靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

酒餘茶後

《漢語大詞典》云:
【酒餘茶後】 指隨意消遣的空閑時刻。魯迅《集外集拾遺・帮忙文學與帮閑文學》:"但依我們中國的老眼睛看起來,小説是給人消閑的,是爲酒餘茶後之用。" 亦作"酒後茶餘"。老舎《青蛙騎手》第二場:"人人都會在你身後指指點,拿你呀當作酒後茶餘的小笑話。"
 或作【茶餘酒後】

旧暦に寄り添う暮らし

「旧暦に寄り添う暮らし」には賛同するけれど、
骨、脳、肺。人間の体を表す漢字に"月"が多いのも、生理の月の周期と同じであるのも、旧暦が人間のリズムに合っているのを示している。
には絶句。馬鹿じゃなかろか。

加納城の桜

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8日の読書会の前に,加納城跡で花見をしてきました。
今年は咲いてからまた寒くなったので,なんとか間に合いました。

タイザン鳴動

ちょっと気になって調べてみたんですが、泰山鳴動なのか大山鳴動なのか。タイザン鳴動してネズミ一匹というのは、中国の諺じゃなくて、ましてや日本の諺じゃなくて、出典はホラーティウスの『詩論』で、ギリシアの諺「山が産気づいた。そして鼠一匹を生み落とした」にもとづくものらしい。とするとその山はギリシャのオリンポスである可能性が高くて、東洋に訳し移せばやっぱり泰山でしょう。多分、明治の漢学の素養のある人が訳したんでしょうから。

これ本当は泰山の山頂のホテルで書き込むつもりだったんだけど、さきの紀行文のような事情でダメだったんで,いま書き込んでおきます。

北京でもう一日

3月29日 北京
北京駅到着が早朝の5時11分、だから30分程度前には明かりがついて、車掌がたたき起こしにくる。少々早いがなんてことはない。睡眠時間を縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境に入ってはなはだ嬉しい。(誰のなんという小説の台詞だかわかりますか?)
北京は今回の旅で初めての雨、実はインターネットの予報通り。
ホテルのバイキングを覗いて、とりあえず朝のコーヒー、はっきり言って曲阜のコーヒーのほうがはるかに美味い。
さて、今日は雨降りでもあるし、疲れもあることだから宿で英気を養おうなんて言って、中関村近辺の書店巡りを誘われたのを断っておきながら、昼頃に雨もあがって、人に王府井へ買い物にいくといわれると、つきあおうか、そういえば僕も息子にたのまれた土産がまだ、なんてことで結局は中関村近辺へ赴いたものを除いて王府井の新華書店へタクシーで乗り付けて、昼飯として小吃街でわけのわからない包子や麺を食って、もの好きに地下鉄で西直門まで帰って、そこからタクシーでご帰還。
さて、最後の最後の食事をどうするか。山東ではどこでも紹興酒が高くてあきらめていたのが心残りということで、地図で咸亨酒店というのを探して、ここにしようと。門童に聞いたら、知っているようなので安心していたのだけれど、それらしい場所に至ってもそれらしい看板が無い。あるいはこの建築現場がそれに当たるんではないか、というのは有りました。北京奥運前という画期的な時代ですからね、昨日あったものが今日もあると思ってはいけない。タクシーの運ちゃんもさすがに憂い顔で、じゃしかたがないから孔乙已酒店にしようかというと、我知道!とうれしそうでしたね。実はそこは北京へついた次の日だかの夜に一度いっているんですが、肝心の紹興酒にご執心の人は、その日は別口の予定が有って不参加。私は孔乙已酒店と咸亨酒店の飲み比べのつもりだったけれど、彼にはどちらでも異存はない。
孔乙已酒店は北京に何軒かあるみたいだけれど、我々が行ったのは後海南岸です。運ちゃんは我知道といったけれど、実は店の真ん前に乗り付ける道はすでに工事の都合でふさがっていて、ぬかるみを歩くはめに。
それにしても中国に10日いる間にうらをかえしたんだから、立派なもんだ。
紹興酒は太彫を1斤で25元、別に高くもない。味も瓶詰めよりは遙かに佳い。おきまりの茴香豆と臭豆腐はとりあえずとって、後はまあ何でも良いや、と。本当のところ、空港の規制のおかげで、太彫を瓶詰めお持ち帰りで土産にできないのが残念です。
さて、じつは最後の孔乙已酒店には、中関村近辺の書店巡りに行くといっていたものは参加してない。まだ帰ってなかったからだ。いいかげん帰っていてもいいはずだとは思ったけれど、なにせ本のムシのような人ですからね、心配しないふりというか心配するふりをするというか、別行動にしました。
でも、さすがに飲み食いしてホテルに帰って、それでも帰ってなかったら、これはさすがに事件だろうと、少しは心配して部屋をノックするとちゃんといました。結局、中関村付近へは行かなかったらしい。それではどうしていたかというと、ホテルの向かいの動物園へ行っていたという。うん、いい趣味だ。私もむかし成都で時間をもてあまして熊猫を観にいったことがある。その後はホテルの周辺をほっつき歩いていたらしい。うん、いい趣味だ。私も旅の醍醐味はなんでもない街のほっつき歩きだと思う。

