第77回
2010年4月01日

Ai学会は、新しい次元に入った

医師・作家
海堂 尊 先生

昨年の第6回Ai学会理事会は混乱した。当時は事態が錯綜していたし、何を言っても実証が難しいため口を閉じていたが、一年経ち、結果が出たので総括する。あの混乱は理事会当日、新理事に指名されなかった某旧理事が「事務局の独裁だ」と異を唱えたことがきっかけである。これに解剖関連学会の理事数名が同調し新理事の選出がご破算になった。彼らの主張を一言でいうと「Ai学会も病理学会や法医学会のように、学会の体裁を整えた運営をせよ」ということになる。一見もっともだが実現は不可能だ。きちんとした学会運営の次にくるものは、人員の雇用に伴う学会費の値上げだ。すると学会の学術活動が阻害されることになりかねず、角を矯めて牛を殺すの愚になるだろう。既存の学会はたいてい年会費が1万円を超えるが、Ai学会は会費を低く抑えるというのが当初からの事務局主体運営のコンセプトだった。Ai学会発足当時、年会費2000円だったのを二年後に1000円に値下げし、さらに今年の総会でついに年会費ゼロ円を実現した。これも低廉な運営努力を会員に還元した事務局の方針を、Ai学会の会員が支持してくれた結果だと思う。

Ai学会創設時、目指した学会の姿は、費用をかけず自由闊達な議論の場を作るというものだ。その理念はAi学会員の多数に支持されていたと思う。なので一部旧理事が翻した反旗には、無駄な経費を削減し、軽量の学会運営を達成し、理事会主導の運営に移行することで学会員の納得を得ようと考え、新理事会と共に改革した。その結果、年会費ゼロの学会運営が達成され、第7回Ai学会理事会ならびに総会で新体制は満場一致で支持された。理事会、並びに総会において反対意見は皆無だった。この議を以て、昨年2月の理事会から端を発した一連の騒動は完全終息した、と宣言する。

この混乱の裏には、Aiという用語が社会認知されることへの反発があった。Aiという用語に対するアレルギーは病理学会上層部の一部と法医学会上層部の一部に根強い。だが現実は、昨年、今年と二年続けて日本放射線学会総会でAiという用語を冠したシンポジウムが開催されている。日本放射線学会専門医会ではAiWGが創設されて一年経過しているし、日本放射線技師会も「Ai活用検討委員会」を同時期に立ち上げている。日本医師会は先日、三回目の「Ai検討委員会」の答申を発表した。また、先日の参議院法務委員会でも国会議員がAiのことをきちんと「死後画像診断」と発言していた。つまりAiという用語にアレルギーを示しているのは、「厚生労働省と解剖業務関連団体のごく一部」だけ、具体的には厚労省のモデル事業に関わる病理医と厚生労働省の医療安全推進室の方たち、そして法医学会上層部の一部だ。ちなみに病理医も法医学者も、地方の現場最前線の方たちはAi肯定派だが、これは地方の現場の惨状を考えれば当然だろう。

なぜ学会上層部や厚労省担当部署はAiという用語に反発するのか。それはAiが画像診断なので解剖が主体になれないからだ。そこにAiプリンシプルとして「Aiは放射線科医が診断し、その費用が医療費外から医療現場に支払われなくてはならない」という主張を内包していることが、新たな費用拠出を嫌う官僚に疎まれているためだ。逆に言えば、厚労省のAi班研究に関わった病理学会上層部や、法医学研究所なる組織構築を目指す法医学会上層部にとって、Aiはささやかな利権になりつつある、ということでもある。その証拠に法医学教室7カ所に今年度、CTが設置されたという情報がある。放射線科医がぼやぼやしているうちに、診断料が法医学教室に簒奪される枠組みが作られようとしている予兆である。ちなみに、私は元病理医で、放射線科に費用誘導したところで、自ら利することはない。ただ、社会システムとしてはそうするのが当然だ、という医学常識に基づいて主張しているだけだ。その点はどうかご理解いただきたい。

