日本赤十字看護学会

学会出版物・報告

伝えたい看護、創りたい看護

赤十字の看護を語る-伝えたい看護、創りたい看護-
第9回日本赤十字看護学会学術集会 交流セッション
主催:日本赤十字看護学会臨床看護実践開発事業委員会

本委員会(“伝えたい看護の技”委員会)は、去る6月15日(日)、第9回日本赤十字看護学会学術集会の交流セッションに参加しました。参加者のアンケート結果から好評を得ましたので、会員の皆様にも是非ご覧になっていただきたく、HPで公開することにしました。

今回のテーマは、「赤十字の看護を語る-伝えたい看護、創りたい看護」です。赤十字の看護に長年携わり、看護の技を培い、その技の効果と継承について、現在それぞれの立場でご活躍されている方々から情熱的に語ってくださいました。

司会の川嶋みどり先生(日本赤十字看護大学学部長)には、この会の趣旨と概要を紹介していただきました。話題提供者は、藤井淑子様(滋賀県看護協会会長)、山本富美子様(元日本赤十字社医療センター看護師長)、今野康子様(日本赤十字社医療センター看護師)の3名の方々です。

川嶋みどり先生

司会:川嶋みどり先生

第9回学術集会:交流セッション

左から、今野康子さん、山本富美子さん、藤井淑子さん

今回の内容をご覧になった方々からのご感想やご意見もお待ちしています。連絡先は、“伝えたい看護の技”掲示版に自由にご記載下さるか、又は下記の本委員会事務局にお知らせ下さい。皆様からの情報をお待ちしています。

臨床看護実践開発事業委員会 委員長 二ツ森 栄子

臨床看護実践開発事業委員会

〒090―0011 北海道北見市曙町664番地の1 日本赤十字北海道看護大学
日本赤十字看護学会 臨床看護実践開発事業委員会事務局 山本 美紀宛

話題提供者

  • 司会挨拶 川嶋みどり先生(日本赤十字看護大学)
    こちら
  • 藤井淑子さん(滋賀県看護協会)
    こちら
  • 山本富美子さん(元 日本赤十字社医療センター)
    こちら
  • 今野康子さん(日本赤十字社医療センター)
    こちら

司会挨拶 川嶋みどり(日本赤十字看護大学)

ご紹介いただきました川嶋でございます。「赤十字の看護を語る、伝えたい看護・つくりたい看護」の交流セッションにようこそおいでくださいました。講演集の57ページにありますように主催は臨床看護実践開発事業委員会、通称“伝えたい看護の技”委員会です。
申すまでもなく赤十字の看護の基本原理は、看護の本質そのものであり、看護師たちは、時代と社会のニーズに答えて赤十字看護の伝統を継承・発展させ、臨床知に基づく判断力と実践力を鍛えて、いつでもどこでも平時や災害救護の別なく、ケアリングの専門職として働きたいと願っていると思います。
そこで、“伝えたい看護の技”委員会といたしましても、赤十字の歴史の中で先輩たちが実践を通して得た知や技、看護の価値観を、現代に生きる看護師として継承・発展させるとともに、時代に相応しい改革を経て新たな赤十字の看護を創るということを目ざして活動をしております。そして、優れた実践の根拠を探る研究により診療報酬に反映させるような内容にしたいとの問題意識を持っています。そのような活動を通して、現在の語りを忘れた職場環境を再生して、看護の喜びを共有するように活性化ができれば、この委員会の目的は達成されるのではないでしょうか。

たとえば、戦争中、従軍された大先輩の看護師が、赤痢やコレラなどで下痢がひどく脱水症状で重症になり、回復期に向かっても食欲が全くない方に対して、何とか食べる気を引き出そうと苦労された話しをして下さいました。当時は輸液の手段がないのですから、経口摂取は重要な看護の基本でもあったのです。そこで、倉庫の片隅にあったほんの少しのそうめんの2筋か3筋を茹でてお袋の味を再現したり、庭のヨメナやつくしを摘んで食膳にのせたりして食べるきっかけをつくったというのです。つまり食べてみようかなとの思いにつながる演出をしたのです。この懐かしい味の探索から食欲を引き出すきっかけをつくったという語りを学生時代に聞いて、これに、私たちは【きっかけ食】という名前を付けました。その後、食欲のない患者さんに出会うと、何かちょっとでも食べることができれば、それがきっかけとなって食欲を生み出すということをずっと積み上げてきました。このような優れた伝統を、赤十字に働くみんなで考えようではありませんか。

フローレンスナイチンゲールは「3時間ごとに茶碗一杯の食物を与えるように指示を受けたが、患者の胃がそれを受け付けないような場合には、毎時間ごとに大さじ一杯ずつそれを与え、それもだめなら15分おきに茶さじ一杯ずつ与えてみるとよい」と看護覚え書きに書いています。これはナイチンゲールの経験知といえます。経験知であるからといって根拠がないなどとは決して言えません。何故なら、非常に進んだ治療法である脳低温療法について柳田邦夫さんが書かれた「脳治療革命の朝」の頁にその示唆があります。その中の、脳低温療法のリーダーである日大の林教授のエピソードです。とかくIVHが入っていると安心しがちだが、これは血管経由の栄養補給であって、胃腸は全く働いていないこと、つまり、消化器は全く働いていないということでそのために免疫機能を低下させてしまっていることに気づかれた教授は、何とか免疫力を高めるために副交感神経を働かせなくてはいけないと、エンシュアリキットの注腸を試みたというのです。まさにナイチンゲールが、口から何かを入れることによって、自然治癒力を高めるというあの経験知にぴったり重なります。つまり、先人たちの実践知を掘り起こすことで現代の新知識からその根拠や可能性への示唆を見いだすことさえできるのです。

