靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

うたがいぶかいというやまい

身の周りに西洋医学関係者が多いけれど,それをこの世界に居るうえで,よかったと思ったことはほとんど無い。肩が凝る,腰が痛いといいながら,滅多に鍼を灸をとはいってこない。たまにきても要するに肩たたき,腰もみの延長線上である。別にそれで良いのかも知れないけどね,本当には中国伝統医学なんて信じちゃいないということ。そういう私だって,そういう環境に育ったんだから,本当は信じちゃいないんじゃないか,と思うことが有る。それは勿論,わざわざ入ってきたんだから,ひょっとしたらとは思ってますがね,でも,今のところ確かに効くという理論を見つけられないでいるし,今のところ疑いだしたらきりがない。幸い,日本鍼灸界の大物に親しく接する機会は豊富なほうだったから,効いたという実例は結構多く見て知っている。でも,鍼灸が効いたんだか,鍼灸の先生が効いたんだか。あるいは少なくとも,その先生の唱える理論が効いたんだか,刺すこと温めることが効いたんだか。だから,中国伝統医学の経典についてだって,実は懐疑的なんです。それはまあ,古代の他に術が無かったときに,衆に秀でた人たちが四苦八苦して,ひょっとしたらと様々に試みて,何かをしたら確かに何かが起こってくれたんだろうと思う。それを再現出来なきゃどうにもならないから,ひょっとしたらこういうことじゃないかと考えたわけでしょう。しかも,当時の最も先端的な科学的思考法である陰陽五行説にしたがって理屈づけをしてくれた。これは勿論,有りがたい。お祈りしたら治りました,神様ありがとう,ではどうにもならない。でもね,今さら陰陽五行説に柔順であるべき義理は無いんじゃないか。当時の陰陽五行説を推進した者の末裔に相応しい態度は,現代においては陰陽五行説を唾棄する者で良いんじゃないか。残念ながら,私では当時の推進者のような説得力に富む論説は出来ませんがね。でもね,吠え続けようかと思いますよ,「肺が実せば,子の腎を写す,なぜならば金(尅)〔生〕水だから」なんて,あんたらバカか! (A)〔B〕は,Aは誤りだがらBに改めるという意味のつもり。

で,えらそうなことを言って,当面の治療はどうするのか,臨床は放棄するのか?実は,ひょっとしたら,ということを試み続けるだけです。Windows Vistaに付属しているゲームでフリーセルっていうのを知ってますか。あれには必勝法が有ります。現在,確か600連勝を越えています。一番奥に隠れているAをまず先に何とか取り出すようにする。簡単でしょう。な~んだ,と言われそうだけど,数学的根拠は無さそうだけど(有るかも知れない),でもね1000連勝する自信は有ります。勿論,これにはインチキが有って,行き詰まったら本へ戻して,再挑戦する。中国伝統医学の方法論の価値を考える上でもヒントになりそうな気がします。試みるべきことの順序を明確にして,効率的に試行錯誤して,患者が大丈夫なうちに,その患者の現在における正解にたどりつく。(勿論,傷つけたりヤケドさせたりに,どうして治療効果が有るのかは,別問題。そっちの解明は西洋医学関係者にお願いする。)だから,私は今のところ,どの経脈の問題かを仮定して,あるいはどの府,どの蔵に関わるかを推理して,あるいは圧痛点,あるいは合穴や原穴を試みて,それでダメなら次の手を,と考えています。そのために経典著作を読み砕いて,単純化しようと試みています。なるべく古代的な単純なものから試みようというのは,まあ私の好みの問題です。(実は説得力の有る言い方を思いつかないからだけど,要するに『霊枢』の範囲からと言うこと。)誤った試みをしたら危険じゃないか?!あたりまえです,だから苦労するんじゃないですか!?