法医学会上層部のAi否定派は、Aiという用語を使わず「死後画像」という言葉を使う。Aiの日本語訳は「死後画像診断」である。その違いは一目瞭然で、「診断」という言葉の有り無しだ。実際、先日行われた日本医師会のAi検討委員会の席上では、千葉大学法医学教室で先進的に行われている死後CTでは診断レポートをほとんど作成していないと、担当者が明言していたし、日本法医学会理事長の在籍する長崎大学法医学教室にCT導入が決定されるにあたり、事前に診断システムの公式な話し合いはなかったと周辺の方から仄聞した。つまり「診断」なき法医学主導の死後CT導入が推進されているのが現実だ。

彼ら法医学者がAiという用語を毛嫌いするのもむべなるかな、法医学会主導の死後画像ならば診断しなくて済むからだ。このままでは法医学主導のAiは撮像するだけで診断しなくていいという形がスタンダードになってしまう。だが社会は、法医学教室がCTをやってもAiと認識しているし、その報酬は鑑定料の上乗せという形で法医学教室に納入されるだろう。放射線科医は都合良く診断協力だけさせられ、報酬は貰えない。放射線学会上層部の方たちがこうした状況が出来するのを座視したのも、残念ながら事実である。つまりAiという言葉に対しアレルギーを示すのは「上層部」の人たち、並びに厚生労働官僚、という共通項が発見されたわけだ。

学会上層部同士の経済資源戦争という観点から見れば、序盤戦は法医学会が放射線学会に圧勝した、といえる。この闘いでは、放射線学会は病理学会にさえ負けている。厚生労働省のAiに関する科学研究班の主任研究官に、Ai研究の実績がない病理医が指名されたことは、その証拠である。上層部に先見の明がないということは、誠に情けないことだ。

「Aiは解剖の補助検査だ」と病理学会上層部、法医学会上層部の面々は言う。このテーゼを鵜呑みにすれば、医療現場が破壊される。以下、ふたつにわけて証明しよう。

  1. 病理学会上層部の言い分を認めると、Aiに費用がつかなくなる。なぜなら本検査である病理解剖に費用がついていないからだ。だから、本当なら厚労省の班研究が病理医を主任研究官に任命した時、放射線学会は総力を挙げて阻止しなければならなかった。それを呑み込めば放射線学会はAiを無料で読影しなくてはならないことになる。そして、「それならやらないよ」と放り投げれば、読影されない無責任画像が社会に蔓延し、結局放射線科の信頼を間接的に低下させてしまう。こう考えると厚生労働省の研究班に唯々諾々と協力し、何ら反論しなかった放射線科医の罪は重い。
  2. 法医学会上層部の言い分を認めると、Aiの情報が隠蔽されてしまう。「法医関連の情報は捜査情報だから公表できない」というのは、法医学者お得意の監査逃れにもつながり、その情報は医療現場どころか、遺族にさえ伝えられる担保はない。そうした土壌に司法冤罪が発生するし、医療裁判も増加させるだろう。そうなったとき、医療現場は司法の恣意的な攻撃に耐えられない。そう、福島県大野病院事件のように。また、経済的にもAiの診断料は鑑定料の一部にされてしまう。

放射線科医の上層部はいまだに腰が引けていて、事件関係のAiは読影しない方がいい、などと主張する上層部もいるらしい。これこそ経済資源簒奪される最大のポイントであることに、ここまで指摘してもまだ気づかないのだから、そのおめでたさには恐れ入ってしまう。

医療従事者は今後の法医学者の動向を注視しなくてはならない。彼らは大野病院事件で無罪判決が出たにもかかわらず、騒動の大本になった法医学会の異状死ガイドラインの見直しを検討すらしない。このままでは法医学者は医療崩壊の促進運動の推進者になりかねない。ましてその彼らにAiの差配を任せるなどもっての他だ。

以上二点より「Aiは解剖の補助検査である」という、一見もっともに見える解剖関連学会上層部のテーゼは、完全否定されなければならない。でないと現場の放射線科医がタダ働きさせられて疲弊し、検査費用は医療現場からの持ち出しになり、医療崩壊が促進してしまう。

新しいテーゼは「Aiは解剖に優先する」になる。Aiを社会に適正に導入するには、放射線学会と放射線技師会が主導し、Aiの診断限界を提示し、その範囲内で責任を持つ診断をし、診断不能症例に解剖をレコメンドする、という枠組みを提示することだ。

