『霊枢』経脈篇の、足太陰の脈の是動病に、「得後與氣,則快然如衰」とあって、大便と転失気を得れば、随分と楽に為ると解してきた。
ところが、『太素』巻八の経脈連環では「得後出餘氣,則快然如衰」に作り、楊上善は「穀が胃に入ると、その気は上って営衛と膻中の気となり、後ろには下行して糟粕と倶に下るものが有り、名付けて余気と曰う。余気が糟粕と倶に下らないと、壅して脹と為る。今これを得てこれを洩する、だから心地よく腹はへこんだようになる」といっている。それで、ああなるほど、腹が張って苦しいときに、放屁一発有れば、便秘は解消してなくとも、随分とらくになるものなあ、と感心する。
ところがである。馬王堆の陰陽十一脈灸経の足泰陰の脈には、やはり「得後與氣則快如衰」となっている。やはり、大便が通じるかどうかも気にかけているらしい。
いや、古い文献を得て感動するのもいいけれど、さらに古いものではそうでもないかも知れない。ご用心、ということ。
帝曰:刺微奈何?岐伯曰:按摩勿釋,著鍼勿斥,移氣於不足,神氣乃得復。(『素問』調経論)
ここのところ、『素問攷注』には問題がある。そもそも【識】として、「〔氣〕有餘不足柰何」云々の後に置くが、「移氣於不足、神氣乃得復、帝曰、善、」の直後に移すべきである。その上で、「移氣於不足、馬以為勿推其鍼、使移邪氣於不足而為衰、非、高云、微泄其邪、移氣於不足之處、而補、与王注旨同、當從 新校正引《甲乙》、《太素》無不字、及楊注云、使氣至於踵、於義未允、」には不足がある。本来は、「當從」の下で句を切断するべきである。日本内経医学会のものも、それに基づいた学苑出版社のものも、下に属させて、「新校正に引く『甲乙』、『太素』に不字が無いのに当に従うべし」と読んでいるのは誤り。さらに、確認の為に『素問識』を見ると、「移氣於不足」の項の下にあるのは、高云の内容と、簡按の下に、「新校正引太素甲乙刪不字」、その後に馬云の内容、そして(「不」字を削るのも、気を邪気とする馬説も)「並非」という判定のみである。楊注にどういうとか、妥当とはいえないとする判断とかは無い。高世栻説の「微かにその邪を泄らし、気を不足の所に移して補う」に対する、「當從」という評価も見当たらない。
(通行本の離合真邪論 全元起本には第二巻にも真邪論として重ねて出る)
『太素』では「黄帝問於岐伯曰」で問答が始まるのが三度有る。大きく分けて三つの段落ということだろう。
ものごとには法則というものが有る。人でいうならば、十二経脈である。天地が温和であれば何ということも無いが、寒ければ血はしぶって流れず、暑ければ気はとりとめもなく溢れる。虚邪が入り込めば、河川に風が吹いたようなもので、経脈は動じて、寸口に至って時に大きく時に小さく現れる。三部九候にしたって、突然に変化が有れば、すみやかにその路を遏すべきである。この三部九候云々も、全元起本でともに第一巻に在る決死生篇との関連がおもしろい。
さて、遏といえばつまり泻すべきなのだが、具体的にはどうするのか。患者の吸うのにあわせて鍼を入れ、気の動向とせめぎ合うことなく、静かにじっくりと留め、邪がのさばるのだけは押しとどめ、吸うにあわせて鍼を転じ(回転させ?)、気を得て(鍼尖に邪気を捉まえたと思ったら?)、患者の呼くにあわせて、ゆっくりと鍼を引き抜く。
実際には、不足で補うべきときも有る。どうするか。そのところを揉んだり、推したり、弾いたりして気をはげまし、そのうえで患者が呼くのが終わるのにあわせて鍼を入れ、静かにじっくりと留め、気長に気が集まってくるのを待つ。奪うときよりもなおさら、気が集まるのは術者の思惑通りにはいかない。それを「如待所貴」と表現している。十分に集まったとみたら、患者が吸うのを候って鍼を引き、気が漏れないようにその門を閉じる。
