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「現在の被ばくレベルで中絶する必要ない」雑感

MTPro記事「現在の被ばくレベルで中絶する必要ない」を読んでの個人的雑感

                                 室月 淳 (2011年5月17日記)

医師のための専門情報サイト MTProの記事(2011年5月16日)の記事

「現在の被ばくレベルで中絶する必要ない」日本産婦人科医会

を読んでの個人的な感想です.なお本稿を書くにあたっては,千代豪昭先生の「遺伝カウンセリング 面接の理論と技術」の内容を参考にさせていただきました.特に記してお礼申し上げます.

上記記事の引用と紹介

上記の専門情報サイトは会員でなければ閲覧できないようなので,最初に記事の最初の部分だけを引用させていただき,全体の内容の紹介をいたします.

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  • 「現在の被ばくレベルで中絶する必要ない」日本産婦人科医会
  • 「神経質になりすぎている」との指摘も

東日本大震災に伴う福島第1原子力発電所の事故は,東北地方を中心とした東日本の住民に大きな不安をもたらしており,検証可能な過去の事例が少ない中でさまざまな憶測が飛び交っている.日本産婦人科医会副幹事長の塚原優己氏(国立成育医療研究センター周産期診療部産科医長)は5月11日,東京都で開かれた記者会見で,放射能汚染に対する基礎知識と現実的対応を報告.1986年にソ連(現ウクライナ)で起きたチェルノブイリ原発事故の際,ギリシャで人工妊娠中絶が増加したというデータを示し,「現在の被ばくレベルでは中絶する必要はない」と訴えた.また,同医会副会長の今村定臣氏は,現在の状況を「神経質になりすぎている」と苦言を呈している.

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記事は,上記の序文のあとに塚原氏のことばとして,現在までに導き出されている放射線被ばくの危険性については,死産や奇形,染色体異常に対する体内被ばくの影響は,高線量被ばくでもリスクが高まらなかった,ただ,重度精神遅滞は8〜15週齢で0.5Gy(500mSv)以上被ばくした場合,20%ほど上昇したと紹介しています.

塚原氏は続けて,「子宮線量は母体の10分の1程度といわれており,100mSv以下では影響はないだろう.チェルノブイリ原発事故を受けてギリシャで人工妊娠中絶が増加したというデータがあるが,現在の被ばくレベルでは中絶する必要はない」と訴えました.

一方,今村氏も,「現在の状況は「神経質になりすぎている.もし自分が退避命令が出ている福島第1原発から20〜30km圏内の地域に住んでいたとしても,疫学調査の結果から導き出されたリスクと避難所生活のデメリット比較して,断固として自宅にとどまる」としています.

さらに同氏は,「慢性的な被ばくではっきりとしたエビデンスがあるのは,小児の甲状腺がん,白血病,白内障のみ.今回,産婦人科医会が行った検討の結果は,“ざっくり言って心配ない”というのが総括だろう.被ばく線量は少ないに越したことはないし,若年者に注意を払わなければならないが,数字ばかりが踊りすぎている感がある」と述べました.

記事は最後に,産婦人科医会と産科婦人科学会が合同で,福島県の胎児を対象とした疫学調査を行う予定であることを説明して終わっています.この記事の内容は医学的にはほぼ正しいと思いますし,わたしも塚原氏,今村氏の発言に強い共感をもって賛成いたします.現在の状況は社会がおそらく神経質になり過ぎていますし,実際に「現在の被曝レベルで中絶する必要ない」というのはまったく正しいといえます.

しかし上記の記事の内容に関して,「カウンセリング」という視点からみた場合,胎児への被曝リスクに関して若干の補足が必要ではないかと思いました.

放射線被曝を扱ったカウンセリング

出生前診断に関するカウンセリングや「妊娠と薬」,「妊娠と放射線」といった相談は,臨床遺伝学の分野ではこれまで「ナンセンスコール」と呼ばれてきました.伝統的に「遺伝カウンセリング」とは,クライアントの生殖行動の調整を介して病気の発生のリスクを回避することを目的とした行為とされていました.上記のような内容はすべて妊娠後のカウンセリングですから,確かに古典的な遺伝カウンセリングの定義からは少しだけはずれています.しかし臨床におけるこういった相談のニーズは高いものがあります.