今回の北京・山東の、本来の面目は北京での銭超塵教授、段逸山教授との交流です。その件については、内経のブログのほうに書いてあります。

山東珍道中/恐行軍6

3月28日午後 曲阜~29日早朝 北京
宿のチェックアウトは正午なんだけれど、私の房間だけ夕方6時までにしてもらって、6時に宿の看板にもなっている魯国伝統と称する孔府家宴を予約して、それまでの間に元気な人は孔林あたりを観光して、身体不舒服である私はふせっているという段取りにしました。6時までなら半額ですみますしね、半額なら(日本円になおして)2000円はしない。孔子一族の墓参りなんかしない、というおおちゃくな考えもあります。

多分3時過ぎ、ひょっとすると4時近くまで寝て、孔林から帰ってきたのと近所に見つけたコーヒーショップに行きました。いれかわりにちょっと風邪気味というのが横になる。コーヒーは深煎りに過ぎるとはおもうけれど、まあまあまともな味でしたよ。ただし高い。安めの店ならビール2本分だろう。
孔府家宴は、それはまあ安くはない。一人あたり150元からというのの150元にしてもらいました。過去の経験から、内容もさることながら、奮発したって食いきれない。
広々とした個室の中央に大きなテーブルがでんとしている。10人くらいまでなら両肘張ってもゆったりじゃないか。4人だから互いの話も,小声では通らない。隣の人にお酌もできない、という感じ。それをかわいい小姐がつきっきりで面倒をみてくれる。何が出たかはもうろくに覚えていないけれど、とりあえずスープはフカヒレ、ナマコの煮物と東坡肉(らしきもの)とトウガンに詰め物をして蒸した仏跳牆とかいうのの小振りなやつは出た。とくに孔子の時代にはこだわってないようだが、仏跳牆は書物の形にして、「論語」と刻んであった。簡体字ですがね。品数も量も、案の定食いきれない。

帰りの列車が、軟臥を鉄道官僚に横取りされて硬臥になったのは、北京ですでにわかっていたけれど、曲阜からのはずが兗州からになっている。別に問題はないんですが、若干遠い。といってもゆっくり食事して、手配しておいたタクシーに乗って、予定の時間より早めに駅につきました。兗州21時33分発、北京5時11分着です。夜行列車が汽笛を鳴らしながら駅に入ってくるのを待つ、というのはなかなか良いものですよ。硬臥の客の文明度もむかしよりうんと向上してますし。ただ、3段ベットの上段は勿論、中段によじ登らせるの危ないと判断されて、下段を提供されたので、私自身はまあまあ快適でしたが、上中段は暖房がきつくてしんどかったらしい。

山東珍道中/恐行軍5

3月27日~28日 曲阜
曲阜には27日の午後、多分3時ころには到着して、曲阜から北京へ帰る列車は28日の夜発で29日早朝に北京着の予定だから、予定よりかなりのんびりできました。
長途汽車站で降りると、早速タクシーの客引きが寄ってきてしつこいしつこい。こちらは体調不良で、それらを適当にあしらうのもしんどくて、かなり邪険に振り切って、さて実際の街と事前の情報をつきあわせると、宿までは歩いて15分程度、地図の印象ではもっと近そうなので、散策を兼ねて宿まで歩くことにする。純現代中国的な街ですからね、それ自体が本当は旅の醍醐味だと思うしね。
まあ、結構好みの雰囲気だったけれど、孔子の薫陶よろしき礼儀正しい街というのは嘘だねえ。