そもそも邪気は最初には絡に在ると考えている。それが絡を去って経に入り、やがて血脈中にやどる。その血脈が波立っている、でも邪が定着してしまったわけではない。そうなる前に、止めて取り去る。出会い頭に衝突するなどということは避けるべきである。これを「其来不可逢」という。邪気の動向をつかみそこねて、邪気をほしいままに暴れさせては真気が脱してしまう。そんなことにあわてるのを、「其往不可追」という。その他にも「不可掛以髮」とか「扣之不発」などとも言う。これらは、『霊枢』九針十二原篇に出る詞である。この篇との関係は興味深い。
改めて補寫とは何かと問われては、邪を攻めると答えている。すみやかに盛血を取り去ってやれば、真気は自ずと回復する。邪というものは新たに客したものであるから、固居するまえに処理すべきなのである。補寫の概念が、現在の教科書的な説明と異なるように思う。第一段の呼吸に合わせて刺抜のが、どうして補瀉でありうるのか。おそらくは、瀉は術者が積極的に奪いにいくべきである。だから、多少の痛みはやむを得ない。だが、補は患者の真気が満ちてくるのを待つべきで、痛みがあってはままならぬ。だから、患者が痛みを感じるのを極度におそれる。
さらに真と邪が合っても、格別の騒ぎになっていないものは、どう候うのかと問われて、三部九候の盛虚を揉んだり撫でたりしてみると答えている。微妙なものであるから、左右上下と比べて判断する。ここに「地以候地,天以候天,人以候人」と言うのも、三部九候診が、もともとは体表でその下に在る器官の状況を診る方法であった傍証にはなると思う。
(通行本の宣明五気篇と血気形志篇)
宣明五気篇の分は、これはもう五行の色代表である。
ただ、五項目づつ挙げていても、むしろ陰陽によるものと考えられるものも有る。陰病は骨に発し、陽病は血に発する。陽病は冬に発し、陰病は夏に発する。(陰病は肉に発するの項は疑問。)邪が陽に入れば狂し、陰に入れば痹となる。邪が陽に入って搏すれば癲となり、邪が陰に入って搏すれば瘖となる。陽が陰に入れば静、陰が陽に出れば怒である。春に秋のような脈であったり、夏に冬のような脈であったり、秋に春のような脈であったり、冬に夏のような脈であったりしては助からない。
血気形志篇の方は、先ず三陰三陽の血気の多少を言い、陰と陽のいずれがそれぞれ表裏を為すかを言う。その表裏は別に常識と同じだから気にすることは無い。(表裏を言うときには手足を言う。多分、手に厥陰と言いたくなくて、心主と言うからだろう。)ただ、ここでも苦しいところが有れば、先ずその血を去って、その上で(気を)補瀉せよといっているのは面白い。また、何故だか少し間を置いて篇末に、三陰三陽を刺すについて、血気を出すとか出すべきでないとかの注意書きが有る。無論、多ければ出してかまわないし、少なければ出ないようにする。三陰三陽の血気の多少そのものの信頼性は分からない。
次いで背兪の一法が有る。脊柱からどれだけ離れるかを言うために、両乳の間をはかって云々はどうでも良いが、上から左右に肺兪、下の左右に心兪、さらに下の左に肝兪、右に脾兪(『太素』では左右が逆?)、さらに下の左右に腎兪と言うのが面白い。左右に肝と脾を配するのと、現今の六部定位脈診で、関の左右に肝と脾を配するのは、何かしら関係するかも知れない。現在は多くが『霊枢』背腧篇のものによっているようだが、再考してみても良いかも知れない。
(通行本で言うところの蔵気法時論 その前半)
五蔵と関わる時と、経脈と、味を説く段が二つ、五蔵の病症と取るべき経脈を説く段が一つある。
五蔵と四季との関係は、現在の常識と同じだから、別にどうということは無い。ただ、それを一日のうちにも置き換えて同じような関係が有ると言う。肝を例にすれば、第二段では、夏に愈、長夏に加(後のまとめの文に拠る)、秋に甚、冬に持(持ちこたえ)、春に起(好転、起床?)である。他の心・脾・肺・腎は、起に夏・長夏・秋・冬をあてて同様に順送りにする。春→夏→長夏→秋→冬を一日に置き換えれば、平旦(明け方)→日中→日昳(午後のやや日が傾いたころ)→下晡(夕方)→夜半となり、季節と同様な病情の変化を予想する。
