靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

新発見の医簡

 中国在住の某氏の情報によれば、上海中医薬大学は、香港の骨董市場にもちこまれた戦国末~前漢の竹簡若干を入手した模様。内容は医学に関わるもののようで、五色、奇咳、揆度、石神などの文字が見えるそうです。ただし、長く水に漬かっていたものらしく、コンニャクのようなぶよぶよの状態で、上海中医薬大学では扱いかねて、現在、上海博物館に初歩的な処理を依頼しているとのことです。内容についての研究は処理が終わってからになりそうです。なお、出土地は山東のようですが、盗掘の品らしく詳しくは不明。
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九霊

 古代の書籍には、まともな名前がついてなかったものが多い。我々の世界でもそうで、中でも今いうところの『霊枢』などはひどい。分量が9巻だったから『九巻』なんだって。そういう分量の書籍なんて他にも有ったろうに。ましてや9というのは聖数なんですよ。そこで別名がどんどん付けられた。『鍼経』なんていうのは、内容にそったまともなものみたいだけど、これだって九針十二原篇の初めにある「先立鍼経」から取ったんで、別に全体の内容を吟味して鍼の経典として名づけたものじゃないみたいです。だから、「鍼に関することばかりじゃないのに」と批難するのも的外れかも知れない。
 魏晋南北朝から隋唐にかけては、道士たちが自分たちの価値観にもとづく名前をつぎつぎと生み出したようです。『九虚』、『九霊』、『霊枢』など。別に特に道教徒の気に入るような書物じゃないと思うんですがね。いつの時代もファンの大部分は誤解して熱狂している。
 で、『九霊』は、『唐志』に「黄帝九霊経十二巻 霊宝」とある。だから「九」は昔の巻数であったにせよ当時は違うし、「霊」は霊宝の一字を取ったというのは言い過ぎだろうけど、霊宝と名乗ったのと、『九霊』と名づけたのは同じ発想なんでしょう。
 九霊は、枢の略であるという説も最近見たけれど、確かに文献に登場する順番と実際に呼ばれていた時代は微妙に食い違っているかも知れない。
 と、ここまでは前置きで、一寸おもしろいものを見つけたので紹介しておきます。
……また一説、初めの三皇の時には玄中法師となり、次の三皇の時には金闕帝君となった。伏羲の時には鬱華子となり、神農氏の時には九霊老子となり、祝融氏の時には広寿子となり、黄帝の時には広成子となり、顓頊氏の時には赤精子となり、帝嚳の時には禄図子となり、堯の時には務成子となり、夏の禹王の時には真行子となり、殷の湯王の時には錫則子となり、周の文王の時には文邑先生となった。あるいは王室文庫の司書であったともいう。越の国では范蠡となり、斉の国では鴟夷子となり、呉の国では陶朱公になったともいわれる。……
 だから何なんだ、なんですがね、『神仙伝』(晋・葛洪)の老子の項に載ってます。もっとも『列仙全伝』に引く混元図は「神農時為太成子」です。他にも少しづつ異なるものが有る。ちなみに『列仙全伝』は漢・劉向の『列仙伝』とは別で、仙人の伝記の集大成として明代の編輯です。
 彭祖が師匠から承けた著述の中にも『九霊』が有るともいうが、これは文字の誤りの可能性が高いらしい。

弥生の雪

 寒い寒いと思っていたらなんと雨交じり雪降る夜です。気がついたのは昨夜十一時ころ、まさか積もりはすまいと思ってましたが、朝起き出して見ると屋根、車、樹木の上などは白い。
 今朝もまだ降り続いています。
 昼、さすがに降り止みました。
 夕方、ほとんどきれいに消えました。ほとんどまぼろし


 今日は旧暦三月二日、例の桜田門外の変は、たしか桃の節句に登城してくるのを待ち伏せたんだと思う。むかしも有ったんですね、弥生の大雪。
 ゆきかとまどうきさらぎのはな はなかとみやるやよいのふぶき