最近は,遺伝から派生した問題はすべて遺伝カウンセリングが対応すべきとの考え方が主流です.放射線被曝による奇形や発がんは遺伝子の変異が関与しており,遺伝カウンセリングの対象であって問題がありません.実際に不安をもって相談にくる妊婦は多いわけです.遺伝学的にはナンセンスでも,妊婦さんにとってはナンセンスなテーマはないわけです.

こういった相談に対するカウンセリングにはいくつかの共通した基本原則があります.リスクを推定するための情報を入手すること,こういった情報を妊婦さんにわかりやすく理解させること,そして説明のときには中立的な態度を保つことなどです.ここでは最後の「カウンセラーの中立的態度」について少し説明します.

説明の際にマイナスのイメージだけを強調したり,クライアントの不安を高めるような言動をとることはもちろん避けなければなりません.基本的に中立で「非指示」的な対応に努めることが重要です.こういったことのリスクについては確定的にいえないことが多く,カウンセラーは個人的な意見はなるべく控える必要があります.逆に安易に保証を与えるような態度をとることは慎む必要があります.

多くの初心者カウンセラーが陥るわなとして,カウンセリングとはとにかく相手に安心感を与えてあげることと捉える間違いがあります.こういった態度はいつの日か大失態をおかします.また無責任な楽観的な態度は,それが妊婦さんの不安をとってあげようという気持の表現であっても,相手にとっては自分の不安を理解されていないと感じさせることにもなりかねません.

もちろん妊婦さんの不安に関しては十分な対応をする必要があります.「中絶する必要がない」とか「神経質になり過ぎている」という言い方で,妊婦さんが感じている不安な気持に真直ぐに向き合わず,結果的に不安感を放置したままにしておくと,もし障害をもった子どもが生まれた場合あるいは中絶を行った場合に心の傷として残る可能性があります.

「妊娠と放射線」の相談に訪れる妊婦さんは,「難しくて理解できない」ことで不安が増していることがしばしばです.放射線に関することは理解が難しいだけでなく,おそろしい科学的事象です.だからこそその内容をある程度理解できるようになるだけで,不安はかなり軽減します.「だいぶ気が楽になりました」というよく聞く言い方は,説明を聞いて科学的背景が少し理解できるようになったためなのかも知れません.

胎児の放射線被曝リスクについて再度考える

上記のカウンセリングの原則を確認したところで,国際放射線防護委員会(ICRP)の84年の勧告を見直してみます.

胎児死亡や催奇形性については線量には明らかな閾値が存在しています.たとえば妊娠初期流産では100mGy,催奇形では100-200mGy,発育遅延や精神発達遅滞では100mGy以上となっています.こういった事実から胎児被曝量の閾値は100mGyとされ,それ以下では妊娠中絶の理由とならないことは,ICRPの勧告にも明記されています.

一方,胎児被曝によって出生後に発症する小児がんのリスクは確率的なものであり,閾値というものが存在しません.細胞のDNA損傷はたった一回の放射線照射でも起こりうるので,安全な被曝量などはあり得ないわけです.被曝量が増えれば幾何級数的に発癌の危険性は増加します.その相対リスクは,10mGyの被曝により1.4倍となるとされています.小児がんの自然発生率は0.2-0.3%ですので,10mGyの被曝によりそれが0.3-0.4%程度となるというわけです.

たとえば妊婦さんが10mGyの被曝を受けたとします.生まれた子どもが将来,小児がんとなる確率が0.3%から0.4%に増加するというリスクは,もちろんその子を中絶する正当な理由にはならないでしょう.そのことはほとんどの人が同意すると思います.だから「現在の被ばくレベルで中絶する必要ない」というわけです.しかしたとえば宮城県の年間2万人の妊婦さん全体からみるとどうでしょうか? 小児がんを発症する子どもが,60人から80人に増えるわけです.20人の子どもたちが被曝の犠牲になる計算になります.