解剖至上主義者は言う。「Aiだけではダメだ。解剖をしなくてはならない」。ならば彼らは解剖に集中すべきだろう。彼らの言葉に従ってAiを行えば解剖症例が増える。法医学会はこのままでは解剖に対応できないので人員増強を、と国会議員を通じ積極的に働きかけている。今は公明党議員を中心にレクチャーし法務委員会での国会答弁を誘導している。ならば彼らには専門外のAiに手を伸ばしている余力などない。彼らは法医学会に費用導入できればいい、と考えているフシがある。病理医の窮状にも放射線科医の激務にも、彼らは一切言及しない。

法医学者の業務は解剖に特化するべきだ。Aiは放射線科医に診断協力を要請すればいい。かつてCTでは出血がわからないと公言した法医学者がいたが、その方は未だにその発言を撤回していない。にもかかわらずメディアでは法医学分野での死後画像の第一人者と目されているようだ。そんなことひとつ是正できなければ、日本の医学のレベルの低さが全世界から物笑いの種になる、という危惧を、放射線学会の方たちは感じないのだろうか。Ai学会として、そのような困った発言は是正するよう勧告すべきだと思う。

解剖で忙しい法医学者に高度な画像診断の読影技術を学ぶ時間と労力があるのだろうか。専門家の放射線科医は、Ai読影は特殊で難しい、と公式に発言している。一方、現実はCTは出血もわからないと公言する法医学者が易々と読影し、レポートも作成せずに死後画像を実施してますと言いふらし、メディアがそれを鵜呑みにして、その言い分ばかりが一方的に垂れ流される。この構図、どこかおかしいと思いませんか。

さて、理事会の混乱に話を戻そう。毎回、学会誌に一年分の1000字提言が掲載されるが、今回、一回分だけ掲載されていない。責任者の某理事はたまたま見落としたと言い訳しているが、ご丁寧にも目次からも外されているのが果たして単なるエラーだろうか。しかもその某理事は理事会直前に「たまたま掲載から落ちた回」をHPから削除すべし、と提案している。これがたまたまのエラーか、それとも意図的なものかは会員の御判断に任せるが、私はこの削除をその某理事の意図的なものと判断した。理事会で削除が決定されれば、学会誌に掲載しなかったことが容認されるからだ。もしそうだとすると、その理事は、その1000字提言不掲載を、理事会に諮ることなく独断で決めたということになり、理事会を軽視したという由々しき事態になるわけだ。

そんな中、第7回Ai学会理事会は、塩谷理事を除く全員が出席した。その場でその1000字提言の削除が某理事から提案されたが、提案者以外の賛同者はゼロだった。そして自由に発言し、内容については読んだ人間が考え判断すればいい、という健全な意見が続出した。こうして、過去の1000字提言は削除しないということが、理事会で決定された。

Ai学会においては、今後も自由な発言が担保されなくてはならない。 理事会の判断は健全だった。この決定は今後も墨守されなくてはならない黄金律である。権力は言論介入したがる。Ai学会は言論を封殺するような権威になってはならない。これまでの1000字提言は必ずしもAiに積極的な方の意見ばかりではない。Ai学会員以外の先生にも、必要に応じてご登場願っている。Ai学会HP1000字提言は、ひとつの文化である。したがって一部の人間の思惑で検閲削除されるようなことがあってはならない。

今回、この1000字提言を海堂尊のペンネームで行ったが、こうした姿勢に対し、ごく一部の法医学者からの批判もある。だが考えていただきたい。多くの方がたとえば某大学法医学教室教授、などという肩書きをつける。これは肩書きがなければその人がどのような人か、読者に理解してもらえないからだ。その意味では多くの読者に理解してもらうには海堂尊という「肩書き」はわかりやすい。一般人の中には、拙著「死因不明社会」を読んでAiに興味を持った人も多い。だから実名で活動を行うべきだという批判は的外れだ。私は放射線学会、産婦人科学会、放射線技師会、医師会など多数の学会で講演し、あるいはこれからの講演依頼を受けているが、その際は、Aiが主題でも海堂尊名義で話してほしいと要請される。Ai学会での発言は実名ですべし、と主張する人たちは、その人たちの考えにすぎず、決して一般論ではないのだ、ということに気づくべきだろう。