櫟窓

 江戸の考証学者の多くは、号の一字に植物を用いている。先ず伊沢蘭軒がそうであるし、その子の榛軒と柏軒、榛軒の養嗣の棠軒、みなそうである。多紀家でも、元簡は桂山、元胤は柳沂、元堅は茝庭。茝が、セリ科の香草でヨロイグサというのが、具体的にどんなものか知らないが、みなまあまともな植物を選んでいる。森立之の枳園は皮肉れていて、『晏子春秋』の「橘は淮南に生ずれば橘と為り、淮北に生ずれば枳と為る」をふまえて、在るべきところに居ないとうそぶく。無論、橘のほうが価値が有るという常識に従えば、であるが。
 問題は元簡の別号の檪窓である。これは、おそらく『荘子』人間世篇の次の話をふまえていると思う。右上の絵は櫟にとまる鸚哥。
 匠石齊に之く。曲轅に至りて櫟社の樹を見たり。その大いさ數千牛を蔽い、これをはかるに百圍あり、その高きこと山を臨む。十仞にして後に枝有り、その以て舟を為るべきもの旁に十數あり。觀る者市の如し。匠伯顧みず、遂に行きて輟まらず。弟子つらつらこれを觀て,走りて匠石に及びて曰く、「吾れ斧と斤を執りて以て夫子に隨いてより、未だ嘗って材の此くの如くそれ美なるものを見ざるなり。先生肯て視ず、行きて輟らざるは、何ぞや?」と。
 曰く、「已めよ。これを言うこと勿れ!散木なり。以て舟を為れば則ち沈み、以て棺槨を為れば則ち速やかに腐り、以て器を為れば則ち速やかに毀れ、以て門戶を為れば則ち液をふきだし、以て柱を為れば則ち蠹まる。これ不材の木なり、用うべき所無し。故に能くかくの若く壽し」と。
 匠石歸る。櫟社夢に見れて曰く、「なんじは將になににか予を比さんとするや?なんじは將に予を文木に比さんとするか?それ柤梨橘柚果蓏の屬は、實熟すれば則ち剝れ、則ち辱しめらる。大枝は折られ、小枝はなだめらる。これその能を以てその生を苦しむるものなり。故にその天年を終えずして中道に夭す。自ずから世俗に掊ち擊かるるものなり。物はかくの若くならざるは莫し。かつ予は用うべき所無きを求むること、久しきなり。幾んど死せんとして、乃ち今これを得て、予が大いなる用を為せり。予をしてまた用有らしめば、かつこの大なるを有するを得んや?かつまたなんじと予はまた皆物なり。柰何ぞそれたがいに物とせんや?なんじは幾んど死せんとする散人なり、また惡んぞ散木なるを知らんや!」と。
 匠石覺めてその夢を診す。弟子曰く、「すすみて無用を取るに、則ち社と為れるは何ぞや?」と。
 曰く、「密にせよ!なんじ言うこと無かれ!彼また直だ寄せしのみ。以て己を知らざるものの詬り厲しむると為すなり。社と為らざるも、またあに翦らるること有らんや!かつまた彼その保つ所は、衆と異なれり。しかるを義を以てこれをはかるは、また遠からずや!」と。
 これをもって思えば、檪窓もまた世をすねた号である。彼が幕府の医官であったことも、「すすみて無用を取るに、則ち社と為れるは何ぞや」に対する「彼また直だ寄せしのみ」が弁明になっている。その保つ所は、衆と異なれり。

花の下にて

 今年の開花宣言は早い、と言ってもつい先頃、実際の見頃はそれから一週間ぐらい後らしい。で、西行法師の:
願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ
 例えば今年の旧暦二月の満月は、新暦の三月十五日。「きさらぎの望月」に桜は、ちと、早過ぎやしませんか。和歌で花と言えばということになっているけれど、この花、本当に桜なんでしょうか。いまの染井吉野は、むかしの山桜より遅いのでしょうか。それとも、「やよい」では字数が合わないからの絵空事なんでしょうか。
 二月十五日は涅槃会だから、実はそっちのほうに重点が在って、文学的虚構として開花時期を早めたんじゃなかろうか。満開にはちょっと早そうだけど、まあ、絶対に咲いてるわけがない、というほどでもない。
 それにしても、西行の命日は実際に二月十六日、きさらぎの望月のころなんだってね。

一年の始まり

 日本では、四月から新たな年が始まるような気分が有る。入学式はその最大の理由だろうし、桜の満開がそれを後押ししている。
 また、正月から年が始まるにしても、旧暦のほうが良い、つまり春節こそ本当の正月と考える中国人に、共感する人もいる。新暦の一月一日では、とても初春とは思えない。
 これらは、一年は春から始まるという考えである。
 しかし、純粋に陰陽説に則って考えるならば、陰が極まって一陽が生じる冬至こそが年の始まりに相応しい。一年は冬の真っ直中に始まる。
 だから、『霊枢』順気一日分為四時篇に、冬は井を刺し、春は滎を刺し、夏は輸を刺し、長夏は経を刺し、秋は合を刺すと言っているのは、まったく相応しい。出る所を井と為し、溜まる所を滎と為し、注ぐ所を輸と為し、行く所を経と為し、入る所を合と為すのとも、ぴったりあっている。