「原穴や合穴を処理すれば,蔵府の状態が変化する」と信じるのも,「肺が実せば,子の腎を写す,なぜならば金生水だから」(もしそれが有効であるとしたら,多分,別の理由が有る。ここでは言わない。)と主張するのも,五十歩百歩かも知れませんがね。

銀河の新しい明星

北朝鮮は,少なくともわりと遠くまで飛ばせて,少なくとも自国民には人工衛星の打ち上げに成功したと,言えてよかったね。

アメリカは,軌道に侵入させるのに失敗したことを確認できて,アメリカ本土がまだ射程距離に入って無いことを,確認できてよかったね。

日本は,一段目は日本海に,その他は太平洋に落ちみたいで,今のところ直接の被害は無かった,みたいでよかったね。

四月以降の読書会

主たる課題を『霊枢』の講読にもどします。どの篇を読むかは,リクエストに応じます。ただし,内容的に関連する篇に縦横無尽に飛躍します。とりあえず4月は本蔵篇。

『難経』も,個人的には「できるだけ一つの話として読む」のを続けます。他の人には,やさしい解説書を何冊か紹介します。それを各自で読みたい人は読んできて,わからないところ,気になるところについて侃々諤々ということにします。

もう一つ,宿題として『明堂』のコピーを1枚づつわたしています。これは剥落したりして見えないところ,見慣れない変な字をどうやって判断するか,の実習です。だから,いろいろ頑張ったけれど,わからなかったという人がもっとも優等生です。だれかにこっそり聞いて,裏の手を使った人がそれに次ぎます。おとなしく答えを待っている人は,悪いけど,下です。

次回は,4月12日(日)午後1時~5時

場所はいつものところの一階ひだりての小会議室

山田さんちの太郎くん

文書の記入例などにおいて,個人名の例としてしばしば使われる名前,例えば日本の山田太郎,イギリスのジョン・スミスのようなものを何というんだろう。
こんな署名をもらったら,先ずはじめに偽名である可能性を疑うのが普通だと思うけれど,世の中には物好きがいるから,子供を太郎と命名する山田さんもいるかも知れない。選挙民に親しみを持ってもらえると期待する政治家もいるかも知れない。だから,インターネットで検索すると,プロ野球選手で,歌手にしてテレビ俳優,芸能プロダクションやコンサルタント会社を経営し,後には衆議院議員にまでなった人物ということになりかねない。
日本人なら,山田太郎はまず疑うからまあ無事だろうけれど,ジョン・スミスならまあまあ首を傾げて無事だろうけど,ドイツ人のウォルフガング・ミッターマイヤーさんと言われたら,私なんかはころっとだまされると思う。
インターネットの発展によって,情報収集は容易になったけれど,胡散臭い情報を綴り合わせて悦に入っている,といったような危険も増えたようだ。

俗字

『顔氏家訓』書証篇に,本来は誤字でありながら,そのまま通用する文字になっている例として,「巫と經の旁を混同する」というのが挙がっています。
でも,ちょっとまってください。右に挙げた文字のうち,上が仁和寺本『黄帝内経太素』の經の字です。これの右旁が巫に似てますかね。
実は仁和寺本『黄帝内経太素』では,巫が右の下のように書かれているんです。これならまあ「旁を混同する」と非難され,「これらは正されるべきである」と訴えられるのはわかる。
だから,俗字の作字にはげむことに全く意味が無いとは言わない。でも本来は,画像を切り貼りした方がうんと確かだし,そういうことは解説中でふれておけばすむことだと思う。

伝統

平安前期の相撲の節会では,勝方は乱声をあげて舞ったものらしい。
ガッツポーズと何ほども違わない。
伝統とは,往々にして思い込みに過ぎない。

是主○

かなりむかしから,『霊枢』経脈篇の是動病と所生病の間の「是主○」は,是動病の総括と考えたいと思ってきました。中国の比較的新しい注釈書でも,この字句を是動病に属させる人がいるのを知ってうれしく思ったものです。
で,黄龍祥氏の経脈穴の説に示唆を受けて,是動病は腕や踵付近の代表的な診断ポイントが動じているときに予想される病症群であると考えるようになってから,ますます「是主○」は,是動病の総括であると確信しています。
ところがその黄龍祥氏が点校した『甲乙経』でも,例えば「是主肺所生病者:咳,上氣,喘喝,煩心,胷滿,臑臂内前廉痛厥,掌中熱。」になってますね。どうしたことなんでしょう。是動病の総括であるというのはやっぱり誤解なんでしょうか。是動病の総括であるとした中国人って,誰だったんでしょう。
因みに,馬王堆の陰陽十一脈灸経では,是動病と所産病の間に「是○脈主治」の字句が有って,誰しも前に属させているみたいです。これって傍証になりませんかね。

