屠蘇の肴に御伽草子,今年は子年なので鼠の草子なんぞを。
ネズミの権の頭は,清水の観音に祈ったおかげで,人間の娘を妻として屋敷に迎えることができた。ところが,留守の間に障子の隙から家来たちの有様をのぞき見た姫君は,自分がネズミと結婚していたことを悟って屋敷から逃げ出す。権の頭は別れを嘆き悲しんで,世を儚んで,出家する。剃髪して「ねん阿弥」,その五戒を授かったときに申しけるは:
あらありがたの御ことや。もっともたもちは申すべし。さりながら,すこしづつは御許し候へ。まづ第一に殺生戒は,海老、雑魚、蝗のたぐひ,口のまずき折節は,そつそと殺して給はらん,御許し給ふべし。第二偸盗戒は,御存じのごとく,蔵々室々の傍にて,俵兵糧食ひあけて,こぼれものをば御免あれ。そのほか,御寺方にてすまひせば,おこが、栗、柿、飴、おこし、胡桃、納豆、香の物、燈火の油筒,余る所を御免あれ。第三に邪淫戒をば,御心安くおぼしめせ。姫君に離れ参らせて,いかでさること候ふべし。さりながら,月に四五度は御免あれ,上人と談合申すべし。第四に妄語戒,自然猫の御坊とあひ候はば,はかりことを申すべし。第五飲酒戒は,御存じのごとく,それがしは御酒ばかりにて,命を続け申し候ふ。酒樽、酒甕の下にてたべ,酔ふほど給はり候ふまじ。大盃にあらずとも,十杯ばかりは御免あれ。かくのごとく御許し候はば,五戒においては,御心安くおぼしめせ,深くたもち申すべし。
来年1月の読書会はお休みです。森立之生誕200年祭(日本内経医学会の講演会を兼ねます)が有りますからね。
だから,来年の最初は2月の第2日曜の10日の予定です。また,改めて案内します。
例えば ちっちゃな女の子が
お母さんとクリスマスのお買いものに出て
プレゼントのおもちゃもさることながら
サンタさんからもらった赤い風船に
うきうきしながら帰る途中で
うっかりひょんとしたすきに
手から離れたその赤い風船は
しだいしだいに青空にすいこまれていく
それを泣くでもなく 呆然と見あげている
ちっちゃな女の子の悲しみは わかるような気がする
あるいはまた
買ってもらったおもちゃを意気揚々と
説明しようと思っていた相手の不在がしれたときの
しょんぼりも わかるような気がする
いやそれよりも
帰り道で見つけた宝物 例えば石ころとか木ぎれとかを
自慢できる友達が もういないと気付いたときには
その宝物はとたんに色あせて がっかりする
針術が中国の東で生まれたのか西で生まれたのか,新しい情報を整理するにつれて,逆に訳がわからなくなりました。あるいはさらに,そもそもどこかから持ち込まれた可能性も,完全には否定しがたい,らしい。
それでも,『素問』『霊枢』が中国のどこかで著されたのは間違いないでしょう。それでは,黄帝や岐伯の末裔は今どこにいるのか。無論,中国大陸には居るでしょう。けれども,我々だって『素問』『霊枢』の正統な(あるいは正当な)継承者です。
12月15日の夜は,久しぶりに前後不覚になりました。案の定,JR駅を下りてから,道に迷って交番でたずねました。まあ,それくらいは良いとして,朝になってコートのポケットに,不思議なものが入ってました。多分,中国の健身球だと思うんだけど,これについての話題とか,全く記憶に有りません。この間に何か不穏当なことなど有りましたら,平にご容赦を。