そこで、今日のテーマにもありますように、語ることと伝えることと創ること3つの大きなキーワードを思いだしながら考えて見ましょう。先ず、どのように創るかという場合忘れてならないのは、どのような未熟な時代の経験でも真実は真実ということです。そして行為を喜びに変えるということがすごく大事だと思います。また、看護が実践の学問であるということを信じるからこそ、私たちは対象から真摯に学び、対象に還元できるものを目指すためにひたすら実践をする、実践を積み上げていくんだと思うのです。つまり、学者が理論化するのを待つのではなくて、実践家が実践の場で実践をすることによって、その裏付けとなる根拠を明らかにしていく。そして、それを仮説にして研究を行い、結果を実践で検証していく。これは時間もかかりますが、実践家の数によって多くを積み上げて、理論を構築していくのです。実践の学であるという点からそうなんですね。そこで先ずは実践を記述する。記述に当たっては、経験を逃さずにその状況を再現し得る記述が必要です。日常的には、書く前に語るということもあるでしょう。そういう意味では語ることは非常に重要です。こうして、優れた経験とそこから導かれた知識から経験則が引き出されるということになります。

経験の意味について、私が好きな言葉をご紹介しましょう。「なぜそうなるかはわからないが、注意深く経験を積み重ね観察を積み重ねていけば、こういうときにはこうなる、こうすればこうなるということが次第に分かってくる。なぜそうなるかは今の科学では分からない、科学論では分からない。しかし、経験的にみてこう言えるとなったとき、一体それはどうしてだろうと新しい科学的探究が始まっていく。科学の網の目からもれたものを技術はつかんでいく。経験によってつかんでいく。技術に真の創造性を与えるもの、それは経験である」(山田慶児)。おわかりのように、実践がいかに大事であるかということです。実践家の多くは、実践していても、「この実践大したものじゃないのよ、言うほどじゃないのよ」と言いがちですが、実践を積み上げて経験の中に潜む知を語って欲しいと思います。
経験知というのは対象との能動的な関わりによって得た対象の反応と自らの実践の因果関係を知ることを言います。それが明らかになりますと経験則が明らかになって、実践における客観的法則性が明らかになるのです。詳しくは時間の都合で失礼します。

何はさておいても、看護ってすごいんだ、看護って価値があるものなのだというこの看護の尊さ、看護の価値づけを第一にすることが必要です。伝えなければならない看護の価値を認識し、看護学は技術の体系であることを前提にしながら、今の実践や経験を積み重ねていく必要があると思います。そして、良いものへの同意としての認識、そこで模倣が始まります。ああいう風にやったら良いんだわ、上手くいくんだわということを模倣して覚えて行く。つまり、形から型、そしてわざの本質にいくわけです。現象、実態、本質、その流れを汲みながら色々なものを習得していくのです。

さっきも申しましたように、技術は出発当初から科学的に分からない要素を含んでいます。経験の持つ本質的で創造的な意味を理解して、科学的には分からないけれども、経験的にみてこういえる、それはなぜかから科学的探究が始まるのです。日本赤十字看護学会としては、多くの先輩たちが積みあげてきたたくさんの財産があるわけですから、その財産の一つ一つを丁寧に掘り起こしながら、そこからエビデンスの研究、先ずは経験的なエビデンスでもいいんです。それを、診療報酬にまで反映させていく意気込みでやっていかなければ、なかなか看護が社会的に評価されないんじゃないかなと思います。さらに、経験の蓄積を、知にして保存することによって意識化され、意識化されたものは言葉で語ることができますから、先ず語り、記述して行きます。その際に大事なことはその場面がありありと再現され、体験を共有する。これは、私のやり方なんですが、その場面を映像化する、イメージ化して記憶にインプットします。その時に関わった人、出来事、時間の流れを全部総合して保存していくことによっていつでも、ビデオのように再生して、あの時はあぁだった、このときはこうだったといえるんじゃないかなと思います。このようなことを常に意識しながら、自分が受け取るだけじゃなくて今度は他者に伝えることも可能になってきます。

さて、それでは、本日の話題提供者をご紹介します。藤井淑子さんと山本富美子さんと今野康子さんの3名の方です。藤井さんは元大津赤十字病院の看護部長をしていらっしゃいまして、今現在、滋賀県看護協会長です。昨年、お招きを受けて滋賀県看護協会にうかがったときに、10分か15分の休憩時間に、お茶を飲みながら藤井さんとお話していたら、溢れるように学生時代のお話をして下さったんです。赤十字の看護の伝統をどうやって伝えていったら良いだろうかとか、経験知をどうやって学んでいったらよいだろうかっていう問題意識を持っている最中でしたので、もう引き付けられて伺ってしまったんですけども、溢れるように看護を語ってくださいまして、今日の演者につながっていくわけです。

