖調猶死。」の注に「土爲肉也,肉爲身主,故脉雖調,肉脱故死。此爲七診也。」とあるのだから,楊上善説の第七診は形肉已脱と考えるのが,まあ普通ではあろうけれど,その次にまとめて「七診雖見,九候皆順者不死。」と言うのだから,七診の中に形肉已脱が有るのはおかしい。「形肉がすでに脱してしまえば,九候が調っていたとしても死んでしまう」と「七診が現れたとしても,その中の一つ形肉がすでに脱するという状況になったとしても,九候がみな順であれば死なない」,やっぱり矛盾するでしょう。実は「形肉已脱,九候雖調猶死。」の前に「其脉乍䟽乍數,乍遲乍疾,以日乘四季死。」という一条が有って,その楊注には何故だか「此爲○診也」が無い。ひょっとすると,「此爲七診也」は「其脉乍䟽乍數,乍遲乍疾,以日乘四季死。」に対する楊注の末尾に在るべきではないか。そうすれば第七診は「其脉乍䟽乍數,乍遲乍疾」である。

ここでも『素問』の注釈者は概ね王冰説を採り,『太素』の注釈者は概ね楊上善説を採っている。おもしろいねえ。ただし,森立之『素問攷注』では,楊上善説が是であると,明言はしてないようだけれど,楊上善説によって第一診から第六診まで番号を振って,しかも「其脉乍䟽乍數,乍遲乍疾,以日乘四季死。」の上に,ちゃんと第七診と書き込んでいる。ちゃっかりしているねえ。

巨刺と繆刺

先ず最初に,巨は恐らくは互の誤りであろう。そして互と繆は,同じく交差の意味である。しかして経は簡(すっきり単純)であるから、これを互(たがい)といい,絡は繁(いろいろ複雑)であるから,これを繆(入り混じる)という。だから経脈を刺すのを互刺と謂い,また経刺と謂い,絡脈を刺すのを繆刺と謂い,また絡刺と謂う。
互刺と繆刺は,いずれも「左取右,右取左」,つまり痛みが在るのと反対側に取る。経脈を刺すのは,例えば左が痛むのに,九候の診は右にあらわれる場合で,その右にあらわれた反応点を処理する。絡脈を刺すのは,痛みは有るのだが,九候の診にはいうほどの反応が無い場合で,絡脈の異常を見つけて,それを処理する。絡脈の異常も,例えば左が痛めば,右にあらわれると考えられる。

ちょっと簡単に言いすぎですかね。でも,敢えてそうしています。

愚智賢不肖

『太素』巻6五蔵命分に「五藏者,所以藏精神血氣魂魄者也。六府者,所以化穀而行津液者也。此人之所以具受於天也,愚智賢不肖,毋以相倚也。」とあるけれど,この「愚智賢不肖,毋以相倚也」がよく分からない。『霊枢』が「無愚智賢不肖,無以相倚也」として「愚」の上に「無」が有ることは,「愚智賢不肖を論ぜず」も「愚智賢不肖のいずれも」も,結局おなじことだろうから置くとして,「倚」はなんだろう。文脈からして,「愚智賢不肖のいずれも,あい~するものは無い」のはずだろう。「倚」は普通に考えれば「たよる,よりかかる」であるが,それでは人は誰も五蔵六府を頼りになんかしない,ということになってしまいそうである。そこで,張介賓は「偏」(かたよる)の意味だと言い,また一曰として「當作異」と示し,郭靄春はもともと「倚」「奇」「異」は互訓であると言う。「愚智賢不肖を論ぜず誰しも同じであって,なんら偏ったり異なったりすることは無い。」これで意味は通じる。何も問題は無い。
ところが,楊上善の注は「五藏藏神,六府化穀,此乃天之命分,愚智雖殊,得之不相依倚也。」と言う。「依倚」はやっぱり「たよる,よりかかる」ではないのか。少なくとも『漢語大詞典』には他の意味は載ってない。楊上善の注は本当にこれで良いんだろうか。