針術の故郷はどこか。『素問』異法方宜論に「砭石者,亦從東方來」とか「九鍼者,亦從南方來」とかあるから,ついつい中国の東南に在ると思ってしまう。しかし,本草学は植物の豊富な地方(東南)から生まれ,乾燥した沙石の域(西北)からは,取りあえず尖ったもので患部をつつく治療が始まったはずだという,至極真っ当な意見も有る。それに当時の中原の東隣に位置する斉の伝統を受け継いだはずの淳于意の治療は,ほとんどが湯液によっている。針も全く用いないではないけれど,どうもあんまり得意そうでもない。そして前漢の末頃に『針経』を著して世に行われたという異人は,涪水のほとりで釣りをしていた。涪水は蜀,今の四川省の中部を流れている。針術の故郷は,はたして中国の東か西か。
ついでにもう一つ,ミトコンドリアDNAを分析した結果によると,戦国時代中期の山東人はヨーロッパ集団に近く,また前漢末の山東人は中央アジアのウイグルやキルギスの集団に近いらしい。斉の伝統医学は,一体どこから来たのか。
蕭延平本『太素』巻24本神論
視之無形,嘗之無味,故曰冥冥,若神髣髴。
【楊注】冥冥之道,非直目之不可得見,亦非舌所得之味。若能以神髣髴,是可得也,此道猶是黄帝之玄珠,罔象通之於髣髴。
『太素新校正』p.496
視之無形,嘗之無味,故曰冥冥,若神髣髴。
【楊注】冥冥之道,非直目之不可得見,亦非舌所得之味。若能以神髣髴,是可得也,此道猶是黄帝之玄珠,卂象通之於髣髴之。
新校正云:……原鈔「卂」字蝕殘,辨其剩筆,當是「卂」字。按,「卂」爲「迅」之古字。『説文・卂部』:「卂,疾飛也。從飛而羽不見。」蕭本作「罔象」,不可從。……
『莊子』外篇 天地第十二
黄帝遊乎赤水之北,登乎崑崙之丘而南望,還歸,遺其玄珠。使知索之而不得,使離朱索之而不得,使喫詬索之而不得也。乃使象罔,象罔得之。黄帝曰:「異哉!象罔乃可以得之乎?」
【疏】罔象,無心之謂。離聲色,絶思慮,故知與離朱自涯而反,喫詬言辨,用力失真,唯罔象無心,獨得玄珠也。
『霊枢』玉版篇に,
岐伯曰:以小治小者其功小,以大治大者多害,故其已成膿血者,其唯砭石鈹鋒之所取也。
とあります。これは癰疽で已に膿が成って,十死一生という状態になったものの治療の話です。砭石鈹鋒は今で言えば,外科医のメスの類でしょう。してみれば,我々が小鍼を以てなすべきことは,こうした事態に陥る前に,微の状態において,微を積みて形を成すようなはめに陥ることを防ぐに在るわけです。ことここに至っては,小を以て治すのではその功は小であるし,もともとここに至らせないのが聖人の治と言うものです。もし已に膿血を成してしまったのであれば,外科医のメスにゆだねるのをためらうことはない。岐伯もそれしかないと言ってます。
天人相関という言葉はあまり好きではない。どうしてだろう。人は天の気を受けて生まれ、生命とは身体を流れる気の働きのことであり,身体の気の流れは,天の気の運行に影響される,というよりも寧ろさらに一体であるとは思うのに……。どうして,天人相関という言葉を気嫌いするのだろう。つらつら思い量るに,天が人を支配し,あるいは特別に野心の有るものは天に影響を与え,支配しようとする,などと連想するからかも知れない。考えてみると,万物は天地宇宙の気の移り変わりの諸相である。あるときは形をなし、運動し変化しつつ存続して、ついには形を散じて気に帰る。何も天と人を特別扱いにすることはない。いっそのこと万物相関と言い換えようか。天と人の,二者の対立などと感じるのはビョーキというものだとは思うけれど,少なくとも,私自身はこっち(万物相関)のほうが好みのようである。しかしまあ考えてみれば,ものごとが場に影響され影響するというのは,洋の東西,時の古今を問わず,当然の常識である。何も「万物相関」などと言挙げすることも無いかも知れない。