所謂人迎脈口診は,『霊枢』の終始篇,経脈篇,禁服篇などに見える。篇によって名称は異なるが,脈口、寸口、気口は同じで腕関節部の橈骨動脈の搏動であり,人迎は頚動脈の搏動である。
禁服篇では寸口は内部の状況,人迎は外部の状況を診るもので,両者は同じ一つの身体に起こることとて,ほぼ同じであるべきであるが,春夏には陽を主どる人迎がやや大きく,秋冬には陰を主どる寸口がやや大きいのがまあまあの健康人だと言っている。予後の判定は『霊枢』の五色篇にあって,脈口が陰的な脈であったり,人迎が陽的な脈であるのは凶,脈口が陽的な脈であったり,人迎が陰的な脈であるのは吉と言っている。平衡状態にもどろうとしているのを良しとする。また,脈口が示すのは内部の問題であり,飲食に傷られたのであり,人迎が示すのは外部の問題であり,寒に傷られたのであると言う。
禁服篇にはさらに,人迎と寸口のいずれが他方よりも如何ほど大きいかによって,三陰三陽を弁別し,一方が他方より四倍も大きくなっては死は免れぬと言う。陰陽の理論を応用して判断を詳細にしようとする努力は分かるが,弁別してそれでどうするという記述は無い。なんだか添え物のような気配がある。
禁服篇の主要な内容は,脈状による病状の判断であり,それに対応した治療法が有る。診るべき脈状は盛、虚、緊、代であって,人迎が大きいときには病は外に在り,盛であれば熱であり,虚であれば寒であり,緊であれば痛痺であり,代であれば症状に間歇がある。盛、虚には当然補、瀉を施し,緊には緊張している肌肉に取り,代には血絡を去り投薬もする。また陥下していれば灸をすえる。そして虚実が明白でなければ,経を以てこれを取る。寸口が大きいときには病は中に在り,盛であれば脹満し,寒中して,食が下らないし,虚であれば熱中して,消化便を下し,呼吸が浅く,尿の色も変わる。緊であれば痺となる。代であればやはり痛みに間歇がある。盛、虚には当然補、瀉を施し,緊には先ず刺してから灸をすえ,代には血絡を去り,おそらくはやはり投薬する。陥下していればとにかく灸をすえる。そして虚実が明白でなければ,経を以てこれを取る。「経を以てこれを取る」とは如何なることか。難問であるが,禁服篇の末尾の「大数に曰く」の中には,「経治とは薬を飲ませることであり,また灸刺することであるともいう」とある。あるいはまた,とにかく刺して経過をみろということかも知れない。篇末に再び,大数に曰くとして,病状に応じた治療法を繰り返すことなども,もともとの関心の在りかを暗示しているように思える。三陰三陽を弁別することにはさして価値を置いてなさそうである。
人迎は外を主る 寸口は中を主る
脈状:盛...熱 盛...脹満
虚...寒 寒...泄瀉
緊...痛痺 緊...痺
代 代
治療方針の記述が有る
比較:人迎大于寸口一倍...足少陽 寸口大于人迎一倍...足厥陰
二倍...足太陽 二倍...足少陰
三倍...足陽明 三倍...足太陰
燥が有れば手
治療方針の記述が無い
終始篇では,人迎の一、二、三盛で三陽を弁別し,脈口の一、二、三盛で三陰を弁別して,一方が他方の四倍になっては死は免れないと言う。ここには人迎と脈口の比較は無い。ただ,治療法において,人迎の盛は瀉陽補陰で,用いる経脈は当該の陽経脈およびその裏をなす陰経脈である。寸口の盛は瀉陰補陽で,用いる経脈は当該の陰経脈およびその裏をなす陽経脈である。どれほど瀉すか補すかも,一、二、三盛のいずれかで判断する。比較の記述は無いが,もうあと一歩とは言える。
人迎一盛...足少陽 脈口一盛...足厥陰
二盛...足太陽 二盛...足少陰
三盛...足陽明 三盛...足太陰
燥が有れば手
そもそも比較ではない
治療方針...表裏の経を取って 盛の度合に応じて補瀉を加減
経脈篇は,実は流注と病症が主たる内容であって,脈診は添え物である。治療法も症状から判断して,「盛んなればこれを瀉し,虚なればこれを補し,熱するときはこれを疾くし,寒なればこれを留め,陥下すればこれに灸し,盛ならず虚ならざれば,経を以てこれを取る」と言うまでのことである。脈診については,盛であるときには,例えば陰経脈の実であれば気口のほうが人迎よりも大きくて,如何ほど大きいかは三陰の陰の度合いの違いによって異なる。虚であれば気口のほうがかえって小さい。つまり,しかじかの病の時の脈状はしかじかと言うのであって,しかじかの脈であればしかじかの経脈の病と判断するという訳じゃない。
流注
病症
治療方針:盛・虚・熱・陷下・不盛不虚...必ずしも脈診によらない
脈診 :盛...人迎と寸口を比較して何倍か
陰経脈の場合:人迎<寸口
陽経脈の場合:人迎>寸口
虚...人迎と寸口の大小が逆転
人迎脈口診は,もともとは人体の顕著な搏動を選んで,陽の状態を人迎で,陰の状態を脈口(寸口、気口)で診ようとした方法であると思われる。これを進めて,一方が他方よりどれほど大きいかによって,三陽あるいは三陰に弁別しようとするのは新しい工夫には違いないが,充分な臨床での実績が有ってのことなのか,理論から割り出しただけなのか,実のところいささか疑わしい。また,人迎脈口診では人迎二倍で病は太陽に在り,人迎三倍で病は陽明に在るとするが,一般的には三陽は太陽ということになっている。例えば『素問』陰陽別論では一陽、二陽、三陽などの病が記述されているが,楊上善も王冰も三陽は太陽と解釈している。両者は太陽と陽明とどちらがより多く陽であるか,意見を異にしているようである。そもそも中国の脈診の歴史に比較という観点は乏しい。文献中にたまたま記載されたから後世に残ったけれど,本当は三陰三陽を弁別しようとする人迎脈口診は,少数派による試みであり,また実践に乏しかったのではないかと思う。
人迎と気口の単なる脈状診から切り替えて,上下の二点を押さえればその間に起こっている異常を知ることができるという発想自体は,興味深いところである。三陰三陽の弁別とは違った発展の可能性も有り得たのではないかと思う。後の時代の,人迎と気口を左右の腕関節に持ってくる脈診では,その両端を押さえて間を知るという趣旨も失われてしまうと思う。