経合の大概
- 医経
- by shenquzhai
- 2011/07/11
(通行本の離合真邪論 全元起本には第二巻にも真邪論として重ねて出る)
『太素』では「黄帝問於岐伯曰」で問答が始まるのが三度有る。大きく分けて三つの段落ということだろう。
ものごとには法則というものが有る。人でいうならば、十二経脈である。天地が温和であれば何ということも無いが、寒ければ血はしぶって流れず、暑ければ気はとりとめもなく溢れる。虚邪が入り込めば、河川に風が吹いたようなもので、経脈は動じて、寸口に至って時に大きく時に小さく現れる。三部九候にしたって、突然に変化が有れば、すみやかにその路を遏すべきである。この三部九候云々も、全元起本でともに第一巻に在る決死生篇との関連がおもしろい。
さて、遏といえばつまり泻すべきなのだが、具体的にはどうするのか。患者の吸うのにあわせて鍼を入れ、気の動向とせめぎ合うことなく、静かにじっくりと留め、邪がのさばるのだけは押しとどめ、吸うにあわせて鍼を転じ(回転させ?)、気を得て(鍼尖に邪気を捉まえたと思ったら?)、患者の呼くにあわせて、ゆっくりと鍼を引き抜く。
実際には、不足で補うべきときも有る。どうするか。そのところを揉んだり、推したり、弾いたりして気をはげまし、そのうえで患者が呼くのが終わるのにあわせて鍼を入れ、静かにじっくりと留め、気長に気が集まってくるのを待つ。奪うときよりもなおさら、気が集まるのは術者の思惑通りにはいかない。それを「如待所貴」と表現している。十分に集まったとみたら、患者が吸うのを候って鍼を引き、気が漏れないようにその門を閉じる。
そもそも邪気は最初には絡に在ると考えている。それが絡を去って経に入り、やがて血脈中にやどる。その血脈が波立っている、でも邪が定着してしまったわけではない。そうなる前に、止めて取り去る。出会い頭に衝突するなどということは避けるべきである。これを「其来不可逢」という。邪気の動向をつかみそこねて、邪気をほしいままに暴れさせては真気が脱してしまう。そんなことにあわてるのを、「其往不可追」という。その他にも「不可掛以髮」とか「扣之不発」などとも言う。これらは、『霊枢』九針十二原篇に出る詞である。この篇との関係は興味深い。
改めて補寫とは何かと問われては、邪を攻めると答えている。すみやかに盛血を取り去ってやれば、真気は自ずと回復する。邪というものは新たに客したものであるから、固居するまえに処理すべきなのである。補寫の概念が、現在の教科書的な説明と異なるように思う。第一段の呼吸に合わせて刺抜のが、どうして補瀉でありうるのか。おそらくは、瀉は術者が積極的に奪いにいくべきである。だから、多少の痛みはやむを得ない。だが、補は患者の真気が満ちてくるのを待つべきで、痛みがあってはままならぬ。だから、患者が痛みを感じるのを極度におそれる。
さらに真と邪が合っても、格別の騒ぎになっていないものは、どう候うのかと問われて、三部九候の盛虚を揉んだり撫でたりしてみると答えている。微妙なものであるから、左右上下と比べて判断する。ここに「地以候地,天以候天,人以候人」と言うのも、三部九候診が、もともとは体表でその下に在る器官の状況を診る方法であった傍証にはなると思う。
『太素』では「黄帝問於岐伯曰」で問答が始まるのが三度有る。大きく分けて三つの段落ということだろう。
ものごとには法則というものが有る。人でいうならば、十二経脈である。天地が温和であれば何ということも無いが、寒ければ血はしぶって流れず、暑ければ気はとりとめもなく溢れる。虚邪が入り込めば、河川に風が吹いたようなもので、経脈は動じて、寸口に至って時に大きく時に小さく現れる。三部九候にしたって、突然に変化が有れば、すみやかにその路を遏すべきである。この三部九候云々も、全元起本でともに第一巻に在る決死生篇との関連がおもしろい。
さて、遏といえばつまり泻すべきなのだが、具体的にはどうするのか。患者の吸うのにあわせて鍼を入れ、気の動向とせめぎ合うことなく、静かにじっくりと留め、邪がのさばるのだけは押しとどめ、吸うにあわせて鍼を転じ(回転させ?)、気を得て(鍼尖に邪気を捉まえたと思ったら?)、患者の呼くにあわせて、ゆっくりと鍼を引き抜く。
実際には、不足で補うべきときも有る。どうするか。そのところを揉んだり、推したり、弾いたりして気をはげまし、そのうえで患者が呼くのが終わるのにあわせて鍼を入れ、静かにじっくりと留め、気長に気が集まってくるのを待つ。奪うときよりもなおさら、気が集まるのは術者の思惑通りにはいかない。それを「如待所貴」と表現している。十分に集まったとみたら、患者が吸うのを候って鍼を引き、気が漏れないようにその門を閉じる。
そもそも邪気は最初には絡に在ると考えている。それが絡を去って経に入り、やがて血脈中にやどる。その血脈が波立っている、でも邪が定着してしまったわけではない。そうなる前に、止めて取り去る。出会い頭に衝突するなどということは避けるべきである。これを「其来不可逢」という。邪気の動向をつかみそこねて、邪気をほしいままに暴れさせては真気が脱してしまう。そんなことにあわてるのを、「其往不可追」という。その他にも「不可掛以髮」とか「扣之不発」などとも言う。これらは、『霊枢』九針十二原篇に出る詞である。この篇との関係は興味深い。
改めて補寫とは何かと問われては、邪を攻めると答えている。すみやかに盛血を取り去ってやれば、真気は自ずと回復する。邪というものは新たに客したものであるから、固居するまえに処理すべきなのである。補寫の概念が、現在の教科書的な説明と異なるように思う。第一段の呼吸に合わせて刺抜のが、どうして補瀉でありうるのか。おそらくは、瀉は術者が積極的に奪いにいくべきである。だから、多少の痛みはやむを得ない。だが、補は患者の真気が満ちてくるのを待つべきで、痛みがあってはままならぬ。だから、患者が痛みを感じるのを極度におそれる。
さらに真と邪が合っても、格別の騒ぎになっていないものは、どう候うのかと問われて、三部九候の盛虚を揉んだり撫でたりしてみると答えている。微妙なものであるから、左右上下と比べて判断する。ここに「地以候地,天以候天,人以候人」と言うのも、三部九候診が、もともとは体表でその下に在る器官の状況を診る方法であった傍証にはなると思う。