味の関係はややこしい。大胆すぎるという批判を覚悟して言えば、第二段の泻に用いるべき味、心の甘と脾の苦を入れ替えたい。そうすれば散を欲すれば辛、逆の収を欲すれば酸、軟を欲すれば鹹、逆の堅を欲すれば苦となる。脾に病が在ればいずれにせよ甘を食す。第一段も、鹹を食せば燥くとか、苦を食せば泄すとか、辛を食せば潤うとか、いずれも単純に効能を説くのであって、五行の相生・相剋を考えようとするのは錯覚かも知れない。肝は急を苦しみ、あるいは散を欲するが、ときには収の必要も考慮すべきである。心は緩を苦しみ、あるいは軟を欲するが、ときには堅の必要も考慮すべきである。脾は湿を苦しむ。肺は上逆を苦しみ、あるいは収を欲するが、ときには散の必要も考慮すべきである。腎は燥を苦しみ、あるいは堅を欲するが、ときには軟の必要も考慮すべきである。そして酸には収、苦には泄あるいは堅、甘には緩、辛には潤あるいは収、鹹には燥あるいは軟の効能が有る。
第三段は、五蔵の病情と取るべき経脈の説明である。ただ、心の変病に郄中とか、脾病に太陰・陽明の他に少陰とか、肺病に太陰の他に足太陽の外にして厥陰の内とかを指示するのが面白い。そもそも『霊枢』経脈篇の是動病でさえ、冠したのとは異なる蔵に冠する症状が登場することが有る。心すべきであろう。
(通行本で言うところの三部九候論)
患者を診て、その予後を判断する。具体的な方法としては三部九候診と弾踝診を挙げるが、弾踝診は夾雑物程度の内容しかない。
三部は上中下の三部で、そのそれぞれに三候が有って、合わせて九候である。上部は頭角と口歯と耳目、中部は肺と胸中と心、下部は肝と腎と脾胃を診る。どこで診るか。通行の『素問』では、話の途中に中部と下部を診るべき手足の三陰と手の陽明が述べられているが、その文章は篇末に在ったもので、後代の工夫である可能性が高い。もともとは上部の場合と同様に診るべき対象の近くの拍動に触れていたのだろう。具体的には腧募穴あたりが考えられようか。それら九候のうち、そこだけが小・大・疾・遅・熱・寒・陥などということがあれば、そこに病が在ると考える。一つの身体で、拍動に疾と遅が有るというのは不審だが、古人がそう言うのだからしょうがない。
弾踝診は、左手で踝の上五寸を握り、右手指で内踝を弾き、左手のところまで響いてくるかを診る。響かないようでは脈の断絶が考えられるわけで、予後は良くないとする。その脈を楊上善は足太陰で、胃の気を五蔵にめぐらす脈だと言う。この篇でも胃の気を重視しているから、まあ妥当な説だろう。
篇末の中部と下部を診るべき手足の三陰を指示する文章を、全く評価しないというのではない。それはほとんど『霊枢』九針十二原篇の原穴診に近い。三部九候診を、胴体部に触れなくてもできるように工夫したのであるし、これをさらに突き詰めれば、例えば『難経』十八難の、関を境に陰陽を配して、寸関尺の寸で手、尺で足を診、ひいては寸で心肺、尺で肝腎を診ることにする。それをさらに左右に分けることを思いつけば、ここまで来れば、もう現代の六部定位脈診まで、僅かにほんの一歩である。
そろそろ『素問』を読み返そうとは思うのだけど、現行本で読んだのでは、王冰の、言い換えれば唐代初めの養生偏重の眼鏡を通して読むようで、それは気に入らないので、古くからの体裁じゃないかと思われる全元起本の順に読もうと思う。
唐代初めの養生偏重というのは、つまり養生さえしていれば病気になんか罹らない、という思想に殉じようということでしょう。それはまあ「恬淡虚無なれば、真気これに従い、精神うちに守る、病いずこより来たらん」というのは上々な宣言で、一般人が書軸にでもしたてて床の間に掛けるには良いだろうけど、鍼と艾を手に、さてこの病苦を如何せんというときには、如何に何でも迂遠じゃないか。
全元起本の順に読もうと言っても、現行本の『素問』の新校正を見て分かるのは、それぞれの文章が全元起本のどの巻に在ったかまでであって、各巻の中で先後は分からない。まあ、他にどうしようも無いだろうから、全本の第一巻に在ったことになっている篇を、現行本に登場する順に見ていこうと思う。そこで、先ず平人気象論。