さて、1000字提言削除提案の議論の際、気になった言辞があった。「Ai学会として、この論説はいかがか」という言葉である。しかしAi学会はAi学会員ひとりひとりの構成員でできている。そこには様々な意見がある。「Ai学会として云々」と発言した理事は、すでに権威になろうという匂いを漂わせている。これは要注意だ。権威とは行動の後についてくるものであり、言辞だけで得ようとすれば必ず腐敗する。イチロー選手が権威なのは、洒落た金言を吐くからではなく、大リーグで凄まじい数のヒットを打っているからだ。したがってAi学会理事は、Aiに対し積極的かつ肯定的に発信し、実際に自施設で実施しなくてはならない。Aiを自施設で行えなければAi学会の理事たる資格はない、そんな時代になったのだと思う。もちろんAi学会立ち上げ当初はそうではなかった。しかしAiがここまで進展してきた以上、もはやAiを行っていない理事はとりあえず理事から下りてしかるべきだと思う。時代は変わった。Ai学会も変わらなければならない。

私は今回、某理事に対し辞任勧告動議を理事会に提出した。理由はふたつある。ひとつは上記の1000字提言の不掲載を独断で行った、と思えた点。もう一点は、昨年2月の騒動の際、某理事は権限がないにも関わらず勝手に臨時理事会の召集を掛けた。つまり理事会を軽視し、独断で学会を混乱させているのである。某理事は昨年2月の騒動の際は、事務局に対し理事会軽視だと批判を繰り返し、独自にMLで理事会召集をかけた。当然不発に終わったが。今回の件でも理事会に計ることなく1000字提言を不掲載した。本人は単なるエラーと強弁しているが、あれほど細々とした配慮で緻密な総会運営をなさった方が、目次を見れば欠番があると一目でわかるものを見落とし、本文もその回だけ排除しているという二重、三重のエラーを起こすとは考えにくい。その上、学会当日の理事会で、その記事の削除を議題に提出している。そしてコトが露顕すると謝罪し、新しい学会誌を刷り直す、などという的外れな提案をする。そんなことは経費と時間がかかる。まったくの無駄なので、その回の1000字提言をHP上でご覧になっていただくことで、某理事の提案は却下したい。不掲載をくらった本人がそれでいいと言うのだから、この件に対する対応は一件落着である。

ちなみにこの某理事解任動議は理事会の議決としては反対多数で否決された。理事会の判断としてはなかなか健全だと思う。またこの一議をもって、私がAi学会を私物化しているという批判が的外れだと断言できるだろう。

事務局運営を通じ、これまでAi学会の方向性を決めてきたのは主に私だった。それは事実であるが、学会の黎明期であれば仕方がないことでもある。だって他にやってくれる人がいなかったんだもん。しかし時代が動き、新しい次元になったため、そのバトンを正当な後継者である理事長ならびに理事会に委譲できてほっとしている。

Ai学会創始者のひとりとして、Ai学会運営に際し心がけた三箇条がある。これは今後理事会主体の運営になっても維持し続けてほしい。この三箇条を否定する理由はおそらくどこにもないはずだ。

  1. Aiの健全な社会導入の促進
  2. 自由闊達な議論のできる、フラットな場の構築、議論の自由の担保
  3. 低廉かつ透明性の高い、中立的な学会運営

批判はあるだろうが、事務局主体のAi学会運営は、これまでこの三点を一度たりとも逸脱したことはなかったと自負している。ある人からは私の言辞が行きすぎた批判だと言われたこともある。だがそうしたことは、双方向性が保たれているMLというフラットな場であれば容認される。事務局でも理事でも一会員でもまったく同等の発言権を有している場だ。だから批判が過剰だと思えばメール発信すれば済む。むしろ第7回の理事会で某理事が提出した、提言の削除、といった動きの方が自由闊達な議論を阻害しかねないリスクファクターになりかねない。

今、社会を見回すと、司法が見えない強権支配を強めつつある。要注意である。権力は必ず言論封殺をしようとする。日本国憲法で表現の自由が高らかに謳われているのは、権力によって言論が弾圧されてきた歴史的証拠である。憲法とは権力弾圧の遺跡なのだ。だからHPの削除ということは軽々に論じてはならない。そうした市民の権利は、ひとりひとりが小さな声をきちんと発しなければ、巨大な権力に侵食されてしまうだろう。