今日は、藤井さんが卒業して6ヶ月たったばっかりの頃、ある師長さんとの出会いでどれだけ多くのことを学ばれたかということと、看護環境をいかに整えるかということ、システマティックに整えるかということがいかに大切かっていうことについてお話してくださいますし、それから医師の意識を変えるようなこだわりのケアがとても重要だっていうことを話してくださる予定です。
山本富美子さんは元日本赤十字医療センターの師長さんでいらっしゃいました。山本さんは、センターを退職されてからも休む間もなく、傍で見ていても感心するくらいボランタリーなお仕事を沢山していらっしゃいます。今日、皆さまにお配りした金田師長さんの資料がありますが、つい5月21日に亡くなったばかりの金田さんは災害救護の、何て言ったらいいんでしょう、本当にすごい方で、あの山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」の中にも金田さんのことが出てきます。本当に災害っていうとすっと彼女の姿が眼に浮かぶんですが、その金田さんの遺言って言うくらい貴重な語りを、山本さんが変わって話して下さることになっています。その前に山本さんご自身がずっと臨床にいらっしゃいましたので、当時から五感を使ったケア、感性を鍛えることって事を先輩から聞いてきて、ご自分で体験された事例をもとにお話をしてくださることになっています。
それから今野康子さんはちょっとまだお若いんですけど、と言ったら若くないんじゃないかとか、いろいろな説もあるんですが若い方です。看護大学を卒業してもう14年間経験があるってことはすごい中堅ですけども、今、日赤医療センターの係長さんをしてらっしゃいまして、糖尿病の認定看護師もしていらっしゃいますが、彼女は先輩から色々教えてもらったことをどのように語り伝えるか、という今日のほんとに伝えるということのいい知恵というか方法を語ってくださるだろうと思います。

お一人お一人についてはその場その場ではご紹介いたしませんので、次々と続けて15分ずつくらいプレゼンテーションをしていただきたいと思います。それでは藤井さんよろしくお願いいたします。

話題提供者

藤井淑子   滋賀県看護協会

こんにちは。藤井でございます。今日、このような機会を与えていただいてとても嬉しく思っています。でも一方ではとても緊張していて、本当にお役が果たせるかどうかとても心配なんですけれども。

丁度私が学生、私はあまり看護師になろうという強い気持ちでなったのではなくて、もう少しなんか勉強したいなっていう思いから看護学校に入った人間でした。そして学び始めた看護学生の時代は、大変な看護の労働条件の改善に向けての労働運動が起こっておりました。ですから入学直後から夜になると、自治総会があって、明日の実習は病院でするかしないかというような議論を経験してまいりました。病院の中は、落ち着かない雰囲気でしたが、そうした中でもモデル病棟というのがあって、そこで看護はしっかりとされていたのですけど、私自身にみる目がなくて、そう看護師になりたいということのないままなんとなく卒業をしました。

私的な都合がありまして、6ヶ月くらいして小さい田舎の病院に転勤しました。150床くらいの病院でした。そこに入ったときに初めて私は、「教科書に載っている通りの看護が行われている」、それは朝のモーニングケアから始まって、夕のイブニングケア、夏のイブニングケアには熱いお湯でバックケアをする。そしていろんなものには基準がきっちりと決まっていて、全員がその基準・手順通りに動いておられるので、新入生でもスムーズにその技術が教えられるというような体験をしました。
そのころ院長先生が病気になられて、そこで私は一人の師長さんに出会いました。その時の経験がものすごく、看護ってこんなに素晴らしいものだと教えていただきました。そのことを今日は最初にお話したいと思います。

学生時代に看護は手と目で護るということは、何度も何度も聞かされてはいましたが、そのことが実感として私の中にはまだ実感としてはありませんでした。ところが、新しく勤務したところでは基準・手順が、使用する物品が教科通り整えられみんな当たり前に基準通り日々のケアが行われている中で自然にその動きに沿って看護が進められるようになったとき出会ったのが、この院長先生の看護でした。丁度ここにあげさせているような状況であったので、もう手術も出来ないという段階でしたので、ただ単に胆汁を腸内に流出するというだけの手術を受けられた術後の2週間ばかりついたときに、一緒に行きました師長から、その場で教えていただいた看護の技術なのです。
まず黄疸がありますので、非常に皮膚掻痒がきつい。それからお年寄りなので皮膚もとっても、こうちょっと掻けば出血を起こす、そんな状態の先生を「見てるのよ、見てるのよ」って言われるんですね。何をかって思ってじっと見ていると、先生の手がこう痒いところへ伸びてくるなって思うと、その瞬間にですね、冷たいお絞りか熱いお絞りかが、痒いところに交互にピタッとあたるんです。なんかこれ不思議って思うくらい。どうしたらできるのか。そのために24時間のうち16時間はその師長さんが看護されるのですが、残りの8時間は私が担当するわけですから、一生懸命それを覚えなさいって言われるんですね。そして「見てるの、見てるの」って言われて、そのうちになんとなく、今だということに気づかされる。

