手術とは、患者さんの許しを得て、痛みのない状態で患部を取り除き、生きるに必要な処置を施して後、人間の本来持つ回復力を補助することで、切る以前の状態に比しより長い余命を得るか、またより良い生活の質を得さしめることである。人の体を切って、一時的に悪い状態にするが、治った後は術前より良くなることを施す医療とも言える。
きつくて汚くて危険で、夜間も病院から呼ばれて苦労が多く、一人前になるのに時間がかかって、そのくせすぐに老眼で見えなくなって手がふるえるようになって、しかも短命だとか、将来を語らせればロボットに取って代わられるとか、内服薬ですべての病気が治療可能になって手術が要らなくなるとか、ポジティブな評価をされにくい科である。
研修医からの評価が、「何でも知っているが何もできない内科医」なのに対し、「何でもできるが何も知らない外科医」と評価されることもあるようだ。何でも知っていて(いい内科医には劣るが)何でもできて、かっこ良くてもてるのが真の外科医の姿であり、自分もその一人、それに近い一人だと私は信じている。
法律で人の体を切ることができる唯一の職業が医師である。その中で、切って治すのが最もうまいのが外科医である。人の体を切ったのに感謝される場合は多いのだが、そうでないこともまれにある。大昔では切って治すことが医療の大勢を占めていて(結核や胃潰瘍に対する手術など、昭和前半~中盤)、またがんを治すのに非常に大きく臓器を切除する時代もあったが、最近ではどこの分野でも小さな傷が流行である。
手術の結果、患者さんが重篤化したり死亡したりする可能性はゼロではない。手術による死亡=医療ミス、医療事故と捉えられがちだが(実際新聞マスコミではよく間違えている)、ミスの結果人が死ぬのではなく、「手術とは人を死に至らしめる可能性のある医療行為」であることを忘れてはならない。もちろん、患者さんが死ぬ医療行為は手術だけではないのだが。「切る」許可を与えられることはすなわち、切られる患者さんからその命を預かることに他ならない。 責任の重さを十分に持ちながら、研修を行うべきである。
医師として、臨床で患者さんを相手にするとき、最も重要なことは「論理的な考え方」だと思う。「筋道だった物の考え方ができる」ことと、「勉強」の中で蓄えた医学知識も必須である。しかし、本の知識しかない者は実際の臨床では応用が利かず、進歩も遅い。論理立った考え方とは、機序をまず頭の中に思い浮かべて、現在の状況に合致する原因を考証する思考回路である。論理的な考えをすることは、常に自分で心がけてトレーニングするべきことである。
外科医として理論的な考え方をする際に重要なことは、手術できるかを判断することである。それには2つの意味があり、 Operabilityの評価と Resectabilityの評価を判断することである。これらは外科医が判断する専任事項であり、外科医にしかわからない範疇のものである。疾患と患者さんについて良く理解し、他科の医師より切除依頼があった際にも、切る意味があるのか、切る以外の方法の可能性についても知っている必要がある。無知な外科医は「何でもできるが何も知らない」と相手にされないだけである。
病気を診るのではなく、患者さんを診る姿勢が必要である。これらをよく考え、豊富な知識と技術に裏づけられた、熟達した外科医を目指そう。
人間の体は良くできていて、切っても自然に治るのである。が、いい加減な手術を行ったり、自然治癒力をうまく利用するような管理をしなかったりすると、治るものも治らない。患者さんが順調な回復過程にあるかどうかを確かめること、治癒の手助けをするタイミングを図ること、このための術後採血であり、X-ray検査である。余計な手助けは、例えば抗生剤の漫然とした投与などは、自然治癒を妨げる結果につながりかねないことを銘記しておくべきである。
患者さんとの信頼関係が成り立っていない状況で相手の体を切ることは、医療の名をかりた暴力である。患者さんとよく会話をし、体をよく診て、指導医の方針に従い行動をする。レジデントが患者さんに一番身近な医師であるべきであり、患者さんの把握に関しては誰よりも深くあるべきである。入院患者さんについての評価を行い、手術に立ち会い手術への理解を深める。手術は、術者をするだけが大切なのではなく、助手を行うことで、展開の仕方、手術の流れ、マナーを学ぶことができる。患者さんの回復過程を間近に観察することで、自然治癒力を理解し、回復への補助のタイミングを知る。指導医がどうしてこの方針を取るのか、なぜこの検査をするのか疑問を持つこと。「上にこうしろと言われたから、こうする」ではなく、疑問を持ち、指導医にぶつけてもかまわない。各々の施設ごとに流儀があり、微妙にやり方は異なるが、それを知るのもまた修練である。質問に対しては当然、質問返しが来るが。安い給料で仕事をしているのだから、無理解のままレジデントを終わるのはもったいないと考える。
大学のプログラムでは依然、臨床トレーニングの最中に学位論文のための研究が2-3年も入って、トレーニングが中断することがある。臨床の技術はいつでも習得できるからと卒後2-3年の医師に研究をさせる大学もある。しかしこれは正しくない。よく考えてほしい。卒後7年もたって医学博士にもなっている者が、手術の糸結びも満足にできないとき、「こうやって結ぶんだよ」などと教える親切な指導医がいるだろうか?まだレジデントだから、「何やってんだ。こうやるんだよ」と教えてもらえるのである。技術を習得するには適齢期があるのだ。
英語で書かれた論文だけが"論文"に値すると考えてほしい。日本語で書いたものは海外では誰も読んではくれない。そのために、論文が寝転がって読めるくらいに、医学英語に習熟してほしい。英語で書いた論文に海外から問い合わせがあると、「世界の中の自分」を感じることができる。積極的に外国での発表を行い、自分を磨こう。
また抄読会を毎週火曜日もしくは金曜に行っており、疑問はどんどん出して解決しよう。知らないことを恥じるのではなく、知らなかったことをなくせて良かったという気持ちにしよう。解決しないなら、宿題に。
現在の保険制度が臨床医の技術を評価せず、医療の質にかかわらず、すべて横並びという従来の社会主義的システムを堅持していることを本当に残念に思っている。そのため外科などの3K科へ入局する新人が減り、熟練技術者たる外科医の報酬が不当に低くなっている。早く構造改革がわれわれの分野にも起こってくれないかと思っているが、その日に備えいかに自分を磨いておくかが鍵となる。専門医の資格や学位などは取れるうちに取っておき、学内外にさまざまな人脈を作っておく。年功序列型から実力による勝ち抜き型になるので、先輩を追い抜くことを考えておくべきである。先輩も逃げるのに必死であり、必死になるべきである。
当科では基本的にチーム制度をしいており、常勤医師の指導のもとに動くシステムのため、レジデントの医師が責任を深く持つことはありません。最終責任は、部長である中山が取ります。常勤医師はチームでの行動を通じて、各指導医の知識や経験、考え方と技術を学んでいきます。また、レジデント医師へのレクチャー(20~40分程度)があり、レジデントハンドブック(資料1)を用いて年間を通じて行い、知識、技術習得の補助とします。最終責任は、部長である伊藤が取ります。