旧本素問・(現行本で言うところの)平人気象論
主な内容は脈診である。
最初の部分は脈拍の速遅による。脈拍数には自ずから標準が有る。速すぎても遅すぎても良くない。速遅が不規則なのも良くない。当たり前の話である。しかし、脈診の初めは、このような素朴な観察であったかも知れないことは、記憶しておいた方が良い。この脈は、何処で診るのか。まあ、診やすい寸口部で良かろう。大体が、身体のあちこちで脈拍数が異なるということは無いだろう。(古人は有ると考えていたかも知れない。)
次いで、季節の脈状をいう。この脈は、古い注釈、例えば『太素』の楊上善注などでは人迎で診る。外からの気象の影響は陽である人迎で診るという原則を提示した篇があるのだから、これはまあ良い。季節に応じた脈を拍つといっても、基本はゆったり穏やかであるべきで、それを胃の気が有ると表現する。そこに季節の特徴として、春・夏・長夏・秋・冬の弦・鉤・弱・毛・石が僅かに現れる。現れ方が甚だしければ病であり、季節と相反する特徴が現れれば、その季節になって病むだろうし、相反する特徴が甚だしければ、今すぐにでも病む。長夏という季節を設定したのでややこしいけれど、もともとは四季で、相反する季節の特徴が出ること、すなわち季節の変化に反する陰陽の変化を嫌うのだろう。
後文の、太陽脈至とか、少陽脈至とか、陽明脈至とかも、季節の移り変わりに応じて脈状は変化することを言っているのだと思う。ただ、一年六季である。三陰三陽であるべき記事の三陰を欠いている。
弦・鉤・弱・毛・石という特徴と、それが目立ったときに病む蔵は、肝・心・脾・肺・腎で、この関係は、篇末には五蔵の脈診として再登場する。季節の移り変わりに応じて脈状が変化するという記事の方が、恐らくは原始であろうが、各脈状の描写はより具体的になっており、より参考にはなる。また、季節の脈を人迎で診ていたのが、五蔵の脈を寸口で診るという具合に変化しているのではないか。総じて、脈診には寸口部の脈動を利用すればいい、という方向へまとまりつつあるように思う。
この季節の移り変わりの脈状と、五蔵の脈状の間に雑多な記事が有る。
先ず、左の乳の下に拍動が有るのは当然である。中で心臓が拍っている。胃の大絡として、虚里の動と呼ぶ。あまりに強く速ければ胃実を疑う。横にそれるようなら積が有るのではと診る。絶えて拍たないようでは死ぬだろうし、拍動が衣服の上からも分かるようでは危険な状態である。
次いで寸口の脈の状態から、あれかこれかを判断するという記事が有り、「寸口」の二字を欠く記事が続く。「寸口」のとわざわざいうのは、上の季節に応じた「人迎」脈の変化と対のつもりではないかと思われるし、その後の脈とだけいう記事と二重になっているのは、記事の出所が異なることではないかと疑わせる。上には「寸口の脈が沈んで堅ければ、病は中に在り、寸口の脈が浮いて盛んであれば、病は外に在る」と記し、下には「脈が盛んで滑で堅ければ、病は外に在り、脈が小実で堅ければ、病は内に在る」と記したのが、同一人物であったとしたら、いかになんでも整理不足が甚だしい。
さらに、尺膚の状態と寸口の脈状を合わせて判断していると思しい記事がある。脈診と尺膚診を等価値に考えていた時期も想定できるのではないか。ここでは双方を利用している。
五蔵の脈が、特定の十干の日に現れると死ぬなどという記事は、評価に値しない。
臂に青脈が有れば脱血であるとか、水とか疸とかにはどうした症状が出るとかいう記事は、他とそぐわない。どこかから紛れ込んだのではないか。
そうした中に、手の少陰の脈動が甚だしいのは、妊娠の脈というのが有る。これに関しては、師匠や友人の手柄話も多いが、考えてみれば、神門の脈と即断して可いのだろうか。これが言い出されのが、手の陰経脈が二条であったころ(『霊枢』九針十二原篇の原穴は二条であったころの説)か、三条になってから(『霊枢』経脈篇には手厥陰が加わっている)かは、厳密には分からない。
後の方で、脈が四時にそぐわないのは難治とが、人は水穀を本にするのだから胃の気が重要とか、改めていうのも、この篇の未整理を思わせる。