それにまた、痰が術後ですので、出てきます、そうすると咳が出る痰を出すために「先生、大きな咳しちゃだめですよ。あんた聞くの、聞くの」って言われるんですね。聴診器も何も無い中でじっと聞いていると、「今、痰はこの辺にあるでしょ。この痰は一気に出したら痛い。だから、先生、静かにこほん、こほんって咳をしましょう」って言われるんですね。そして、この辺まで来ると音が少し違ってきます。その音の違いを聞いたところで「さぁ咳をします、大きくするのよ、先生。1,2,3でするのよ」って言って、手を傷口のところにぱっと当てて、1,2,3って咳を促し痰を取る。そのことはなぜかというと老人の皮膚に大きく縫合された両サイドに手を当て、咳をすると腹圧がかかってびりっと皮膚がやぶけるんです。それをやぶかせないために押さえながら咳と一緒ににゅっと皮膚を寄せるんですね。そして、そのやぶれを防ぐ。
そうした合間には、「そこに寝なさいっと」いわれて、うつぶせに寝ると、今のつぼ押しじゃないですけど、「ここを押さえるでしょ、ここを押さえるでしょ、楽でしょ」と。「それを仰向けになってごらんなさい。指をこういう風に背中に入れると重みで、こうマッサージをしているのと同じような気持ちよさがあるのよ。その手を入れるときには皮膚が弱っているから傷つけないように、腰の少しくびれのあるところの、寝巻きを持ち上げて、そこから手をすべりこませなさい。そして、両手を入れる。」と術後筋肉が弛緩して寝ているそのため背中は空気が通らず熱くて仕方がないから、まず手のひらを入れたところへ、「ふぅーっ」とこういう風に息を吹き込むんですね。そして、腰の辺りからその辺に指を立てる。そうするとこれは圧迫したのと同じことになると言いながら、わたしをモデルにして、「ここをこうするといいでしょ、いいでしょ、」と言いながら教えていただきました。

そのことで私は看護って、こんな注射や、薬で取れない苦痛・痛み、そういうものが手を使うことで軽減できるんだっていうことをそこで教えられました。それから、私は看護ってこんなすごいことないんだ、自分でできるんだっていうことで、自分の手を使うこと、看護とはとても奥深いものだと実感できるようになりました。それ以降私は患者さんに、時には病気になった仲間のお見舞いに行きますと、ちょっと、腰のところにすっと手を入れて教えられたことを試みるようになりました。そうこうしていると退院した人から「あぁーあの時は楽だった。何よりもあれが1番忘れられない」っていう風に言っていただけるような、そんな技術を教えていただきました。
そして、そこで3年半勤務いたしました。その後学生時代なんで先輩の看護婦さんたちはストの時には一生懸命、また現場へ帰っていったら、あんなに疲れも見せず一生懸命看護ができるんだろう。すごいエネルギーだったな、あのエネルギーはなんだろうっていう風なことを考えました。それが知りたいと思い、3年半後に赤十字病院に戻ってまいりました。

その頃病院は新しく建てかえられ、争議も落ち着いていました。そこで出会った先輩の師長さんからは看護師としての姿勢を教えていただきました。整形外科が外科から独立して整形外科として開設されて3年か4年たったばかりでした。それは昭和43年看護学校のカリキュラムの第1回の改正が行われたときで、それまでは整形外科外来の実習も行っていましたが、改正後は行かなくなったんですね。そうしたら、その整形外科部長が、専門学校のほうに異動なったばかりの、私を呼びつけて、「なんでお前らは風呂屋の三助みたいにバケツばっかり持って、清拭、清拭と何を教えてるんだ。整形の大事な外来の実習もさせずに」って言われたんです。ところが、その整形外科病棟を担当しておられた師長さんは、絶対に毎日バックケアだけはと頑張られました。医師から何を言われても、看護師達は毎日のバックケアを続けました。「肢位がくずれたら、」「感染したらどうする」などとその当時医師からの反対がありました。そのうちに褥瘡が発生しなくなった。感染もないそういうことの積み重ねでいつの間にか、朝一番に難しい術後の患者さんのバックケアには、主治医が一緒に付かれるようになりました。
あと、そうですね、私が看護学校の教師になりましてから10年ほどたってからですけど、その整形外科部長が院長になられました。その後病院の建て替えが始まり、看護部に入った私は、看護師がたくさんいるということで看護師募集に全国を回りましたが、その募集に院長がついてきて、他の方たちに「うちの看護婦さんは褥瘡をつくらへんのやで、いい看護するんやで」と自慢げに話されるように変わられました。これを聞いて私は、看護が実際に実践していくことにより医師も看護を認めざるを得ない、変わっていってもらえる、本当に理解してもらえるということを実感しました。

