落ち込むたびに、くどくどいっているから、いまさらなんだけれど、わたしの臨床のうでなんて、まったくたいしたことない。だから臨床風景を見たい、なんてのは、鄭重に拒否している。臨床の見学を拒否してみえたのは、井上先生だってそうだけど、それは患者のプライバシーを配慮してのことだったり、あるいは臨床は真剣勝負なんだ、ふざけるな、気楽に言うな、ということだったりしたんだと思う。だから、仲間内をモデルにしての実技供覧はやってみえた。
で、今、わたしは未だに臨床の指針をもとめてジタバタやっている。だから、その線で『素問』『霊枢』の解読を試みているんだけれど、こぢんまりとした読書会での様子は、ほとんどがワカラン!の連発です。迷信的な説明に素直であれば楽だけど、拒否すると泥沼です。でも、たまにはコウジャナイカくらいのことは有る。すると後から、試みた人が、たまには、センセイ!イヤ、アレハイイヨ!ヨクキクヨ!なんて言ってくれることが有る。わたし自身は、そううまくはいかないのに、悔しい、けど、うれしい。
6月も第三日曜です。
どうも第二日曜は、部屋の確保が難しそうです。
いえ、別に何か特別なことが有るわけではなくて、ただ席取りゲームに敗れているだけ、のようです。
すみません。
6月19日(日)午後1時~5時
場所は
いつものところの 二階の多目的室 です。
引きつづき『素問』を(想定した)旧本で読んでいきます。
その他は、まあ、いろいろ。
(通行本で言うところの三部九候論)
患者を診て、その予後を判断する。具体的な方法としては三部九候診と弾踝診を挙げるが、弾踝診は夾雑物程度の内容しかない。
三部は上中下の三部で、そのそれぞれに三候が有って、合わせて九候である。上部は頭角と口歯と耳目、中部は肺と胸中と心、下部は肝と腎と脾胃を診る。どこで診るか。通行の『素問』では、話の途中に中部と下部を診るべき手足の三陰と手の陽明が述べられているが、その文章は篇末に在ったもので、後代の工夫である可能性が高い。もともとは上部の場合と同様に診るべき対象の近くの拍動に触れていたのだろう。具体的には腧募穴あたりが考えられようか。それら九候のうち、そこだけが小・大・疾・遅・熱・寒・陥などということがあれば、そこに病が在ると考える。一つの身体で、拍動に疾と遅が有るというのは不審だが、古人がそう言うのだからしょうがない。
弾踝診は、左手で踝の上五寸を握り、右手指で内踝を弾き、左手のところまで響いてくるかを診る。響かないようでは脈の断絶が考えられるわけで、予後は良くないとする。その脈を楊上善は足太陰で、胃の気を五蔵にめぐらす脈だと言う。この篇でも胃の気を重視しているから、まあ妥当な説だろう。
篇末の中部と下部を診るべき手足の三陰を指示する文章を、全く評価しないというのではない。それはほとんど『霊枢』九針十二原篇の原穴診に近い。三部九候診を、胴体部に触れなくてもできるように工夫したのであるし、これをさらに突き詰めれば、例えば『難経』十八難の、関を境に陰陽を配して、寸関尺の寸で手、尺で足を診、ひいては寸で心肺、尺で肝腎を診ることにする。それをさらに左右に分けることを思いつけば、ここまで来れば、もう現代の六部定位脈診まで、僅かにほんの一歩である。
5月は第三日曜に変更です。
第二日曜はいつもの会場が、なんと満杯だそうです。
(しんじられない!なにごと?)