そもそも,経文の「毋」は本当に「毋」で良いんだろうか。「毋」でなくて,「ことごとく,例外なく」を意味する字のほうがぴったりしそうなんですが......。そうだったら,「倚」は「依る」でなんら問題はない。今度は楊注の「不」の字は衍文ではないか......,となりそうですが。

但得真藏脉

『太素』15尺寸診に「人以水穀爲本,故人絶水穀則死,脉無胃氣亦死。所謂無胃氣者,但得真藏脉,不得胃氣也。」と言うのは良い。しかし,続けて「所謂肝不弦,腎不石也。」とはなにごとか。楊上善は「雖有水穀之氣,以藏有病無胃氣者,肝雖有弦,以無胃氣不名乎弦也;腎雖有石,以無胃氣不名乎石。故不免死也。」と説明するが,到底受け入れられない。五蔵の脈状に弦鉤弱毛石が有っても,胃気が無ければ弦鉤弱毛石とは名づけない,などということは無かろう。
『素問』平人氣象論に「冬胃微石曰平,石多胃少曰腎病,但石無胃曰死,石而有鉤曰夏病,鉤甚曰今病。藏真下於腎,腎藏骨髓之氣也。」とあり,森立之『素問攷注』に『脈經』卷三の「冬胃微石曰平,石多胃少曰腎病,但石無胃曰死,石而有鉤夏病,鉤甚曰今病。【凡人以水穀爲本,故人絶水穀則死,脈無胃氣亦死。所謂無胃氣者,但得真臓脈,不得胃氣也。所謂脈不得胃氣者,肝但弦,心但鉤,胃但弱,肺但毛,腎但石也。】」を引いている。【 】内は小字である。この『脈經』の文章「肝但弦,心但鉤,胃但弱,肺但毛,腎但石也。」は一般に善本とされている,例えば静嘉堂文庫所蔵の影宋本では「肝不弦,腎不石也。」となっている。また【 】内に相当する文章も大字である。沈炎南『脈経校注』によれば,元・葉氏広勤書堂刻本もしくは清・光緒十七年池陽周学海校本が,『素問攷注』に引くものと同じである。
つまり,「所謂肝不弦,腎不石也。」は「所謂肝但弦,腎但石也。」の誤りではなかろうか。

發蒙解惑

「發蒙解惑」ということばが,『素問』にしばしば登場する。例えば,挙痛論に「今日發蒙解惑。藏之金匱。不敢復出。」とある。他の箇所も通して,概ね「耳目の蒙(覆いかくすもの)を発し(ひらき),心の惑(まどい)を解すれば(ときはなてば),真理はそれ自体の力によって,豁然と悟られるものである」というような意味合いである。この言い方は医書以外にもしばしば用いられている。
それでは,『霊枢』刺節真邪篇に『刺節』の言として挙げられる振埃、發矇、去爪、徹衣、解惑のうちの二つと共通するのは何故か。思うに,現代の鍼灸治療では,その施術方針は補と瀉に覆われているが,『霊枢』経脈篇あたりでは,「盛則寫之,虛則補之,熱則疾之,寒則留之,陷下則灸之,不盛不虛,以經取之。」と,もう少しひろい。あるいはもう一つ,それとはやや次元の異なる治療の大方針があったのではなかろうか。刺節真邪篇ではそれがすでに具体的な刺法の説明となって,ある意味では矮小化されている。
また去爪については,刺節真邪篇に相当する『太素』五節刺の楊上善注に「或水字錯爲爪字耳」と言う。しかし,『霊枢』五禁篇に發矇、解惑とならんで去爪も登場し,「戊己日自乗四季,無刺腹去爪寫水。」とある。すでに「去爪寫水」と言うからには,去爪が去水の誤りだとすると,その誤られた時期は相当に古いことになる。

