『素問』骨空論の「任脉者,起於中極之下,以上毛際,循腹裏上關元,至咽喉,上頥循面入目。衝脉者,起於氣街,並少隂之經,俠齊上行,至胷中而散。任脉爲病,男子内結七疝,女子帶下瘕聚。衝脉爲病,逆氣裏急。督脉爲病,脊強反折。」は『太素』には無い。
しかも『太素』巻10の任脈と衝脈の流注について,楊上善注に皇甫謐錄『素問經』としてこの段の一部を引き,「檢『素問』无此文」と言う。
つまり,現存する『太素』に失われたのではなくて,もともと無かったらしい。そこで,森立之も王冰が『難經』『甲乙』に拠って加えたものであることは疑いないから,よろしく刪すべきであると言う。
それなのに宋代の新校正には何も言ってない。林億らが全元起本でどうであったかを書き残してくれたと言っても,完璧とはいかないと言うことです。底本に使えるような本は王冰本しか無かった,ということでしょうから,当然ですが。
『太素』の気府と『素問』の気府論と,どちらをと問われれば,やっぱり『太素』を取る。『太素』の経文のほうが古形を留めているだろうという一般的な意見の他に,いくつかの理由が有る。
先ず『太素』の穴数のほうが少ない。多数の穴の中から厳選するよりも,少なかったところに後人が各々の発見したつもりを付け加えることのほうが,より有りそうに思う。
また,例えば「肩貞下三寸分間各一」は「肩貞から下ること三寸の位置の分間に左右おのおの一つ」のはずであり,そのように数えれば『太素』に言う数におおむね合う。これを一寸ごとに一穴で左右合計六穴などという勘定は,『太素』楊上善注がすでにそうであるが,取りたくない。
さらにまた,『太素』では一つの穴に二三の脈の気が発するということは無い。そのほうが単純で,多分古い。足太陽の頭上の脈は五行で,楊上善も最外側に足少陽の穴を挙げるが,『太素』の経文では足少陽の脈気は耳前角、客主人、下関、耳下牙車の後、缺盆などに発するのだから,本来は重なりようが無い。督脈も項中央から始まり,頭上の穴は言わない。
さて,『太素』のほうが古いとして,どういう道筋で『素問』にたどり着いたか。
実は足陽明の項の後だけに「分之所在穴空」(仁和寺本『太素』は分止所在穴空)の句が有る。一箇所だけになら最後の脈に言えば良さそうなものである。だから足の三陽についてだけが先ず記述され,そのときの締めくくりではなかったかと思う。
その後,手の三陽が付け加わる。
そして,督脈と任脈が加わる。
篇末に『太素』では五蔵の本輸を言うが,『素問』は採用しなかった。書き漏らした可能性だって無くは無い。上部の到達点として足少陰の舌下,足厥陰の毛中急脈を挙げ,神門穴を起点とする手少陰を言う。つまり,陰の脈は基本的に五蔵の脈であり,体内を行くものである。
さらに,陰蹻と陽蹻の気の発するところを言う。陽蹻を挙げるくらいだから,そう古くはない。
手足諸魚際がどうのと言うのは分からない。
『素問』では,この他に督脈、任脈の後に衝脈が有る。足少陰の脈の気が躯幹で発する所を記述しないのだから,これも別に他の脈と重ならない。『太素』に無いのが未発見だったのか書き漏らしなのかは分からない。
BLOG「太素を読む会」が設定ミス(?)で不調になっています。
どのみち新しい記事は無い状態なので停止させました。
以前の記事を反映させた『太素』のデータは,霊蘭之室の
電子文献書庫に置いてあります。
『太素』卷9脉行同異
歧伯曰:衝脉者,十二經之海也,與少陰之大胳起於腎下,出於氣街,循陰股内廉,耶入膕中,循脛骨内廉,並少陰之經,下入内踝之後,入足下;其別者,耶入踝,出屬、跗上,入大指之間,注諸胳以温足脛,此脉之常動者也。
【楊】少陰正經,從足心上内踝之後,上行循脛向腎。衝脉起於腎下,與少陰大胳下行出氣街,循脛入内踝,後下入足下。按『逆順肥瘦』「少陰獨下」中云:「注少陰太胳。」若爾,則衝脉共少陰常動也。若取與少陰大胳俱下,則是衝脉常動,少陰不能動也。
最初に思ったのは,「少陰獨下」の下の「中」は「注」の誤りではないか,でしたが,よく考えてみると,『太素』に逆順肥瘦なんて篇は有ったかね。そこで調べてみると,少陰だけが下るという経文は,『太素』では巻10の衝脈に有りました。
黄帝曰:少陰之脉獨下行,何也?
