決死生の大概
- 医経
- by shenquzhai
- 2011/05/16
(通行本で言うところの三部九候論)
患者を診て、その予後を判断する。具体的な方法としては三部九候診と弾踝診を挙げるが、弾踝診は夾雑物程度の内容しかない。
三部は上中下の三部で、そのそれぞれに三候が有って、合わせて九候である。上部は頭角と口歯と耳目、中部は肺と胸中と心、下部は肝と腎と脾胃を診る。どこで診るか。通行の『素問』では、話の途中に中部と下部を診るべき手足の三陰と手の陽明が述べられているが、その文章は篇末に在ったもので、後代の工夫である可能性が高い。もともとは上部の場合と同様に診るべき対象の近くの拍動に触れていたのだろう。具体的には腧募穴あたりが考えられようか。それら九候のうち、そこだけが小・大・疾・遅・熱・寒・陥などということがあれば、そこに病が在ると考える。一つの身体で、拍動に疾と遅が有るというのは不審だが、古人がそう言うのだからしょうがない。
弾踝診は、左手で踝の上五寸を握り、右手指で内踝を弾き、左手のところまで響いてくるかを診る。響かないようでは脈の断絶が考えられるわけで、予後は良くないとする。その脈を楊上善は足太陰で、胃の気を五蔵にめぐらす脈だと言う。この篇でも胃の気を重視しているから、まあ妥当な説だろう。
篇末の中部と下部を診るべき手足の三陰を指示する文章を、全く評価しないというのではない。それはほとんど『霊枢』九針十二原篇の原穴診に近い。三部九候診を、胴体部に触れなくてもできるように工夫したのであるし、これをさらに突き詰めれば、例えば『難経』十八難の、関を境に陰陽を配して、寸関尺の寸で手、尺で足を診、ひいては寸で心肺、尺で肝腎を診ることにする。それをさらに左右に分けることを思いつけば、ここまで来れば、もう現代の六部定位脈診まで、僅かにほんの一歩である。
患者を診て、その予後を判断する。具体的な方法としては三部九候診と弾踝診を挙げるが、弾踝診は夾雑物程度の内容しかない。
三部は上中下の三部で、そのそれぞれに三候が有って、合わせて九候である。上部は頭角と口歯と耳目、中部は肺と胸中と心、下部は肝と腎と脾胃を診る。どこで診るか。通行の『素問』では、話の途中に中部と下部を診るべき手足の三陰と手の陽明が述べられているが、その文章は篇末に在ったもので、後代の工夫である可能性が高い。もともとは上部の場合と同様に診るべき対象の近くの拍動に触れていたのだろう。具体的には腧募穴あたりが考えられようか。それら九候のうち、そこだけが小・大・疾・遅・熱・寒・陥などということがあれば、そこに病が在ると考える。一つの身体で、拍動に疾と遅が有るというのは不審だが、古人がそう言うのだからしょうがない。
弾踝診は、左手で踝の上五寸を握り、右手指で内踝を弾き、左手のところまで響いてくるかを診る。響かないようでは脈の断絶が考えられるわけで、予後は良くないとする。その脈を楊上善は足太陰で、胃の気を五蔵にめぐらす脈だと言う。この篇でも胃の気を重視しているから、まあ妥当な説だろう。
篇末の中部と下部を診るべき手足の三陰を指示する文章を、全く評価しないというのではない。それはほとんど『霊枢』九針十二原篇の原穴診に近い。三部九候診を、胴体部に触れなくてもできるように工夫したのであるし、これをさらに突き詰めれば、例えば『難経』十八難の、関を境に陰陽を配して、寸関尺の寸で手、尺で足を診、ひいては寸で心肺、尺で肝腎を診ることにする。それをさらに左右に分けることを思いつけば、ここまで来れば、もう現代の六部定位脈診まで、僅かにほんの一歩である。
Comments
五藏藏神,□□藏□□□□□□及膀胱並藏水穀,不同三膲无形,故□□□唯□□□□□□,故不入四藏。又,頭角一,口齒二,耳目三,□□□,並有其形,各藏其氣,故曰形藏,并五神藏,合爲九藏,以爲九野也。
「耳目四」の後の三空格は、おそらくは「胸中四」だろう。
さらに推理を重ねて読み解けば、六府のうち、三焦以外は水穀を蔵して(胆は汁を蔵して?)、一応は形が有る。ただ、何らかの理由で、ここの四蔵には数えがたい。ここで現に九候のうちに挙げられているものに形が有り、それぞれの気を蔵するのには及ばない。頭角、口歯、耳目、胸中が形気を蔵するとして形蔵四と呼び、神気を蔵する肝、腎、脾胃、肺、心の神蔵五と合わせて、九蔵と為す、というようなことではないか。