そこであるいは,医療とはそもそも何をしようとすることであるか,というような哲学的なまとめが嘗て試みられ,そしてまとめきれなかった。あるいは定着しなかった。

所發者廿六穴

『太素』巻11気府に「手太陽脉氣所發者廿六穴」とあるけれど,そもそも楊上善が「卅錯爲廿字也」と注しています。だから楊上善が挙げる穴も,「上天容四寸各一」のところで具体的な穴名を挙げずに簡略に「左右八穴」と言うけれど,合計して三十六穴になるように考えている。『素問』気府論では経文も「三十六穴」で,王冰の注も当然そのように数え挙げる。
でも,これはちょっとおかしい。「上天容四寸各一」を「左右八穴」,「肩解下三寸者各一」を「左右六穴」と解すれば,確かに合計は「卅六穴」になるが,もし「上天容四寸各一」を左右二穴,「肩解下三寸者各一」を左右二穴と解すれば,「廿六穴」のままでかまわない。
他の脈で,一句で数穴を挙げるときには,例えば足陽明で「下齊二寸俠之各六」といっている。ここの手太陽でも最後の「肘以下至于手小指本各六輸」は同文例である。「上天容四寸」と「肩解下三寸」については,明らかに「各一」というのであるから,左右に一穴づつである。
「上天容四寸」が今いうところのどの穴であるかは確定し難い。当時はまだ命名されてなかったのだろう。そこで『霊枢』本輸では足少陽というところの天容から上ると記述した。「肩解下三寸」もほぼ同様な意味合いだろう。肩関節の下三寸である。

次の手陽明では「鼻穴外廉頂上各一」を,『素問』気府論は「鼻空外廉頂上各二」に作っている。外廉と頂上である。それで計算はあう。手少陽では『太素』は三十三穴とするから,「項中足太陽之前各一」を楊上善は大椎一穴と大杼二穴とするが,『素問』気府論は三十二穴であり,王冰は風池二穴とする。「肩貞下三寸分間各一」については,一寸ごとの分間に各一と解すれば,左右六穴でそう問題はないだろう。もし「肩貞下三寸分間各一」を「肩貞の下三寸のところの分肉の間に各一」と解すれば,やっぱりこれも左右二穴で,総計は楊注にいう「一曰廿八」となる。
前の足少陽に至っては,そもそも『素問』と挙げる穴位も総数も異なるから論じにくい。「掖下三寸脅下下至胠八間各一」を,その範囲内の八つの間に在ると解すれば,左右で十六のはずであるが,掖下三寸に一つと,その下の八間にそれぞれ一つならば十八である。王冰はそのように解している。『太素』の現文で,「髀樞中傍各一」を左右で二つと考えれば,この計算法で四十六となり,経文の五十二には六つ足りない。ただ,『素問』気府論には『太素』には無い「直目上髮際内各五」,「耳前角下各一」,「鋭髮下各一」,「耳後陷中各一」が有る。これらを塩梅すれば,五十二にならないことも無い。

矩を踰えて

 医古文を通して考証学の方法を知り,それによって医学経典著作を読み直す。これが我々のグループ,さらには近年の日本に於いて,「古典を読む」ということであった。しかし,この堅実な道の先に,はたして果実は豊かに熟れていたか。甘いにせよ酸いにせよ,それをただ眺めているわけにはいかない。果実に手をさしのべるためには,矩を踰える必要が有るのではないか。例えば『霊枢』九針十二原篇の十二原に関する内容は,『太素』巻21の諸原所生に在って,『霊枢』で読む場合とは異なったまとまりを持っている。つまり,元来の「原」の意味は,現在の常識とは異なるのではないか。それを突きとめることには,必ずや意義が有る。矩を踰えることにも,あるいは情状酌量の余地は有るかも知れない。
五藏有六府,六府有十二原,十二原出于四關,四關主治五藏,五藏有疾,常取之十二原。十二原者,五藏之所以稟三百六十五節氣味者也。五藏有疾也,應出于十二原,而原各有所出,明知其原,覩其應,而知五藏之害矣。
 ここで言われていることを要約すれば,四関(両腕,両踵関節)に原が有り,それは五蔵の病の診断点であり,治療点であるというだけのことである。実質的には六府の原のことは言ってない。とすると,六府云々は衍文であろうし,十二原云々には誤りが有るに違いない。十二原が四関に出るとあるが,どう考えても四関に出るのは十原である。「十二原而原」を,『霊枢』では「十二原二原」に作る。これは「而」と「二」が同音であるからの紛れだろう。もしこの「二」字が,実はさらに代替符号(重文符号)であったとすれば,下の「原」字は衍文と考えて,「十〃原〃」乃ち「十原十原」となる。前の「十二原十二原」もこれに準じて考える。
陽中之少陰,肺也,其原出于大淵,大淵二。陽中之大陽,心也,其原出于大陵,大陵二。陽中之少陽,肝也,其原出于大衝,大衝二。陰中之大陰,腎也,其原出于大谿,大谿二。陰中之至陰,脾也,其原出于大白,大白二。
 五蔵の十原である。何も言うべきことは無いように思える。しかし,少し待ってもらいたい。実は九針十二原篇の九針の用法は一つの例外も無く病所に施すものである。しかるに原穴はいずれも腕踵関節部に在る。本当にそうなのか。ここで陽中とか陰中とか言うのは,躯幹に於ける部位の陰陽である。手、足の経脈に位置するから陰陽と言うわけではない。「陽中之少陽」の陽中を『霊枢』や『甲乙経』に従って「陰中」に改めるべしという意見も有るが,それは原穴が腕踵関節部に在るというのが常識になってからの改訂ではないか。躯幹に於いては,何処に陰陽の境を設けるかによって,肝の位置の表現には微妙なところが有る。