同じようなことで、もう一人印象的なのが、外科から内科に変わられた医師が外科で受け持っておられた脳出血後の患者さんを、そのまま主治医として内科病棟へ、一緒に移って来られました。その時患者さんは経管栄養と点滴注射、排泄はバルーンが入っていて、声をかけても反応がありませんでした。ところがそこの病棟ではどのような患者さんにも声かけをしてから行為をしましょうという病棟で、意識の無い方にも皆が言葉をかけてから看護行為をしていました。患者さんの生活は私どもが守るということで、まずバルーンを抜きたいと主治医と何度かやりとりをして取り外し、時間ごとの排泄が出来ました。患者さんに声をかけて行為をすると言うことは、患者を良く観ることに繋がります「じーっと、じーっと、観るのよ」と。同じように声をかけ患者さんをよく観るということをしているうちに、しばらくしてその患者さんの眼がかすかに動く、声をかけると眼が動くと言うことに皆が気づき、これは何か分かっているんじゃないかということで、主治医を説得し耳鼻科に診ていただきましたら、大きな耳垢がつまっていて、耳が十分に聞こえていなかった。本当は聞こえるのに聞こえていなかった。聞こえるようになってからの患者さんの回復は、めざましく少しずつお口から食べ物を進めていくと、徐々に経口摂取が出来、最初は発語も無くはっきりした反応もされなかった方が、6ヵ月後には「おはようございます」と入室するとしっかりと機能の残っている右手で、自分のベッド周囲のカーテンを棒でもってすっと開けていかれる。そして、名札の漢字で書いてある名前を読まれるまでになって、8ヵ月後には退院をなさいました。
これまで『もし経口摂取が出来なくて栄養状態が悪くなったら、誰が責任を持つ?』『バルーンを抜去して感染すれば?』などと何かと反対された主治医が「僕ができないことを看護婦さんはする」とそれ以後「もうこれ以上僕は治療としてすることないから、看護婦さんにお任せします」というまでに変わられました。

この2人の医師の変化を通して、看護学生のとき「医師と看護師は車の両輪」「看護の独自業務・自立性等々」教えられたことが、先輩の看護師さんの姿勢と看護実践を通じて、教えられたことです。最初に看護のとりこにしてくださったその先輩の技術、それからこうして赤十字の中で教えられた本当の意味での看護の自立・主体性ということ、そしてそれを実践するエネルギーの源は、私が学生時代にみた、「よい看護をするために」[患者さんのために]と戦っておられた先輩たちの姿勢だということを教えていただきました。このことを、先輩から伝えられた大切なものとして、伝えていきたいと思います。どうもありがとございました。

話題提供者

山本富美子   元 日本赤十字社医療センター

私は素晴らしい先輩たちと出会って、自分なりにとても充実した40年の看護生活を送ることが出来ました。子育てをしながら、いきいきと輝きながら働いている姿を目の当たりにしたときに、私にも出来るのかなって思ったのが始まりです。職場の中ではてきぱきといつも前向きで、ときには厳しく、ときには優しく「なぜ、どうして、それで」と常にこう考えながら行動することと、解剖生理を頭に入れときなさいと言われながら必死に毎日過ごしたことを思い出します。何年たったらこんなふうに先輩のようにドクターと治療のことに関して話が出来るような看護婦さんになれるのだろうかと思ったことです。今まで心に染み付いた言葉があります。それは、“五感を使って考えなさい”。視・見・眼・目ですね、聴・耳、嗅ぐ・鼻、味・舌、触るは皮膚、あともう一つは“感性を磨きなさい”。見ても聞いても触っても匂っても感じる心がなければ、悲しいことにその前を素通りしてしまうのです。私はこのことから先輩に教えられたいくつかの事例をあげてお話したいと思います。

魔法の手。手術後、麻酔から覚醒した患者さんの背中にすっと手を差し入れて「力をぬいてください」と言ってしばらく患者さんの体重を感じながら1,2分していると、「あぁー楽になりました」と今までの苦痛の顔が、ほっとした顔に変化する魔法の手です。そして、次の朝になりますと、包帯交換の後にしわになっている腹帯を、ドクターと二人で背中、腰のあたりにさっと手を入れて、すっと伸ばし、そして、ゆるからず、きつからず締めていく手際のよさ。感激いたしました。

二番目、マッサージの技です。これは医師も還納できないような脱肛を挿入してしまった不思議なマッサージの技です。ワセリンをたっぷりつけた2本の指で肛門の周りを輪状にゆっくりとマッサージを続けると、括約筋が緩んでやわらかくなります。血行が良くなり、脱肛の部分の血流が改善されて痛みが少なくなります。ゆっくりと話しかけながら痛みを確認していると、緊張が緩んできているのが指に感じられるのです。その時がチャンスですので挿入します。痛みがありません。その後に座薬を挿入してさしあげると、ほとんどでることはありませんでした。これは、私が先輩から見せてもらって、あぁー、こういう風にすると大丈夫なんだと、私も何度か実践し、そしてこれは後輩にも教え、現実に実践してもらっている技のひとつです。

三番目、小児の固定です。小児の処置をするときには、どこか一箇所だけでもばたばたと動かせる場所を作って固定しなさい。解剖生理がわかっていれば、どこを押さえるか、押さえれば見えない血管が浮き出てくるようなそんな素晴らしい固定の仕方をしたのを、先輩の師長さんから本当に目の当たりで見せてもらって、「はい、先生、ここを入れてください」と若い先生に指示をしていた,指示って言ったらおかしいですね。誘導をしていた師長さんを思い出します。処置のときにも万歳をさせた手で,はさんで顔を固定すれば、チューブが静かに挿入できて、くるくると手で回しながらしますと、同じところを吸引するようなことはおきないでしっかりと吸引が出来ます。こういう嫌なことをした後には必ず抱きしめてあげましょう。ということです。