鶯はウグイスに非ず

 青木正児『中華名物考』に「鶯はウグイスに非ず」という文章が有った。
『本草綱目』によれば、黄鳥は一に黄鶯、また黄鸝・鵹黄・楚雀・倉庚などと呼ばれて、立春後すぐ鳴き出して、麦の黄ばむころ最もよく鳴き、その声は円滑で機を織るようであると。これはまずウグイスに当てはまる要件であるが、その形色が違う。すなわち鸜鵒(哵哵鳥)よりも大きく、体毛は黄色で、羽及び尾に黒毛があって相間て、黒い肩、尖った嘴、青い脚、とある。これでは「体毛は黄色」以外は一つもウグイスに該当しない。……ところで私が夜鳴くように考えたのは見当違いで、実は朝非常に早く、人がまだ眠っているうちに鳴くのらしい。それは唐詩を見ると、春暁に鶯を聞く詩が多いのに徴して明らかである。
 日本では梅にウグイスであるが、中華では柳に鶯であることにもふれて、杜甫の対句を例に挙げてある。
兩個黄鸝啼緑柳 一行白鷺上青天

西湖の柳

 杭州西湖の春は柳、夏は蓮、秋は月、冬は雪。杭州へは何度も足をのばしたが、さすがに断橋残雪には出会ってない。カラーの写真を見た記憶は有るから、近年全く降らないというのでも無かろうが、先ず望み薄だろう。上海ですらちらほらしだしたと思ったら、地に触れるまえに消える、というのを一度目にしただけ。
 春の柳は素晴らしい。しだれ柳が湖水に垂れている。薄曇りか、いっそのこと雨模様のほうが好ましい。桃と柳が中華の春の景色というけれど、桃はともかく柳の良さは西湖で始めて知った。鶯が柳の間で鳴いている。柳浪聞鶯、これも西湖十景の一つ。もっとも、中華の鶯は、我が鶯とは違う種類らしい。梅でなくて柳と取り合わせるのも面白い。
 梅も西湖の孤山に沢山に植わっているはずだが、満開を観た記憶は無い。ちょっとづつ時期をはずしていたのだろうか。


 森鴎外の史伝小説に江戸の漢学者が長崎へ商売に来る清国人に依頼して、西湖の柳を手に入れようと苦心する話が有ったように思う。当時の人々はいくら中華に憧れても、自ら赴くことは夢のまた夢だったわけだ。今ならそんなことは無いし、柳は枝を折って挿せば根付くと言われるほど丈夫なものだから、今度行ったら一枝をポケットのしのばせてこようと思っている。もう十年ほどになろうか、未だ果たせないでいる。

緑蕚の梅

 先日、市内の公園へ梅見に行ったんですが、白梅は満開、紅梅の蕾はまだ固いのが多いといった情況でした。例年なら、三月初めの梅祭りには盛りを過ぎているくらいなのに、今年は異常ですね。
 ところが、桜のほうはもうチラホラと開花宣言。いつもと同じく、小学校の入学式は桜吹雪か、ひどければ葉桜という予想です。
 そこで:桜咲いたぞ、梅はまだかいな。
 ところで、宋・范成大の『范村梅譜』に、緑蕚梅について:
およそ梅花の蕚はみな海老茶色なのに、ただこの品種のみは緑で、枝も小枝も青く、特に清く気高いので、好事家はこれを九疑山の仙人蕚緑華に喩えている。京師の艮嶽に萼緑華堂というのがあって、その堂の下にはもっぱらこの花が植えられていたが、民間には多くないので、当時は貴重されたものである。
 私の好みのものは、この緑蕚梅のようだけど、徽宗皇帝と趣味を同じくするのは、光栄なんだか恥ずかしいんだか。ただ清・文震亨『長物志』にも、「緑蕚が一段とすぐれ、紅梅はちと俗だ」と評されている。また我が青木正児『中華名物考』にも、緑蕚梅についての文章が有って、日本ではアオジク(青軸)と名づけ、花の香りが非常に高いとして、「読者諸君の中に、もし緑蕚を知らずして梅は香ると思っている人があったならば、それは妄信に過ぎない」とまで言う。

黄帝と炎帝

 黄帝伝説の主要な内容は、炎帝との戦いであり、炎帝は即ち神農であって、神農は百草の滋味を嘗めて、医薬の祖となっている。してみると、針の経典を黄帝に仮託するのは、「毒藥を被らしめることなく、砭石を用いることなきを欲し、微針を以てその經脈を通じ、その血氣を調え、その逆順出入の會を營せんと欲す」云々と関係が有って、黄帝が炎帝を滅ぼしたのと同様に針が薬を凌駕するのを標榜している、と言いたいところであるが、そうもいかない。『太平御覧』に引く『帝王世紀』に「帝使歧伯嘗味百草,典醫療疾,今經方、本草之書咸出焉。」とある。


 炎帝が神農なら、黄帝は何かと言うと、軒轅なんですね。でも、軒轅って何なんだ!?
 あんまり考えたことが無かったでしょう。それがねえ、『山海経』海外西経には、次のようにあるんです。
軒轅之國在窮山之際,其不壽者八百歲。在女子國北。人面蛇身,尾交頭上。
 そりゃまあ、古の天神に人面蛇身は多いわけで、伏羲や女媧もそうなんですがね。
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