5月15日(日)午後1時~5時
場所は
いつものところの 二階の多目的室 です。
全元起本『素問』の 決死生 を読んでみたい。
その他は、まあ、いろいろ。
そろそろ『素問』を読み返そうとは思うのだけど、現行本で読んだのでは、王冰の、言い換えれば唐代初めの養生偏重の眼鏡を通して読むようで、それは気に入らないので、古くからの体裁じゃないかと思われる全元起本の順に読もうと思う。
唐代初めの養生偏重というのは、つまり養生さえしていれば病気になんか罹らない、という思想に殉じようということでしょう。それはまあ「恬淡虚無なれば、真気これに従い、精神うちに守る、病いずこより来たらん」というのは上々な宣言で、一般人が書軸にでもしたてて床の間に掛けるには良いだろうけど、鍼と艾を手に、さてこの病苦を如何せんというときには、如何に何でも迂遠じゃないか。
全元起本の順に読もうと言っても、現行本の『素問』の新校正を見て分かるのは、それぞれの文章が全元起本のどの巻に在ったかまでであって、各巻の中で先後は分からない。まあ、他にどうしようも無いだろうから、全本の第一巻に在ったことになっている篇を、現行本に登場する順に見ていこうと思う。そこで、先ず平人気象論。
旧本素問・(現行本で言うところの)平人気象論
主な内容は脈診である。
最初の部分は脈拍の速遅による。脈拍数には自ずから標準が有る。速すぎても遅すぎても良くない。速遅が不規則なのも良くない。当たり前の話である。しかし、脈診の初めは、このような素朴な観察であったかも知れないことは、記憶しておいた方が良い。この脈は、何処で診るのか。まあ、診やすい寸口部で良かろう。大体が、身体のあちこちで脈拍数が異なるということは無いだろう。(古人は有ると考えていたかも知れない。)
次いで、季節の脈状をいう。この脈は、古い注釈、例えば『太素』の楊上善注などでは人迎で診る。外からの気象の影響は陽である人迎で診るという原則を提示した篇があるのだから、これはまあ良い。季節に応じた脈を拍つといっても、基本はゆったり穏やかであるべきで、それを胃の気が有ると表現する。そこに季節の特徴として、春・夏・長夏・秋・冬の弦・鉤・弱・毛・石が僅かに現れる。現れ方が甚だしければ病であり、季節と相反する特徴が現れれば、その季節になって病むだろうし、相反する特徴が甚だしければ、今すぐにでも病む。長夏という季節を設定したのでややこしいけれど、もともとは四季で、相反する季節の特徴が出ること、すなわち季節の変化に反する陰陽の変化を嫌うのだろう。
後文の、太陽脈至とか、少陽脈至とか、陽明脈至とかも、季節の移り変わりに応じて脈状は変化することを言っているのだと思う。ただ、一年六季である。三陰三陽であるべき記事の三陰を欠いている。
弦・鉤・弱・毛・石という特徴と、それが目立ったときに病む蔵は、肝・心・脾・肺・腎で、この関係は、篇末には五蔵の脈診として再登場する。季節の移り変わりに応じて脈状が変化するという記事の方が、恐らくは原始であろうが、各脈状の描写はより具体的になっており、より参考にはなる。また、季節の脈を人迎で診ていたのが、五蔵の脈を寸口で診るという具合に変化しているのではないか。総じて、脈診には寸口部の脈動を利用すればいい、という方向へまとまりつつあるように思う。
この季節の移り変わりの脈状と、五蔵の脈状の間に雑多な記事が有る。
先ず、左の乳の下に拍動が有るのは当然である。中で心臓が拍っている。胃の大絡として、虚里の動と呼ぶ。あまりに強く速ければ胃実を疑う。横にそれるようなら積が有るのではと診る。絶えて拍たないようでは死ぬだろうし、拍動が衣服の上からも分かるようでは危険な状態である。
次いで寸口の脈の状態から、あれかこれかを判断するという記事が有り、「寸口」の二字を欠く記事が続く。「寸口」のとわざわざいうのは、上の季節に応じた「人迎」脈の変化と対のつもりではないかと思われるし、その後の脈とだけいう記事と二重になっているのは、記事の出所が異なることではないかと疑わせる。上には「寸口の脈が沈んで堅ければ、病は中に在り、寸口の脈が浮いて盛んであれば、病は外に在る」と記し、下には「脈が盛んで滑で堅ければ、病は外に在り、脈が小実で堅ければ、病は内に在る」と記したのが、同一人物であったとしたら、いかになんでも整理不足が甚だしい。
さらに、尺膚の状態と寸口の脈状を合わせて判断していると思しい記事がある。脈診と尺膚診を等価値に考えていた時期も想定できるのではないか。ここでは双方を利用している。
五蔵の脈が、特定の十干の日に現れると死ぬなどという記事は、評価に値しない。
臂に青脈が有れば脱血であるとか、水とか疸とかにはどうした症状が出るとかいう記事は、他とそぐわない。どこかから紛れ込んだのではないか。
そうした中に、手の少陰の脈動が甚だしいのは、妊娠の脈というのが有る。これに関しては、師匠や友人の手柄話も多いが、考えてみれば、神門の脈と即断して可いのだろうか。これが言い出されのが、手の陰経脈が二条であったころ(『霊枢』九針十二原篇の原穴は二条であったころの説)か、三条になってから(『霊枢』経脈篇には手厥陰が加わっている)かは、厳密には分からない。
後の方で、脈が四時にそぐわないのは難治とが、人は水穀を本にするのだから胃の気が重要とか、改めていうのも、この篇の未整理を思わせる。
ある地方新聞の記事:
