靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

4月の読書会

4月は,予定通りの第二日曜です。

 4月10日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 一階の会議室 です。

おとなのけんか

一部?の報道がいうように,献金した外国人というのが在日韓国人の老婦人で,M氏のことを子供の頃からよく知っていて,信頼できる人だと感じていて,あるいはさらに愛情を生じての献金(5年間に毎年5万円ずつ 計25万円 だって)であったとしたら,……まあ,それでも拙かったとは思いますよ,でもね,そこをつついて騒いで,無邪気に正義を説いて,鬼の首でも取ったように浮かれている輩も,あんまり尊敬には値しないような。

3月の読書会

3月は,久しぶりに予定通りの第二日曜です。

 3月13日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 一階の会議室 です。

人の都合で……

鳥インフルエンザ,全殺処分しか無いんでしょうか?
免疫がつくのを期待するわけには,いかないんでしょうか?

免疫が間に合わない,その間にどんどん死んでしまいます。
免疫がつく前に,突然変異で人間への感染力が高まる恐れも有ります。過去に,教訓的な事例も有ります。


まあ,全殺処分しか無いのかも知れない。

でも,我々のような,細菌を見つけた→細菌を殺せ→殺した→治った,という医学とは別の医学を模索している人間が,全殺処分しか無いんです,と言われて,あまりにも素直に簡単に納得するのは,やっぱりなんだか納得しにくい。

渡り鳥が運んで来た可能性を言いますよね。
渡り鳥は,別に絶滅してません。来年もきっとまた別のを運んで来ます。

社会に迷惑な病は,隔離して,滅びるのを待つ。
なんだか,別の病の歴史で,聞いたことが有るような気がする。

校勘注記

汗の汚『諸病源候論』巻第三十二の癰疽諸病上の癰候の末尾に、「又云人汗入諸食中食之則作丁瘡癰癤也」とあります。
で、対校していて、「汗」が「汙」になっている写本が見つかったら、麗々しくそれを記すべきなんですか。筆書きで、はねるか、はねないかなんて、ほとんど書き手の気まぐれみたいなんですが。読み手は、文脈から判断するしかないじゃないですか。はねる、はねないじゃないけれど、巳・已・己なんて、つくの、つかないのって、漢字のテストには出るかも知れんが、古籍では版本でもほとんどみな巳じゃなかったっけ。
それは「汙」になっている本を見つけたら、ちゃんとメモしておくべきだとは思いますよ。だって人の汗って、うっかり口にしたら丁瘡癰癤になっちゃうほど、危険なものなんですか。そりゃまあ、不潔には違いないけれど。実は「汙」で、だから「汚」の異体字で、だから「人汚」は例えば人糞なんだったら、そりゃまあかなり危険かも知れない。汗だって排泄物だし、汚いには違いないから、五十歩百歩だけれど、この五十歩は結構大きいんでないの。
で、つまり「汗、一本作汙」と注記することもさることながら、「汙」は「汚」の異体字であると、教えてくれないと価値が相当に下がるんでないの、ということ。逆に、発汗すれば風の初期は治るとかいう文章でだったら、汙に作る本が有るなんてのは余計なことなんじゃないの、ということ。汙に見えるけれど、はねているのは間違いで、汗だよという注記は、あるいは有効かも知れないから、やはりややこしい。

人民衛生出版社『諸病源候論校注』(丁光迪主編 1992年)にも、「汚」じゃないかなんて記事は有りません。この本、随分と異体字を気にかけて、50頁ちかい表を載せてるんですがね。

あれしき

これはもう MorningBlueDragonの祟り ではあるまいか

研と記聞と考

『黄帝内経研究集成』に銭超塵先生の「金窪七朗《素問考》与丹波元簡《素問記聞》」というのが載っています。1999年に『北京中医薬大学学報』に発表されたものだそうです。で、2004年の11月に韓国はソウルで開催された大韓韓医学原典学会・国際学術大会の後の晩餐の席、中国から参加なさっていらした銭先生との会話の中で、多紀元簡の『素問識』と金窪七朗の『素問考』の相似を指摘され、多紀元簡と金窪七朗と、どちらが老師であるか論争(?私は酒が入っていたと思う)したんです。この件に関しては、当時、内経のBLOGでぐだぐだいってたんですが、今、改めて銭先生の論文をみると、いやなつかしい。