宿は闕里賓舎、孔府の南で、地図の印象では孔府と道を隔てて入り口が向かい合っているのかと思ったけれど、違いましたね。考えてみれば当然で、伝統的な様式では入り口は南に開いているべきです。この宿では単人房間を4つ予約しておきました。安かったのが第一の理由だけれど、普段寂しい生活に慣れている私としては、そろそろ疲労している曲阜では一人になってぐったりしたいというつもりも有りました。まあ、予想以上にぐったりになってしまったわけですが。元気な人たちが宿の周辺を散策している間、私一人はほとんどの時間寝ていました。と言いながら、目が覚めるとのそのそと宿の近くに見つけた新華書店をのぞいて雑書を買ってくる。度し難いねえ。
夕食は、最終の28日を宴会にすることにして、27日はごく簡単に。他の3人の厳しい監視のもとビールの本数を制限されたからとはいえ、一人あたり20元たらずだったように思う。

28日の午前は、孔廟へ。その拝観料にたじろぐ。53元ですよ。岱廟の倍じゃきかない。でも、他の中国人観光客も素直に払っているようなんで、あきらめて首をふりふり購入しました。なんといってもここに保存されている扁鵲とされる画像石を見るのもこの旅の主目的でしたしね。
ところがですね、画像石が陳列されているはずの大成殿の西廡がこの状態です。

これにはかなり焦りましたが、無いものは無い。孔廟を退散した後で、孔府の一部(?)に碑林が有ったはずということで確かめに行きましたが、そこはいずれも書道作品ばかり。よって考えるに、大成殿の東西の廡を整理して、そこには先賢の神位を安置した。あるいはもともとそれが本来のかたちであったかも知れない。そこで、石碑は碑林に移動させた。画像石はどうなったか。あるいは出土地の微山(だったかな?)に博物館を作って安置することになったのかも知れない。むかし買った画集に扁鵲の画像石は孔廟に所蔵されていると書いてあったのと、インターネットの情報が一致したのを、鵜呑みにしたのが拙かったようです。上の写真でも分かるかと思うけれど、そう言えば神位の壇はそんなに古いものではない。
これにはさらにどっと疲れて、昼飯は宿の向かいやや東のレストランで軽くすませませて、私はまた午睡です。

長くなるので、続きはまた稿を改めて。

山東珍道中/恐行軍4

3月26日 泰山→曲阜
さて、翌日は皆さん早起きして日の出を観に行きました。わざわざ山頂に無理して宿をとったのは、それが目的ですからね。でも私は房間でビールの残りを飲みながらぼんやりしてました。雲の様子からそんなに良くは観えないだろうと判断したから、というのは嘘で、前に一度登った時の経験から、下の写真の道観の後ろの岩山をよじ登る必要が有ると思ったからです。写真自体はもう少し夜が明けてからのものです。

3人が帰ってきて、報告を聞くと案の定、見事なご来光というわけにはいかなかったらしいけれど、少し日があがった状態では結構見物だったらしい。よかったよかった。
で、心配なのが下りのゴンドラで、常識的には計画停電のせいで運休していたのだから、今日は動くはずだけど、常識を信頼してはいけない国というのも常識だから、おそるおそる動いているかどうか確かめると、動いてましたねえ、よかった!と、思ってしばらく宿の近くを散策したりして目を離して、ふと見るとゴンドラがいくつか連なって停止している!!冗談じゃない。かなり焦りましたがね、またしばらくするとゆっくりと運転し始めました。これはもう動いているうちに下山するに限ると、泡食って荷物を背負いましたよ。
ゴンドラでの下山はもう楽なもので、はやばやと岱廟に詣でる。岱廟はかなり立派でかなり広大ですが、まあ単なる休息所でしたね、私にとっては。

写真はお姫様とその侍女もとい母親(らしい)。まあ甘えちゃって、ネコっ可愛がりで、だけどこの時分はまだ稚っちゃな無邪気なお姫様で、デカいツラの我が儘なお姫様ではないのだから、まあ良いじゃないですか。

昼飯は岱廟を北に出た左手にあった「なんとか人家」という、つまり泰山地方の家庭料理を標榜した店に入って、最初は躊躇した赤鱗魚のフライも結局は注文。何だが稚鮎に似た味でしたね。味はまあ良かったけれど、他の料理全部と飲み物を合わせたよりも高かったんじゃないか。
曲阜へは、確か火車站に小ぎれいなマイクロバスが何台もいて、「曲阜」と看板を掲げたのもいたはずだ、というわけで、結局、最初の予定よりは3~4時間も早く到着しました。泰山から曲阜までも一時間強といったところでしょうか。