 お気づきいただけたかと思うが,ここで実は突飛なことを言っている。五蔵の十原は,もとは躯幹に在ったのではないか,と。
 『素問』三部九候論では,上部は対象の脈動を直接診るが,中部と下部では手足の五陰経脈で診ることになっている。しかし,それはもともとの方法ではなかったはずである。中下に手足の経脈を配した文章は,『太素』では篇末に在るし,『素問』でさえ実は宋改の際に移動させたと新校正は告白している。つまり,実は後人による解釈あるいは工夫のひとつではないかと思われる。どうして手足に移したのか。これには、臨床での都合が関わってる。古代の患者は医者よりも目上であることが多かった。王侯貴族にむかって、いきなり胸を出せ腹を見せろとは言いにくかろう。針具も今のものよりも粗大であった。五蔵の付近への施術には危険も伴ったろう。そこでそれらを回避する方法を求めて、誰かが偶然にか、あるいは熱心に捜してか、五蔵の異常に際しては、腕踵関節付近に特異点が生じることを発見した。そこで、その特異点の異常を何らかの方法で是正することができれば、躯幹に生じ五蔵に関連づけられた症候も軽減されるのではないかと考えた。また実際にそこそこ以上の実績を達成した。
 原穴を四関に移動させたことの意味は甚大であって,あるいは経脈説が成立するための一大契機であったかも知れない。此処と彼処が連動するのであれば、その間が真空であるわけがない。そこで五蔵と特異点をつなぐモノとして陰経脈が設定され、特異点は五蔵の原穴となった。しかし,馬王堆帛書に於ける五蔵と経脈の関連の薄さ,あるいはまた九針十二原篇の九針の用法がすべて局所施術であることからすると,「四關主治五藏」の認識は意外に新しいのかも知れない。
 また,三部九候診は『霊枢』には無いとか,早期に滅んだとかいうのが常識とされるが,上記のような考え方によれば,もともとは募穴診に近いものであったろうし,原穴診ならば現在でも用いる人は有る。
鬲之原,出于鳩尾,鳩尾一。肓之原,出于脖胦,脖胦一。
 残りの二つの原について,膏とか肓とかの説明は教科書に任せるとして,実は局所を対象にしている。膏の原と肓の原の用法については,四時気篇に記載が有る。邪が大腸に在るときには膏の原(『霊枢』四時気篇では「肓之原」に作るが,誤りのはずである。『太素』は「賁之原」に作り,楊上善注に「賁は,膈であり、膈の原は鳩尾に出る」と言っている。)と巨虚上廉と三里を刺せと言い,邪が小腸に在るときには肓の原と巨虚下廉を取れと言っている。これを邪が大腸あるいは小腸に在る場合の使い分けと考えれば,膏の原は大腸と,肓の原は小腸と関係が深いと言えそうである。大腸に在る場合に胃の下合穴である三里も刺せと言うところからすれば,膏の原は大腸と胃に関わると言うべきかも知れない。いずれにせよ,現場主義と言って良い。
 それでは上腹部と下腹部に在る膏、肓の原は,どうして下肢に移動しなかったのか。おそらくはそこにはすでに府の下合穴が有ったからであろう。そこで上腹部に問題がある場合には鳩尾を取り,下腹部に問題がある場合には脖胦を取って,下肢の下合穴と対にするという定式が成立した。
凡此十二原者,主治五藏六府之有疾者也。