10mGyの被曝は小児期の発がんのリスクを40%上昇させますが,これは集団としてみた場合の効果です.一方,「妊娠と放射線」カウンセリングは個別の相談であり,被曝リスクに対する不安に妊婦さんが自ら対処するのを援助することが目的です.その違いを明確に理解したうえで考えなければならないでしょう.「現在の被ばくレベルで中絶する必要ない」は,おそらく個々の妊婦さんに対しては正しいことですが,だからといって政府が打ち出している現在の年間20mGyの許容範囲を正当化するものでは決してありません.そのことを忘れてはいけないでしょう.

遺伝カウンセリングの立場からいえば,この発がんリスクを妊婦さんたちにしっかりと理解させなければなりません.その場合ただ数字を挙げるだけでなく,がんの種類や治療,予後,こどもにとってのがんの意味などを含め,正しく理解させる必要があります.「現在の被ばくレベルで中絶する必要ない」と告げるのは,おそらくそのあとのことです.一般に,「妊娠と放射線」カウンセリングを受けた多くの妊婦さんとそのパートナーは,来訪時とは見違えるような明るい表情で帰って行きます.しかもカウンセリングを受けた妊婦さんの中で,人工妊娠中絶を選択する人は少数派です.

気をつけなければならないのは,カウンセリングを受けて出産を選択した妊婦さんから生まれた子どもが,将来がんになることが起こりえます.リスクが一般より高くなることにはエビデンスがあります.しかし,がんの原因が放射線被曝によると断定することはほとんどの場合できません.そのリスクを受けれたうえで出産を選択したにもかかわらず,もしご夫婦がそのために出産を後悔し,そのために不幸だったと考えるようでしたら,カウンセリングは失敗だったとするほかありません.

このことは「妊娠と放射線カウンセリング」において,充分に強調して伝えておかなければならないことです.ただ単純に「安全だ」とか「神経質になり過ぎだ」,「中絶の理由にならない」と説明するだけでは足りないだろうと思います.

最後に一産婦人科医として

アメリカ小児科学会(AAP)の2007年の勧告(Pediatrids 2007;120:677-82)があります.その内容を意訳してまとめますと,(射線量の増加に伴いリスクが増加する,⊃討子どもの被曝リスクを心配するのは当然のことで,医師は親に対して疑問があれば尋ねるように促すべきである.親の不安に対して真剣に対処すべきである,J射線検査を指示する医師は,すべての検査について本当に必要であるかを自分の責任で確認しなければならない,た巴任防要な情報を得るための検査において,放射線量は合理的に可能な限り低く抑えるべきである,というものです.

もちろん,妊婦さんの不必要な不安は取り除いてあげなければなりませんし,医学的に無意味な妊娠中絶は可能な限り減らす必要があります.しかしそのためにわれわれ医師が,無条件に「安全だ」,「気にしすぎだ」といった言い方をすることは慎まなければならないでしょう.「放射線量の増加に伴いリスクが増加する」というのは,逆にいえば「これ以下であれば絶対に安全であるという量はない」という意味でもあるからです.

そしてわれわれ産婦人科医は,妊婦さんに対して疑問があれば遠慮なく尋ねるように促すべきですし,妊婦さんの不安に対して対処すべきでしょう.それこそが産婦人科医のプロフェッションというものだと思います.

最近のICRPの基本精神は,「被曝の不利益と利益を天秤にかけた上で判断すべき」としているわけであ り,利益が全くない無駄な被曝についてはたとえわずかの被曝でも避けるべきである」というものです.このことはリスク管理の基本として世界的にもコンセンサスが得られています.ですから妊婦さんの被曝量を可能な限り抑えることを主張することも産婦人科医の義務であると思います.

医療従事者は患者個人をみるわけですが,同時に妊婦さん全体のこと,すなわちマスとして被曝のリスクを考えていく必要があります.手術を含めた治療法の選択などを考えれば,われわれ医療従事者が日常的にこのような判断を迫られていることがよく理解できると思います.しかしこういったことは,マスコミを含め一般の方にはなかなか理解されがたい場合も多く,ときとして感情的な議論になりがちです.

ですから胎児の被曝リスクに関しては,学会の声明や報道で安全性を強調したり,パンフレットをつくって一般に配布したりだけでは不十分だろうと思います.「妊婦と放射線」についてのカウンセリングを妊婦さんが自由に受けられる体制を全国的につくっていくことを強く願います.

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