四番目のタッチング。これは舌癌の放射線治療による副作用の疼痛のコントロールがなかなかうまくできなくて、痛みをじっと我慢しながらベッドの上で背を丸めている患者さんのところにある婦長さんが入ってこられて、おはようございますといってトーンをとても下げて入ってこられました。背中のほうにすーっと廻っていかれて背中から腕にかけてゆっくりとマッサージを始めて。何分間か、たぶん2,3分だったと思います。その後、患者さんに「いかがですか」と声をかけたところ、「あぁー生きている感じがしました。ありがとうございます」と言って、患者さんは本当に嬉しそうな顔をしていました。その後、「またきますね」と言って出て行かれたんです。その後、「あなたもああいう看護師さんになってくださいね」って私は言われて「はい」と返事をしたんですが、いつかきっと私もすーっと手が出るような看護師さんになれたらいいなと思いました。
これは自分自身の感性が豊かでなければ、何も感じることもなくて、心も体も動かすことが出来ません。感性を高めるということは、難しいことでも、面倒なことでもなんでもないんですね。今、自分ができること、そして心が豊かになり、楽しく思えるようなことを実行すれば良いわけです。自分が心豊かになれば、自然と相手に優しくなり、心のゆとりができます。相手の身になって何をしてほしいのか、それに沿うような行動をとろうと努力するようになるんです。患者さんの言うことをよく聞いて、相手をしっかりと受け止めることの大切さが理解できると、自然と手が出るような看護が出来るんだと思います。

第9回学術集会:交流セッション

次の知恵袋よりの言葉というのは、“自分の身体を使いなさい、看護は手のひらで、微笑みも言葉も看護技術のひとつです”。というのは、看護の現場でこれを実践し、また赤十字の災害救護での現場でも実践した大先輩の言葉です。人間の尊厳を大切にするためにつくりあげたもの、整体についてお話いたします。
皆様のお手元にあります冊子は、故金田和子さんがこの会のために準備して皆さんに読んでいただくことを強く希望したものです。ご覧になりながら私の話しを聞いてください。整体作成の手順です。

まず、気配りをしましょう。ご遺族で立ち会いたい方には立ち会っていただきます。心理的に異常になっているのでご遺体の取り扱いには特に細心の心づかいをして、私語や態度、取り扱いには十分気を配りましょう。ご遺族の方々に、ご遺体の身長・体重、その他、身体的な特徴を伺います。ご遺体を、ご遺族の方々とともに確認した後に受け取りましょう。旅立ちのためにお着せするもの、または納棺の際にお入れするようなものをうかがい希望に沿うように努力いたしましょう。

必要物品です。段ボール箱、シーツ、さらし、紐のようなもの。段ボール箱は大きめのものを用意します。できれば50センチくらい、これは肩幅を考慮して50センチくらいですね。

第9回学術集会:交流セッション

手順:上下のダンボールを開いて、(図1)一箇所を切り開きます。これは図2にでているように、個人の身長にあわせ、そのカットしたところとそれから頭の部分のダンボールの部分を3分の1起こして切り、三重にいたします。頭の部分の台を作って二重にカットしたダンボールを補強します。不要なダンボールを切り取った人間、人型のようなものにして作ります。それが写真の3です。シーツを一枚広げ、その上に人型をのせます。脊柱の部分となる中心の部分にダンボールを補強するのが写真3です。図3のようになります。
人型の上にさらにシーツを重ねて準備します。頭部の作成は綿花や新聞紙で形を整えたほうがよろしいです。綿は形を整えるのに多量に必要になるので、救護のときは不適当です。新聞紙を適当な大きさに丸めて、シーツを4分の1に裂いた布で包みます。首の覆う部分をしっかりとめて丸みを整えます。胴体部分を作成します。人型の上に敷いたシーツの上で行います、ご遺族の方と確認の上で、ご遺体を受け取ります。

新聞紙、青梅綿などを用いて胴体としてシーツでくるみます。しっかりと紐で結びます。下に敷いておいたシーツで着物を作り着せていきます。腋下の部分からシーツを裂いて、胴体をしっかりとして作成します。このとき部分遺体をシーツの上にくるんで、胴体の中に詰め込み包み込みます。綿などを用いて、浸出液などが染み出さないように十分に注意しましょう。頭部を固定します。作成しておいた頭部を台の上において、胴体の部分に差し込みます。写真7が頭の出来ているところです。胴体の周りをしっかりとダンボールと紐で固定します。このときにご遺族にうかがっておいた体重を参考にいたします。胴の部分をしっかりと確実に作ることが、きれいな整体を作成するための基本になります。部分遺体の処理にはビニールなどを用いることなく、これはご遺体を荼毘(だび)にしたとき、ビニールがご遺体のお骨に付着してしまって骨が汚くなるので注意してください。胴体と頭の部分が出来上がりました。