3月の読書会

案内を忘れてましたが,勿論,やります。

3月8日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの一階ひだりての小会議室

『難経』苦行の続きです。
経脈診候 凡二十四首のまとめまでをなんとか。

外からの影響は先ず左に出る

『素問』にも,右と左の寸口の脈状が異なるという記事が,有るには有るということは,かつて古典研に出戻っていた頃に,病能論を引いて口走ったことが有りましたが,その後はずっとほっぽり出してました。
これは,ひょっとすると(頚と手首でなくて)左右の人迎脈口診と関係が有るかも知れないので,紹介しておきます。

帝曰:有病厥者,診右脉沈而緊,左脉浮而遅,不然(『甲乙』作「不知」)病主安在?
歧伯曰:冬診之,右脉固當沈緊,此應四時,左脉浮而遅,此逆四時,在左當主病在腎,頗關在肺,當腰痛也。
帝曰:何以言之?
歧伯曰:少陰脉貫腎絡肺,今得肺脉,腎爲之病,故腎爲腰痛之病也。
帝曰:善。

厥を病んでいるとして,右の脈は沈んで緊張していて,左の脈は浮いて遅いとしたら,この病はどんな状況なのか。
冬であれば,右の脈(おそらくは脈口)が沈んで緊張しているのは,季節に応じているわけで当然のことである。ところが左の脈は浮いて遅いとしたら,これは季節に相応しくない。この季節なら,脈は沈んで腎の部に在るべきなのに,浮いて肺の部に偏っているわけだから,腰が痛む。
何故そんなことが言えるのか。
腎と肺が足少陰の脈で密接に繋がっているのは常識である。だから肺と腎の一方が満ちていれば,もう一方は不足がちである。いま脈が肺の部に偏っているのだから,腎は相対的に虚しているわけで,つまり腎の機能低下である。だから,わかりやすい,あるいは目立った症状としては腰が痛むという状態になる。
なるほど。

寸が肺で尺が腎,なんてことは考えてないと思います。人迎で外,脈口で内を診るのとも,微妙にニュアンスが違うようです。右は季節に応じた脈を表現していて正常であり,左の方に季節の影響による異常が表現されます。つまり,右の脈は診断には寄与しないようですが,外からの影響によって先ず左に現れた異常が右にまで及んだら,つまり病が進んだと判断すべきでしょう。先ず現れる季節の悪影響を外と言い,病が進んで深刻になった状況を内と言うのは,あるいは可能かも知れません。

太素新新校正

 古文献そのものを,一般以上の水準で研究しようとするのなら,最善の資料に拠るべきことは当然である。『太素』について言うならば,せめて影印本を手に入れる。絶版とはいえ,古書店を熱心に探せば手に入らないでもない。高価であると言っても,天文学的な値段というわけではない。そのうえで,なろうことなら真物を視たいし,せめて鮮明なカラー写真が手にはいらないかと努力する。
 しかし,その他に,『素問』、『霊枢』の医学を学ぶについて,『太素』の文章に拠りたい,大過ない『太素』のテキストが欲しいという人たちがいるのも,また無理のないところだろう。
 人にはそれぞれ登攀したい峰が有る。途中までに巴士や索道を利用したからといって,馬鹿にされるべきいわれはない。泰山に歩いて登る人も,麓まで歩いていくわけじゃない。

 正直なところ,この種の作業が絶対に大丈夫という境地にたどりつくことなぞはありえない。単純な入力ミスもさぞかし多かろう。長期にわたる翻字作業において,『素問参楊』や『黄帝内経太素九巻経纂録』によった旨の注記が脱落した箇所も,あるいは有るかもしれない。ご寛容を願いたい。幸い日本内経医学会が百部の作成費用を計上してくれたので,百人の賢明なる視線にさらすことができる。少しは大丈夫に近づくことができるだろう。

 言わずもがなではあるけれど,この新新校正には新校正を主編した銭超塵教授へのhommageという意味がふくまれている。
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