歧伯曰:不然。
【楊】齊下腎間動氣,人之生命,是十二經脉根本。此衝脉血海,是五藏六府十二經脉之海也,滲於諸陽,灌於諸精,故五藏六府皆稟而有之,是則齊下動氣在於胞也。衝脉起於胞中,爲經脉海,當知衝脉從動氣生,上下行者爲衝脉也。其下行者,雖注少陰大胳下行,然不是少陰脉,故曰不然也。
夫衝脉者,五藏六府之海也,五藏六府皆稟焉。其上者,出於頏顙,滲諸陽,灌諸精;
【楊】衝脉,氣滲諸陽,血灌諸精。精者,目中五藏之精。
其下者,注少陰之大胳,出之於氣街,循陰股内廉,入膕中,伏行䯒骨内,下至内踝之屬而別;其下者,並於少陰之經,滲三陰;其前者,伏行出跗屬,下循跗入大指間,滲諸胳而温肌肉,故別胳結則跗上不動,不動則厥,厥則寒矣。
【楊】脛骨與跗骨相連之處曰屬也。至此分爲二道:一道後而下者,並少陰經,循於小胳,滲入三陰之中;其前而下者,至跗屬,循跗下入大指間,滲入諸陽胳,温於足脛肌肉。故衝脉之胳,結約不通,則跗上衝脉不動,不動則腎氣不行,失逆名厥,故足寒也。
で,「注少陰太胳」に相当する句は,経文として有ります。従って「中」は「中」で良いことが分かりました。問題は逆順肥瘦のほうで,『太素』には,と言っても現存する抄本中にはということですが,そんな篇は無い。衝脈という篇に在って,その篇は『霊枢』では逆順肥瘦に相当します。つまり,楊上善は『霊枢』の篇名で引用しているみたいなんです。変じゃないんですかね。それはまあ,引用書の中に本輸というのは有ります。でも『太素』にも本輸という篇は有ります。九巻本輸と九巻終始というのも有ります。でも,これは書名を冠しています。
『素問』標本病伝論では,先ず心,肺,肝,脾,腎,胃,膀胱が病んで,何日目かにその病状が変化して,三伝してそれでも治らなければ,何日かたって死すと言う。症状の変化で書いているけれど,最初に蔵府が病んだときの症状から判断すれば,
心→肺→肝→脾→胃→腎→膀胱→腎→胃→脾→肝
と伝変しているとみて良い。循環ではなくて,膀胱での折りかえしになっている。ただし,すでに関わった蔵は飛ばす。
『霊枢』病伝篇にも,似たような記事が有って,先ず心,肺,肝,脾,胃,腎,膀胱に発した病が,何日か目に伝わって,こちらは蔵府が病むと言い,三伝してそれでも治らなければ,何日かたって死すと言う。その伝わる順序は,
心→肺→肝→脾→胃→腎→膂膀胱→心→小腸
膂膀胱まで伝わったら,また心から繰り返すのだろうか。ただし,膀胱に発した場合だけはやや異なって,膀胱→腎→小腸→心で,つまり折り返しているようだが,これも腎・膀胱と心・小腸を一つと見れば,内輪での引き返しである。
さて,どちらが正しいのか。そんなことは分からない。ただ,標本病伝論は病む蔵が下方のものになっていって,癒えるときにはまた次第に上方のものになっていく。この発想のほうが,若干素朴あるいは素直ではないかと思う。
また,病伝篇では腎・膀胱の水の次を心・小腸の火として,相剋に伝えるようにした作為を感じる。標本病伝論では土の脾・胃から水の腎・膀胱に伝えるまでは相剋にみえるけれど,次は水から土であって,実は奥まで入って来て,次は引き返してくるだけである。多分,こっちの方が古くて,だから正しいかどうかは別として,本意ではあるだろう。病伝篇の心から腎(そして膂膀胱)も実は相剋関係では無かったんじゃないかということ。
『素問』生気通天論
陽氣者,煩勞則張,精絶,辟積於夏,使人煎厥。目盲不可以視,耳閉不可以聽,潰潰乎若壞都,汨汨乎不可止。陽氣者,大怒則形氣絶而血菀於上,使人薄厥。有傷於筋,縱,其若不容,汗出偏沮,使人偏枯。汗出見濕,乃生痤疿髙梁之變,足生大丁,受如持虚。勞汗當風,寒薄爲皶,鬱乃痤。
他にごちゃごちゃが有るから微妙なんだけど,
「陽氣者煩勞則張精絶 辟積於夏使人煎厥」と
「陽氣者大怒則形氣絶而血菀於上使人薄厥」は,対文じゃないんですかね。
「張」の下で切らないで,「張精」(亢盛な精)が絶すると解する人はいそうだし,「張」は「陰」(隂)の誤りという説も有るには有ったようだけど,「辟積於夏」と「血菀於上」は対で,だから「夏」は「下」の声誤だという説は聞いたことがない。
下にかたよって積もるのと,上に鬱血するのと,良さそうに思うんですがね。無理なんですかねえ。
『素問』玉版論要篇:
容色見上下左右,各在其要,其色見淺者,湯液主治,十曰已。其見深者,必齊主冶,二十一日已。其見大深者,醪酒主冶,百日已。色夭面脱,不治。百日盡已,脉短氣絶死,病温虚甚死。
郭靄春『黄帝内経素問校注語訳』は,王冰が「百日盡已」の下に,「色が夭でなく,面が脱しなければ,これを治すこと百日で已すことができる」と言うことから,「百日」の上に,「色不夭,面不脱」の六字を脱するのではないかと言い,不治の証が,百日を経過したら癒えるなどということが有るわけが無いから,新校正の「治療しなくても,百日たてば癒える」は誤りであると言う。
しかし,『太素』にも「色不夭,面不脱」の六字は無いのだから,増字して解釈するのには従いがたい。
この部分,『太素』楊上善注に従って解釈すれば,「色の変化が大いに深くなったら,醪酒を用いて治療しても百日かかる。それが色夭面脱となっては,もう治療できない。また,百日でことごとく癒えると言っても,脈短気絶となったり,病温が甚しくなったりしたものは助からない。」
そのつもりで王冰の注を見直せば,「百日でことごとく癒える」と(そうは言っても)「脈短気絶となったり,病温虚甚となったりしたものは助からない」との間に,「色が夭でなく,面が脱しなければ,これを治療すること百日で癒すことができる」という注が有っても,別におかしいことは無い。
色の現れかたは,浅→深→大深→面夭(そして脱面)であって,前の三段階なら百日以内に治るけれど,それでも脉短氣絶,病温虚甚を伴ってはそうもいかない,ということだろう。
注文しておいた凌耀星教授の『内経講稿』が,先ほど届きました。目録でしばらく気付かずにいましたが,今年の一月の発行らしいから,まあ早いほうでしょう。中医名家名師講稿叢書の一冊です。
内容は,青年教師に『黄帝内経』を教学する方法を伝授する「教学講座」,本科生に『黄帝内経』を講義した「『黄帝内経』講稿」,高級医生培訓班のためにおこなった「専題講座」です。
専題講座の中に,原塾のころの,東京での学術交流時に聴講した「三焦の二つの系統」が含まれていました。井上先生が,ご自分の人迎気口診による臨床体系と暗合するところを見いだして,喜んでみえた論文です。なつかしいですね。
『太素』巻2六気に「穀氣滿,淖澤注於骨,骨屬屈伸,光澤補益腦髓,皮膚潤澤,是謂液。」とある。この「光澤」がどうにも理解しにくい。『霊枢』では「洩澤」に作り,『甲乙』には「出洩」に作るが,それもよく分からない。そこで郭靄春の『黄帝内経霊枢校注語訳』では,『霊枢略』が「以澤」に作るのを引いて,従って改めるべきだとする。なるほどここは「以て沢す」と訓めば意味は通る。しかし,巻15尺診「尺濕以淖澤者,風也。」の楊注に,「淖澤,光澤也。」と言う。また,巻13腸度「故平人不飲食,七日而死者,水穀、精氣、津液皆盡矣,故七日而死矣。」の楊注には,六気の経文とほとんど同じ「穀氣淖澤注於骨,骨屬屈伸,淖澤補益髓腦,皮膚潤澤,謂之爲液。」という文章が有る。してみると,この「光澤」の文字を安易に改めるわけにはいかない。しかし,「淖」は『説文』には「泥なり,水に従い,卓の声。」とある。どうして光沢であり得るのか。実は『荘子』逍遙遊に「藐姑射之山,有神人居焉。肌膚若氷雪,淖約若處子。」とあって,「淖約」は「あでやかで,しなやかなさま」である。つまり,「淖」は我々がイメージするような「どろんこ」とか「ぬかるんでいる」とかではなくて,「つややかに,うるおっている」さまなのではあるまいか。巻27邪中の経文「其肉淖澤」を,楊注では「其肉濁澤」と言い換えているくらいであるから,「濁」というイメージが無いわけではない。しかし,中国人の「濁」のイメージが我々とは違うのだろう。彼らにとって黄河も長江も,濁ってしまった水ではなくて,豊かに光り輝く流れなのであろう。
北京の銭超塵教授の『太素新校正』についてあげつらったBLOGの内容を織り込んで,『太素新新校正』なんてものを原稿化しようと思ったんですがね,取りあえずA5の一太郎文書で何とか読めそうな大きさのフォントを指定してみたら,それでも500頁近くになりました。コピーして製本すると5000円くらいはかかるでしょう。とても人様にはお勧めできません。かといって,こんなものの出版を引き受けるところなんて無いでしょうからねぇ。売れるわけがない。