……いよいよ終盤戦。ただこれまで候補者の姿があまり印象に残らず、違和感は否めない。……万が一、候補者が自粛ムードを利用して政策を語ることをやめていたのなら怠惰のほかない。……
あのねえ、有るべきものは演説会で政策を語ること。だったら、一般人には候補者の姿があまり印象に残らないのが当たり前でしょう。選挙公報にしっかり書いて、しっかり読まれれば十分です。
今までの選挙で印象に残っていたのは、候補者の名前の連呼と「お願いします」の五月蝿さだけだったんじゃないの。今回、静かなら大いに結構。まあ、それでも候補者の名前の連呼と「お願いします」が、ときどきは五月蝿い。自粛してくれれば良いのに。
『よくわかる黄帝内経の基本としくみ』とか『霊枢概要』とかいう本なんか出したから、誤解してくださるかたも、有るかも知れない。けれども、私の臨床の腕なんて、まったく大したことありません。どうにもならないからこそ、なんとかならないものかと、『素問』とか『霊枢』とかを引っかき回しているのです。
むかし、島田先生だったかに、東鍼校のころだったか、原塾のころだったかに、自分のシステムを築ける人なんて、ごく僅かの選ばれた人だけだ、と忠告されました。
自分を選ばれた人だと思うほどの大人物≒自信家≒ノーテンキではありません。もし、そうだったら、それはそれで何とかなった。
でも小人物でも、眼の前にあるシステムに得心がいかなければ、じたばたするしか無いわけで、それに本当は誰でも、自分なりのシステムをなんとか手に入れて、それになんとか納得しなければ、臨床なんて出来ないんじゃないですか。要は、素直か、そうでないか、だけです。
別に、素直じゃいけない、というわけは無い。井上先生は、眼の前にあった父上のシステムに素直だったのだと思う。だからご自分では、自分のやっているのが経絡治療である、なんて長い間知らなかった、と言われました。でも、本間先生の治療を見て、どうして父の弟子なのに違うのかと問うて、だって同じようにやったって効かないもの、各々が工夫して変えるべきところは変えなきゃ効かないもの、と応えられたとも言われました。そして井上先生は、やがてご自分の必要のために、新たな工夫で人迎脈口診というシステムを構築された。先生たちは、眼の前にあったシステムの改善につとめ、成功されたわけです。
だから、とりあえずは素直に従って、なんとかそれに習熟する。そして、やがて疑問を生じたら、それに対処する、というのがたぶん王道です。
でも、最初から疑問を抑えられないとしたら、それは因果な性です。どちらが有利であるかで選ぶ、なんてできません。
『よくわかる黄帝内経の基本としくみ』とか『霊枢概要』とかなんて、要するにそうした不器用ものが、足掻いた痕です。そしていまだにじたばたしている。でも、これでもなにかの足しになる人は、いるかも知れない。私自身は、東鍼校のころ、あるいは原塾のころに、せめてこの程度のことが分かっていたら、もう少しはましな臨床家になれていたんじゃないか、と思う。
はじめに虚すれば補い、実すれば泻すとか教えられて、何の疑問も無く、母を補い、子を泻して、無邪気に効いた効いたと喜んだり、六十九難とか七十五難とかをひもといて、古典を学んでいる、古人の魂にふれていると感動したり、そういう素直な人は羨ましい。
自分が学ぼうとしているもの、あるいはさらに、教えようとしているものの姿が見えている人(見えていると思っている人)が羨ましい。私には、未だ見えて来そうにない。
そうは言いながら、臨床をあきらめたわけじゃない。だから、未だに読み解こうとしている。鍼が効く理由は、効かせられる秘密は、本当はもっともっと単純なのだと思う。
川をはさんでこちら側といったって、赤々とした空に気がもめないわけはない。ましてや、飛び火のおそれはあるとなれば、心配でないわけもない。でも、しょせんは対岸の火事である。こちら側から気軽に声援を送るのは、何だか気恥ずかしい。
でも、気にならずには済まないから、小声でいってみる。だいじょうぶかあ……? だいじょうぶなわけがない!
25日といって叱られたから、29日にする。なんだかなあ。
もう、今年は観衆であることをやめよう、と思う。
といっても、もともとファンではなかった、か。
下の「なにごともなきがごとくに」とは、言っていることが違うみたいだけど、あれは(それはまあ電気スタンドくらいは灯すけど)自分一人でしこしこ、これは大量の公共物を浪費しての「商売」だからね。
東海は平穏です。
東北に知り合いは少ない。だから、切実感も、もう一つ少ない。
最初に気になった人は、無事でした。
原発が気にならないわけが無い。
でも、危惧されるような最悪の事態に陥ったら、食糧がどうのトイレットペーパーがどうの、どころじゃないだろう。
だから買い溜めに走るのは控えようと思う。
(だから今のうちに、という意見も有ろうが。)
第一、東北の人に失礼だと思う。
何ごとも無きがごとく、しらばっくれていよう、と思う。
かつて、騒然たる紛争のまっただ中の研究室で、しこしこと重箱のすみをつついていた教授はステキだと思うし、それを容認したナントカ派の学生もすてたものじゃないと思う。その、やっていたことの学問的レベルは、この際どうでも良い。
今は原発の安全宣言を、黙って祈って待っています。
次いでは、東北の人の復興への底力を信じようと思います。