万事如意
- 雑事
- by shenquzhai
- 2009/01/01
……休息している閑な時間
......解釈がまことに斬新で,ある種の「天才」ではないかと思えるからだ。大塚の解釈を読むと,私など少々うろたえて原文を確認し,そういえばそうかな......といくぶん疑念を抱きつつその着眼の鮮やかさに呆然とするばかり。......ちょっとだけ,気が動く。
......彼は資産が膨張するとともに、妻妾をキンキラキンに着飾らせ、のべつまくなしにお客を接待しては山海の珍味や美酒を並べて宴会を催し、家屋敷を飾りたててりっぱな庭園を造るなど、衣食住すべてにわたって、臆面もなく金にあかした贅沢三昧にふけったのである。......
召使いあがりの第四夫人の孫雪蛾が調理場を仕切っているだけで、専門のコックもいないため、バランスもへったくれもなく、とにかく品数が多いだけがとりえの、こういった大御馳走に、西門慶を始めとする登場人物は、嬉々として飛びつき、端からドンドン胃のなかにおさめてゆく。......
さらに深読みするならば、西門慶の手当たりしだいの女道楽の対象を、二番煎じ三番煎じの女でかためることによって、知識人である作者は、西門慶のいかにも成り上がり商人らしい趣味のわるさ、その増殖を重ねる過剰な欲望のグロテスクさを強調し、揶揄しているようにも見えるのだ。......
......いうまでもなく、この作品は、あくまでも『水滸伝』中の登場人物、西門慶と潘金蓮を主人公としてつくりあげた架空の物語である。しかし、作者は、西門慶の日常生活を描写する際、自然と自分自身のそれをモデルに書き進めたのであろう。ところが、筆が進むとともに、西門慶と作者の一体化がはじまったのである。あるいは作者は、西門慶を通して自分自身を語りたいという、自己表出の誘惑に負けたのかもしれない。
『金瓶梅』における西門慶像の不統一は、作者の自己投影によるものと解釈するのが一番合理的であろうと思われる。西門慶は変化し、人格が一変する。読者はその際、自分が何故、この無頼漢に共感を覚えるのか、途中でとまどいを覚えながら読み進んでゆくであろう。だが、不思議に思う必要も、うしろめたく思う必要もないのである。彼は一流の文人の魂を持った市井の無頼漢となったのだから。......