さて今回、2010年3月末日をもって、私はAi学会理事を辞任することにした。理由は冒頭に述べた通り、低廉でフラットな学会運営の基盤を、この一年で整備することができたと判断したからである。同時にこれは昨年2月の理事会の混乱の責任を取っての辞任でもある。実は昨年2月の時点で私は理事辞任を決めていた。辞任が一年延びたのは、Ai学会の事務運営の軽量化を計っていたからだ。この仕組みを容認する方たちが学会参加する形であれば、不景気で経済危機が訴えられている今の時代でも、Ai学会は存続し続けることができるだろう。

混乱はひとりでは起こせない。昨年2月の理事会を混乱させた要因になった某理事は残留している。某理事は自分の行動をまったく総括しない。困ったものである。理事会MLで私のこうした勧告を「心中」と表現した方もいたが、的外れである。私だって心中するならそれなりの相手を選ぶだろう(笑)。

要は、個人としての責任感の在り方だと思う。私は一年前の学会混乱の責任を取って理事辞任を決意した。だがその時に放り出しては学会が瓦解しかねなかったので、一年かけ事務局主導から理事会主導の学会運営に移行した。それを見届けたので理事を辞任するわけだ。一方、学会運営にほとんど関与せず、理事会召集の権限もないのに越権行為を行なった某理事は批判に対し黙し、理事の地位に連綿と固執し続けている。Ai学会理事という肩書きに、何か利権や特権でもあるのかしらん。不思議である。まあ、人それぞれであるが、これが現状である。

某理事は、私が理事辞任の意向を口頭で述べると、それを議事録に残すことにも固執し続けた。心配せずとも辞めるべき時がきたら自分で公表しますよ、といくら言っても信用してもらえなかったが、それももう杞憂に終わる。そう、この文章で明らかなように、ね。それにしても、他人の辞任は公表したがるが、自分に対する辞任勧告には耳を傾けないというのは、実に危険な性向だと思う。

私にとって、Ai学会理事という肩書きは窮屈になっていたが、今回その任を自ら解くことで、より自由に戦場へ駆けていけることとなった。ちなみに病理医も辞めるが、そちらは議論もせず、過去の業績に対する敬意を払わないでよしとする病理学会の体質にげんなりしたからであり、Ai学会の理事辞任とは次元が異なる。病理学会に未来はない、と私は思う。なぜなら無名の研究者が地道に積み上げてきた業績を偉い人が奪い取ってしゃあしゃあとしているような世界、それを周囲が座視して容認するような世界に、これからの未来を担う若者たちが魅力を感じるはずがないからだ。Ai学会のみなさんにはご理解いただけるであろう。私が厚生労働省のAi研究班に一度も招聘されなかったことが、いかにいびつなことか。誤解なきように申し述べておくが、私はその会に参加したいと思ったことはない。会議と名の付くものは大嫌いなのだ。ただあの研究班が、私の話を聞いて参考にするのは当然だったと言いたいだけだ。まあ、そんなことはもうどうでもいい。研究班は目新しい成果をあげることなく解散するようだし。つまり私の批判は正鵠を衝いていたわけだ。そして血税は虚空に消えた。

私は今、別の翼を手に入れた。その新世界の世界は、私のことを温かく扱ってくれる。ま、一部の守旧派が無視しようとするのはこちらの世界と同じ構図なので笑ってしまうが。だが、それなりの成果を上げた人間には、それなりの待遇を用意してくれる点は、とても礼儀正しく居心地がよい。それに比べて今回、Aiについて、東大を中心とするアカデミズム世界は、Aiの提唱者である私に唾を吐き掛け、顔を泥足で踏みにじった。そして周囲の人たちはその行為を黙認した。悲しいことだなあ、と思う。

ちなみに私は病理医は辞めるが、現組織のAi情報研究推進室室長として残留する。そしてAi推進運動をバックアップし続ける所存である。理事は降りたが、Ai導入運動の最前線から降りたわけではないので、ご安心を。

春は別れの季節であるが、同時に始まりの季節でもある。Ai学会の次世代へのステップアップを深く願って止まない。