気府
- 医経
- by shenquzhai
- 2008/04/20
『太素』の気府と『素問』の気府論と,どちらをと問われれば,やっぱり『太素』を取る。『太素』の経文のほうが古形を留めているだろうという一般的な意見の他に,いくつかの理由が有る。
先ず『太素』の穴数のほうが少ない。多数の穴の中から厳選するよりも,少なかったところに後人が各々の発見したつもりを付け加えることのほうが,より有りそうに思う。
また,例えば「肩貞下三寸分間各一」は「肩貞から下ること三寸の位置の分間に左右おのおの一つ」のはずであり,そのように数えれば『太素』に言う数におおむね合う。これを一寸ごとに一穴で左右合計六穴などという勘定は,『太素』楊上善注がすでにそうであるが,取りたくない。
さらにまた,『太素』では一つの穴に二三の脈の気が発するということは無い。そのほうが単純で,多分古い。足太陽の頭上の脈は五行で,楊上善も最外側に足少陽の穴を挙げるが,『太素』の経文では足少陽の脈気は耳前角、客主人、下関、耳下牙車の後、缺盆などに発するのだから,本来は重なりようが無い。督脈も項中央から始まり,頭上の穴は言わない。
さて,『太素』のほうが古いとして,どういう道筋で『素問』にたどり着いたか。
実は足陽明の項の後だけに「分之所在穴空」(仁和寺本『太素』は分止所在穴空)の句が有る。一箇所だけになら最後の脈に言えば良さそうなものである。だから足の三陽についてだけが先ず記述され,そのときの締めくくりではなかったかと思う。
その後,手の三陽が付け加わる。
そして,督脈と任脈が加わる。
篇末に『太素』では五蔵の本輸を言うが,『素問』は採用しなかった。書き漏らした可能性だって無くは無い。上部の到達点として足少陰の舌下,足厥陰の毛中急脈を挙げ,神門穴を起点とする手少陰を言う。つまり,陰の脈は基本的に五蔵の脈であり,体内を行くものである。
さらに,陰蹻と陽蹻の気の発するところを言う。陽蹻を挙げるくらいだから,そう古くはない。
手足諸魚際がどうのと言うのは分からない。
『素問』では,この他に督脈、任脈の後に衝脈が有る。足少陰の脈の気が躯幹で発する所を記述しないのだから,これも別に他の脈と重ならない。『太素』に無いのが未発見だったのか書き漏らしなのかは分からない。
先ず『太素』の穴数のほうが少ない。多数の穴の中から厳選するよりも,少なかったところに後人が各々の発見したつもりを付け加えることのほうが,より有りそうに思う。
また,例えば「肩貞下三寸分間各一」は「肩貞から下ること三寸の位置の分間に左右おのおの一つ」のはずであり,そのように数えれば『太素』に言う数におおむね合う。これを一寸ごとに一穴で左右合計六穴などという勘定は,『太素』楊上善注がすでにそうであるが,取りたくない。
さらにまた,『太素』では一つの穴に二三の脈の気が発するということは無い。そのほうが単純で,多分古い。足太陽の頭上の脈は五行で,楊上善も最外側に足少陽の穴を挙げるが,『太素』の経文では足少陽の脈気は耳前角、客主人、下関、耳下牙車の後、缺盆などに発するのだから,本来は重なりようが無い。督脈も項中央から始まり,頭上の穴は言わない。
さて,『太素』のほうが古いとして,どういう道筋で『素問』にたどり着いたか。
実は足陽明の項の後だけに「分之所在穴空」(仁和寺本『太素』は分止所在穴空)の句が有る。一箇所だけになら最後の脈に言えば良さそうなものである。だから足の三陽についてだけが先ず記述され,そのときの締めくくりではなかったかと思う。
その後,手の三陽が付け加わる。
そして,督脈と任脈が加わる。
篇末に『太素』では五蔵の本輸を言うが,『素問』は採用しなかった。書き漏らした可能性だって無くは無い。上部の到達点として足少陰の舌下,足厥陰の毛中急脈を挙げ,神門穴を起点とする手少陰を言う。つまり,陰の脈は基本的に五蔵の脈であり,体内を行くものである。
さらに,陰蹻と陽蹻の気の発するところを言う。陽蹻を挙げるくらいだから,そう古くはない。
手足諸魚際がどうのと言うのは分からない。
『素問』では,この他に督脈、任脈の後に衝脈が有る。足少陰の脈の気が躯幹で発する所を記述しないのだから,これも別に他の脈と重ならない。『太素』に無いのが未発見だったのか書き漏らしなのかは分からない。
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