そこで、ここから先は妄想です。当時、ひょっとしたらと思ったことが、ふくらんで妄想と化したというわけです。

多紀元簡の『素問識』は、偉大な著作にはちがいないが、最近の評価としては、稲葉通達の『素問研』に負っているところはかなりあるというのが常識的です。ましてやその準備としての『素問記聞』においては……、ということになるんでしょう。
稲葉通達が如何なる人であるか、当時も今もさして明らかではないけれど、医家になって(少なくとも)三代目で、かなりの著述が有ったらしい。ところで稲葉氏で有名なというと、豊後臼杵の藩主で、関ヶ原の戦いの後、美濃から入ってきて、幕末・廃藩置県にいたっています。この一族は「通」の一字を諱に用いています。藩主は下の一字として。だから、通達も藩主の一族のはしくれかもしれない。
もう一方の『素問考』、これの筆者は鼇城公観ということになっています。でも、この名は日本人としては異様です。今ならペンネームとでもいうのではないか。で、いろいろ調べているうちに、偶然にも豊後の臼杵城の別名の中に「鼇城」というのが有ることが分かりました。とすると、豊後臼杵の藩主一族が変名を用いようとしたとき、鼇城某というのを思いつくのも自然じゃないか。後に改姓名して金窪七朗としたのは、母方の氏でも用いて、稲葉一族としての束縛からも逃れたかったんじゃないか。
で、多紀元簡と金窪七朗と、どちらが老師であるか。もし、鼇城公観なるものが、稲葉通達の子孫で、それが多紀元簡の師匠になっていて、しかも周囲の誰も知らない、というのは異様じゃないか。多紀元簡の『素問』講座に、稲葉通達の子孫が変名して紛れ込んでいても気づかれなかった可能性なら有りそうに思う。そして多紀元簡の講義内容は、ノートのようなものが受講者の書き写しをある程度許されていたとする。そこには多紀元簡の説も勿論記されている。それが「桂山曰」云々と書き始められていたのは当然でしょう。鼇城公観なるものにはやや粗忽なところがあって、「桂山先生曰」と改めるところまで気が回らなかったんじゃないか。
あるいは、鼇城公観が後に改姓名して金窪七朗というのではなくて、もともとそう名乗っていたのかもしれない。稲葉氏でなく金窪氏という理由は分かりようがないが、当時は今ほど苗字というものも杓子定規なものじゃなかったから、場面に応じて使い分けたかもしれない。ノートには鼇城公観輯などと署して、稲葉通達の子孫であり、引いては豊後臼杵の藩主一族であることを、秘かに誇っていたのかもしれない。

だから、これは妄想ですよ。証拠なんか有りそうにない。念の為。

2月の読書会

2月も,第二日曜には別の予定が入っちゃいましたので、やはり第三日曜に変更です。

 2月20日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 二階の多目的室 です。

『太素』21の九針要道と九針要解の関わり、言い換えれば、『素問』針解とか『霊枢』小針解とかが解説しようとした資料は、もともとはどんな文章だったんだろう、なんてことを考えてみようかと思います。勢い余れば、『霊枢』の編者は、その原材料をどんな具合に改編したんだろうとか、改悪ってことはないかねえとか、まあそんなことを……。

人迎脈口診とは何だったのか?

Ⅰ 『霊枢』の旗印か?
 話の発端は、先輩諸氏から、『霊枢』を代表する脈診は人迎脈口診であり、『素問』を代表する脈診は 三部九候診であると教わってきたが、はたしてそうか、という疑問である。
 人迎脈口診の主な資料は『霊枢』に在る、という主張に異存はない。ただ、人迎脈口診とは何かを曖昧にしたままの発言であったとすれば拙いだろう。『霊枢』のいくつかの篇に紹介されている人迎脈口診には、歴史的変遷があったはずであり、それはそれぞれの段階ごとに評価すべきである。そこで方便として、『太素』の構成と、その楊上善注とを参考にして、資料が出そろったころの様子をうかがい、「人迎脈口診とは何だったのか」という問題を、少し考えてみようと思う。
……
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あけまして

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