 これは五蔵の十原と膏、肓の原をとりまとめて編集したときのものだろうから,「十二原」で良い。また言い換えれば,膏、肓の原が「六府之有疾者」を主治する。つまり,ここまでに挙げた十二原と篇末の三里および陰陽の陵泉とには,少なくとも編者にとっては,価値に微妙な差は有る。
脹取三陽,飡洩取三陰。
 脹満と飧泄が『霊枢』諸篇にしばしば対挙されることからすれば、ここでも上腹と下腹の主たる症状を挙げたのかもしれない。脹満に上腹の鳩尾を刺し,飧泄に下腹の脖胦を取ると言いたいところである。ただし、そうなると,「三」字には何かの誤りである可能性が出てくる。
 実は四時気篇には飧泄に「三陰之上」と「陰之陵泉」を補うという記述もある。楊上善は三陰の上を関元穴と解しているが,これもあるいは脖胦と解すべきかも知れない。してみると府の原穴と府の下合穴という組み合わせは、腹部の原穴と下肢の合穴という組み合わせまで拡張できそうである。
今夫五藏之有疾也,譬猶刺,猶汚也,猶結也,猶閉也。刺雖久,猶可拔也;汚雖久,猶可雪也;結雖久,猶可解也;閉雖久,猶可决也。或言久疾之不可取者,非其說也。夫善用鍼者,其取疾也,猶拔刺也,猶雪汚也,猶解結也,猶决閉也,疾雖久,猶可畢也。言不可者,未得其術也。
 こういう大げさな文章は、概ね宣伝文句のようなもので、大して実際的な意味は無かろうが,ここでは提唱した五蔵の原穴の威力の宣言である。それにしてもやはり,五蔵の原穴は別格なのである。
刺熱者,如以手探湯;刺寒凊者,如人不欲行。
 ここの針の手技の要諦は,九針十二原篇の冒頭に述べられている気血に対する補写とは異なる。対象が熱であるか寒であるかによって,速刺速抜か徐刺徐抜かを選択する。他の篇にも診断の大枠として,気血の多少ばかりでなく寒熱を考えていることはかなり有る。より原始的とは言われるかも知れないが,捨てたものでもない。
陰有陽疾者,取之下陵三里,正往無殆,氣下乃止,不下復始。
 脹論に「三里而寫,近者一下,遠者三下,毋問虚實,工在疾寫。」とあるのが,頗る似通っている。治療の要点は速やかに瀉すに在り,その目標は足の三里である。また,そこで岐伯は「脹者,皆在於府藏之外,排藏府而郭胸脇,脹皮膚」云々と説明しているが,これと「陰有陽疾」との折り合いはもう一つはっきりしない。
疾高而内者,取之陰之陵泉;疾高而外者,取之陽之陵泉。
 四時気篇の「飧洩には,三陰の上を補い,陰の陵泉を補う」という記載を基として,『明堂』などの主治を考察すると,脹満に陽陵泉,飧泄に陰陵泉という使い分けが成立する可能性は有る。気を下すべき状況で,脹満を外なるもの,飧泄を内なるものの代表とする。そうすると,つまり「脹取三陽,飡洩取三陰。」は,ここと大いに関わっている。
 楊上善は,「太陰第三輸陰陵泉」、「足少陽第三輸陽陵泉」と注するが不可解。「第三」を「第五」の誤りとする人があるが,それにしても大した解決にはならない。先の五蔵の原のところで,「原之脈氣,皆出其第三輸」ということを頻りに言っているが,それと何か関係が有るのだろうとは思う。
 いずれにせよ,少なくとも楊上善は,三里と陰陽の陵泉を別格の,言わば原穴並に扱っている。
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