着物を着せます。下に敷いておいたシーツをそで下と思われる部分で裂きます。点線のところですね。(写真10)下身ごろを胴体部分に左前でまきつけます。上半身の襟の部分は頭部から裾に向かって襟幅を体格にそってたたんでいきます。全てきちっととめたり、結んだりしないときれいな整体はできません。
肩を作ります。これは非常に大事なことで、肩の形一つで整体の良否が決まるので、丁寧に作ってください。肩の部分に綿、または新聞紙を入れて上手に肩を作成していきます。その上から左前に襟を着せて、襟元をきちんとします。帯を締めます。帯は立て結びで結びきりといたします。頭部を台に固定して、三角巾の頂点を上にして頭部の台の下において、頭部を台と共に首のところで固定します。整体の躯幹の部分の出来上がり。襟ができて、それから紐の立て結びが出来ている部分です。(写真14)

上肢を作成します。筒の中に綿、新聞紙などを入れて包帯で巻きます。手先はダンボールを切りぬいて作成します。片上肢だけのご遺体のときに、ご遺族の希望で整体を行った際に、片方の手を作って両手を合わせて胸の上で重ねた経験があります。上肢の作成には紙コップを入れていた箱がとても適当でした。手は左右間違えないように作るということ、上肢に差し込む部分と手先の部分というのは形が違いますので間違えないはずなのですが、あわててしまうと間違えることがあります。上肢を固定します。残った上肢がある場合には、反対側の上肢をつくって合掌する形で整えます。両上肢を合掌の形で整えます。病衣を着せて死後の処置をするときには、処置を、普通に処置をするときと同じように、紐の結び方、着衣の乱れなどに気を配って美しく整えます。以上です。

これを作る、つくったことによって癒されていたのは自分たちであったということをとても強く感じたことを思い出します。以上です。ありがとうございました。

話題提供者

今野康子   日本赤十字社医療センター

諸先輩方の前でお話させていただくことをとても光栄に思っております。またとても緊張しております。お聞き苦しい点が多々あると思いますが、ご了承下さい。では始めさせていただきたいと思います。
このお話をいただいた時、私はまだ臨床14年目というまだまだ未熟な立場でありました。その立場にあり、どのようにこのお話をしたらよいのか、とても悩みました。いろいろ悩んだ末、「今まで私が出会った先輩方」を振り返り、伝えたいと思います。

私事ですが、日赤看護大学を卒業し日赤医療センターに就職しました。初めは助産師として、産科病棟に配属になりました。大卒後すぐに助産師として配属された始まりでした。おそらくその頃の助産師の先輩方は「何者がくるのだろう」と思っていたことでしょう。その後、第一子を出産して内科外来へ、第二子出産の後は婦人科外来と内科外来への配属となり、様々な経験させていただきました。その後糖尿病看護を学ぶために認定看護師の教育課程に進学をいたしました。今から5年前に糖尿病・内分泌内科と眼科の混合病棟に配属され、そこでも様々な経験をさせていただきました。現在は糖尿病看護の専門として院内全体で活動させていただいております。就職していくつかの病棟・外来を経験させていただき、(1)助産師として産科病棟で勤務していた時に出会った大先輩、(2)第一子を出産して内科外来で勤務していた時に出会った大先輩、(3)内科・眼科病棟で勤務していたときに出会った大先輩のお話をさせていただきたいと思います。

産科病棟の私は一年目で、右も左もわからない助産師でした。病棟では初めて会う妊婦さんや褥婦さん、その家族が多数いました。また産科医師や先輩助産師さんや看護師さんも多くいました。この頃プリセプター制度はなく、分からないことや不安なことを先輩に聞いても「そんなこともわからないの?」と言われるような時代、先輩の後についていって学ぶという時代でした。私は妊婦さんや褥婦さん、そのご家族への関わり方や話し方が本当にわからず、信頼関係がなかなか築けないという悩みにぶつかりました。そこで大先輩である助産師さんに出会いました。
この大先輩は母乳外来を担当していた方でしたが、華やかなで、一緒にいてとても落ち着く存在でした。周りの妊婦さんや褥婦さんにはいつも笑顔を忘れない、とても素敵な方でした。私は「どうすればこういう助産師さんになれるのだろう」「妊婦さんにどのように話したらいいのだろう」と悩んでいましたので、その大先輩に思い切って聞いてみました。そうしましたら、「要は一から構えてはいけない」「まず容姿、姿から話題にしてごらんなさい」と。「でも身分の紹介は必要よ。でもいきなり『私はこういうものです』と言うよりは、『あら今日のブラウスとっても素敵ですね』とか『アクセサリーどこで買ったのですか?』とか、『あら赤ちゃんのベビー服、とっても似合うわ』という、こういう一言二言がきっかけになって、初めて話が進んでいくし、その妊婦さんや産婦さんとの間柄が始まるのよ」ということを教えていただきました。面談の技法の方法論を読んでもこのような内容はおそらくどこにも書かれていないと思います。現在私は糖尿病患者さんとよく面談をしますが、この先輩の技・教えは、私の面談でのベースとなっています。