『諸病源候論』巻第三十二の癰疽諸病上の癰候の末尾に、「又云人汗入諸食中食之則作丁瘡癰癤也」とあります。
で、対校していて、「汗」が「汙」になっている写本が見つかったら、麗々しくそれを記すべきなんですか。筆書きで、はねるか、はねないかなんて、ほとんど書き手の気まぐれみたいなんですが。読み手は、文脈から判断するしかないじゃないですか。はねる、はねないじゃないけれど、巳・已・己なんて、つくの、つかないのって、漢字のテストには出るかも知れんが、古籍では版本でもほとんどみな巳じゃなかったっけ。
それは「汙」になっている本を見つけたら、ちゃんとメモしておくべきだとは思いますよ。だって人の汗って、うっかり口にしたら丁瘡癰癤になっちゃうほど、危険なものなんですか。そりゃまあ、不潔には違いないけれど。実は「汙」で、だから「汚」の異体字で、だから「人汚」は例えば人糞なんだったら、そりゃまあかなり危険かも知れない。汗だって排泄物だし、汚いには違いないから、五十歩百歩だけれど、この五十歩は結構大きいんでないの。
で、つまり「汗、一本作汙」と注記することもさることながら、「汙」は「汚」の異体字であると、教えてくれないと価値が相当に下がるんでないの、ということ。逆に、発汗すれば風の初期は治るとかいう文章でだったら、汙に作る本が有るなんてのは余計なことなんじゃないの、ということ。汙に見えるけれど、はねているのは間違いで、汗だよという注記は、あるいは有効かも知れないから、やはりややこしい。
人民衛生出版社『諸病源候論校注』(丁光迪主編 1992年)にも、「汚」じゃないかなんて記事は有りません。この本、随分と異体字を気にかけて、50頁ちかい表を載せてるんですがね。
慶安本『難経集註』の注文は経文より一字下げで、二人目以降の注者の名の上には○を附して混乱しないように工夫がされている。ところが実は一難の「○呂曰又動陽谿足厥陰動人迎○楊曰按人迎乃足陽明脉非足厥陰也○呂曰厥陰動人迎誤矣人迎通候五藏之氣非獨因厥陰而動也按厥陰脉動於囘骨焉」、この後の方の○は無いほうが善い。楊氏が呂広の説を否定して、「呂は厥陰が人迎で動じているなどというが誤りである」云々といっている。で、この無いほうが善い○は、最近カラーで影印された旧鈔本にも有る。となると、『経籍訪古志』の後註には「体式は慶安本と異なっている」というけれど、単に抄者が改めただけ、という可能性も有るんじゃなかろうか。
「譯」の略字「訳」は,草書を楷化したものと思っていたけれど,そうでもないかも知れない。杉本つとむさんの説明では,「釋迦」を「尺迦」と書いた仏典があるそうです。シャカというのはもともと中国語ではないのですから,どちらでもよいようなものですが,「釋迦」が普通の書き方として定着して,でも「尺迦」も仏典に有るとなると,「尺迦」にも一種の権威が生まれます。そこで,他の場面での「釋」の代わりにも「尺」を用いる習慣が生れました。そしてやがて,「釋」の声符「睪」の代わりに「尺」を用いることがはじまります。「采に従い睪の声」が,「采に従い尺の声」に変わったわけです。それがさらに他の「睪」を声符とする文字にも敷延されて,「駅」とか「訳」とかいう文字が用いられるようになった。
どうしてこんなことを調べ始めたかというと,『難経集註 旧鈔本』に『皇甫子安脉訳』とか『華佗脉訳』が登場すると見て,校勘表にわざわざ慶安本は「訳」を「訣」に作るといっているからです。そもそも私には先の「訳」だという文字は「訣」に見えます。でも後の文字の右部分は,確かに「尺寸」などと書いているところの「尺」と全く同じです。でもね,「訳」なんて略字はいつころから有るんだろうか,当時は無かったんじゃないか,とね,調べ始めて,でもそれは突き止められませんでした。
で,鈔者が言偏に尺の字だと見て摸写して「訳」と書いたとして,それが「譯」の略字であることを認識してなかったとしたら,校勘ではどう処理するのが本当なんだろう。