曲阜での話はまた後で。

山東珍道中/恐行軍3

3月26日 泰山
済南から泰安へ長途汽車つまり長距離バスで移動して、五月蝿くつきまとう出租汽車つまりタクシーの客引きを蹴散らして、汽車站近くの水餃で腹ごしらえして(そういえば山東にはやたら水餃の店が多かったような気がする。日本のラーメン屋の感じです。)、歩いて泰山に登るとがんばっている一人を登山口まで送って、後の三人は再び火車站までUターンしてきて遊覧バスを探すこととする。はじめタクシーの運転手には岱宗坊と言ったんだけど、そこから本当の登山口まではかなり有りそうだったのでもう少しもう少しといっているうちに機嫌が悪くなりそうだったので、マアマア約束より10元プラスするからとなだめてニコニコと。なに、10元って150円くらいのものですがね。
で、火車站まできて遊覧バスを探すんだけど、それらしいものが無い。駅前で飲み物なんかを売っているお兄ちゃんに聞いても知らないという。さてどうしたものかと思案しているとお姉様がよってきてタクシーの客引き。話を聞いてみるとタクシーで中途まで行くと特別許可の観光登山バスが有って、その終点からゴンドラが出ているということらしい。で、お姉様の勧誘にのることにしたら、単なる勧誘員じゃなくてご本人が運転手でした。もともと泰山のゴンドラには3路線があるらしいので、登りは裏側にあたる桃花源索道を使おうということで、桃花峪というところまで走ってもらった。
さあ、ここからが事件の始まりで、桃花峪に着いてみると、今日は登山バスは運休だという。全山停電でゴンドラは動いていない、だからそれに乗る站までのバスも走らない、というわけ。そんなことをいわれても、すでに一人は登りはじめているし、第一宿は山頂に予約してある。一般的な登山路では中間が中天門で、そこまではバスで行って、そこからは歩いて登るというのもまた一般的である。多分、そっちの登山バスは走っているだろうということで、急遽引き返してもらって、やっぱり走っていた登山バスで中天門まで行って、先に麓から歩いて登りはじめた一人を捕まえようとしたのだけれど、しばらく待っても影も形も見えない。これはどうも既に通り過ぎてしまったようだ、さてどうしたものか、何とか歩いて登って山頂で追いつくほかないだろう、と。

ここから山頂までは、くわしく書く気にならない。要するにしばらく「階段怖い病」になりました。前に載せた写真を見てください。
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山東珍道中/恐行軍2

3月25日~26日 済南
朝7時52分北京西駅発の「新空調軟座普快臥」で、済南に向かう。あとから聞けば、どうももっと快速かつ快適な列車が有ったようだが、なぜだかインターネットで見つけられなかった。まあ、軟臥で4人だから、つまり個室を占拠して寝そべっての旅だから、快適な方だろう。問題は食事だけれど、普段から朝飯は食わないとかというのが多くて、そこそこの食料たとえば饅頭とか果物とかは北京での宿の近くのスーパーで買い込んでおいたからさほどの問題でもない。
さて14時41分に済南に到着して、タクシーに乗ろうとしてはたと迷う。まともなタクシーの見分け方がわからない。ままよと乗り込んだのが、なんと客が乗るまで車から降りて押していた山東大漢のタクシー。普通なら故障だと思うよね。チラッとみるとメーターは動いているから安心していたら、途中から妙にあがり方が早い。結局、山東省博物館まで50元強、他の場合から考えると倍くらいにふっかけている。メーターに細工しているわけだ。『水滸伝』の好漢のようなアンちゃんかと思ったけれど、実はこそどろでした。
山東省博物館は、結構良いものは置いてあるはずなのに、いささか整理が悪い。別に整理の悪い博物館が嫌いなわけじゃない。かつての上海の博物館は手狭な建物に貴重な文物があふれていて、一番好きな博物館だった。新築なってかえってつまらなくなったと思ってる。山東省博物館は建物が立派なだけに、整理が悪いとみすぼらしい。
宿は中豪大酒店。さて夕飯をどうしようかとロビーで迷っていたら、なんと現地在住で仕事をしているらしい日本のかたに話しかけられた。そのお勧めの「焗鶏王」というのにタクシーで乗り付ける。別に鶏料理店ではなくて、実物の食材を目で確かめて注文するという趣向の店で、どうもそういうことで人気の店らしい。唯一奮発したのは「清蒸桂魚」、淡水産の昔から高級魚とされているやつである。ワニには結局しりごみしてしまった。ちょっと惜しかったかも知れない。ウミガメは食材だったのか、観賞用だったのかはっきりしない。中国人のことだからねえ、でも世界中で保護動物だったんじゃないか。
焗:方言。一種烹飪方法。在密閉的容器中燜煮。陸殘雲『香飄四季』第三二章:「他不是要請你上廣州喫盬焗鷄?」(漢語大詞典)
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