次に私は内科の外来に配属されました。第一子を出産し、子育てをしながらの復帰となりました。産科の助産師が内科の看護師に転身です。技術は本当に未熟で、内科の疾患も実習以外初めてという状況でした。第一子は比較的身体が丈夫な子どもでしたが、子育てを経験された先輩方はよくおわかりだと思うのですが、避けては通れないのは「保育園の呼び出し」という恐ろしいコールだったと思います。そこで私は一戦を退き他職種で勤務されていている大先輩に出会いました。その大先輩は一戦から退いた後でも、患者さんからはとても評判がよくて、周りの看護師からも慕われる存在でした。子どもがとても大好きで、つまり「ママ看護師さんをとっても応援してくれる方」でした。慣れない内科外来の勤務でバタバタしている私に、いつも声をかけてくださり、ホッとさせられる存在でした。
ある日、私に保育園の呼び出しがありました。私がモタモタしているとその大先輩に「なにやっているの?」「看護師の代わりはいっぱいいるけど、母親の代わりはいないの。あなたしかいないのだから、さっさと帰りなさい」と言われました。この一言を聞き、大先輩の「スタッフを一人の個人としてではなく、一員である家族全体として大切に思ってくれている」という心意気に、本当に嬉しく思いました。看護師とは言えども大切な子どもや家族がいます。「家族全体を大切に思う心」を学ばせていただきました。

次に内科と眼科の混合病棟の方に配属になりました。病棟勤務に対しブランクがありましたが、病棟スタッフの方はとても温かい方が多くて、不安なくスタートを切ることができました。臨床経験10年以上だったので、病棟内の係のリーダーシップもとらせていただいたりしておりました。病棟の特色上、高齢者の患者様がとても多くて、40代50代の患者様が入院されると「若いね」ってスタッフ皆が思うくらい、70、80、90代、最高は103歳くらいの患者様も常にいらっしゃる病棟でした。そこで私はまた大先輩に会いました。この方は救急外来の経験を持つ、やはり技術的にも人間的にもとても素晴らしい先輩です。お国が九州で、時々九州弁が出る先輩でした。若いスタッフがなかなか信頼関係が結べない高齢者の患者さんと、とても自然に信頼関係を築いている先輩でした。
ある時、とっても頑固な九州男児の90代の男性患者さんが入院されました。若いスタッフは「何をやってるんだ!」「俺はやらない」「そんなことはしなくていい」といつも怒られてばかりで、ケア一つさせてもらえないような状況でした。そんな状況の時、この大先輩が一言、「なんばしよっと!!」と九州弁で言いました。そしたら「待ってたんだよ」「Aさんの言うことならなんでも聞くから」「Aさんだけだよ、俺のことをわかってくれるのは」という言葉がこの患者さんから出ました。周りにいた若いスタッフと私はこの言葉を聞いて「この先輩の存在そのもの、そのものが患者さんの心を動かすのだな」「ベテランならではの風格というか、安心感というか、そういうものが患者さんの心を動かす」というのを、若いスタッフと共に実感したことを覚えております。

微力ですが、私が後輩のスタッフに伝えていきたいことをまとめさせていただきました。現在、臨床の1・2年目といった若いスタッフを見ていると、大学や短大を卒業され、新しい看護や知見を持っているスタッフが多いのですが、人と人との繋がりというか、信頼関係の築き方、相手を理解した話し方や関わり方を学ぶ機会が少ないのではないかと感じます。患者さんのところに行っても、バイタルサインをとり、お小水やお通じの回数を聞いて、ナースステーションにすぐ帰ってきて記録を書く後輩達を見ていると「なんでそんな一言だけで帰ってきてしまうの?」「もう少し話を聞いてあげたら、患者さんの気持ちがもっと分かるんじゃないの?」って思うのです。しかし、そういう風に後輩を育てているのは、私達の立場の人間ではないのかと考えることがあります。患者さんに「若いスタッフでもとても良いスタッフですよ、うちのスタッフ日本一ですよ、世界一ですよ。」って思ってもらえるような私たちの働きかけが必要だと感じます。若いスタッフに対し、どう患者さんと話し、触れ合い、信頼関係を構築していくか、私たちの立場の人間が身を持って伝えていかなくてはならないと思います。

出産・育児をしながら看護スタッフとして働く方は今後増えていくと思いますし、そう考えているスタッフも多いと思います。しかし素晴らしいスタッフが産後復帰時に労働条件が合わなくて辞めていく現状があります。私は出産・育児をしながら働く看護スタッフを病院全体・病棟全体で大切に思う心を、若いスタッフから持ち続けてほしいと思います。その心を持ち続けることによって、自分が出産・育児の年代になったときに「働きながらでも安心して出産・育児ができる」「自分自身がその気持ちを大切にしていたおかげで、周りから大切にされる存在の自分がいる」ことをぜひ伝えたいと思っております。

つまり私がこれからの看護スタッフに伝えていきたいと思うのは、ここにも多くの先輩方がいらっしゃいますが、「先輩方の存在そのもの」と考えております。「先輩方の存在そのもの」を伝えていくには、まだまだ力不足ですが、先ほど川島先生もお話しされたように、臨床の一場面一場面で私の言葉や態度などで語り、行動や実践をしていくことを通して「私の存在」というものを伝えていけるといいなと思っております。

以上です。ご静聴ありがとうございました。

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