『太素』21諸原所生
疾高而内者,取之陰之陵泉。
疾高而外者,取之陽之陵泉。
楊上善注:
所病在頭等為高,根原在脾足太陰内者,故取太陰第三輸陰陵泉也。
所病在頭為高,其原在膽足少陽外,故取足少陽第三輸陽陵泉也。
この「第三輸」は不可解である。
12營衛氣行「氣在於心者,取之手少陰經、心主輸」の注には、「輸とは手少陰と手心主の二経の各々の第三輸である」と言っている。どうも楊上善においては「第三輸」という詞は、井滎輸経合の三番目の「輸」つまり原穴と同義のようである。しかし、陰陵泉は足太陰の輸穴ではないし、陽陵泉も足少陽の原穴ではない。「特別に重要な輸」の意味と解する他はなさそうである。
もっともここの解釈はそもそも前後に矛盾があって、「氣在於肺,取之手太陰滎、足少陰輸」が、手太陰の滎(魚際)と足少陰の輸(太谿)であるなら、気が心に在る場合だって、手少陰の経(霊道)と心主の輸(大陵)であるべきだろう。本当は心のほうは「手少陰心主輸」であって、大陵を指示しているだけなんだろうと思うが。
楊上善の解釈を離れて考えれば、この前には「陰有陽疾者,取之下陵三里」が有る。つまり、もともとは五蔵の原穴を述べた資料の後に、府の病に使い分ける膏と肓の原を加え、さらに、同様に重要な穴として、三里と陰陽の陵泉を持ち出してきたということではないか。楊上善の説明は不可解ではあるが、原穴並であることを主張するという点では正しい。
三番目に在る穴が重要であるから、ただ第三輸と呼んだだけで重要な穴という意味を持つようになる、というのはまあ良い。しかし、現に三番目ではない位置に在る穴のことを、重要であるから第三輸と呼ぶ、などということは修辞の方法として許されることだろうか。