第155回
2024年09月01日

生き残りをかけてオートプシーイメージング学会の将来像を模索する ~このままでは自然消滅~

国立病院機構北海道医療センター救急科 部長
七戸康夫

 オートプシーイメージングはだれが何と言っても市民権を得ている用語である。日本医師会も厚労省も正式文書にAiと言う用語を使っていると言う事は、和製英語であろうと何だろうとそれは「正式な日本語の単語」なのである。現状でAiの意味を知らない医者はほぼいないし、死後にCTを撮影して死因を診断したいと言って断る遺族もいない(いたら逆にちょっと怪しい)。

 ところで学問とは、医学とは、だれのためのものか。医学は基本的に「実学」であり、アウトカムは社会への明確な利益供与である。その中で基礎医学は学問の真実を求めることでそこに繋げ、臨床医学はその成果を応用して社会の安心安全を実現する。しかしともするとその両者間には微妙な意識の乖離があり、基礎医学は学問として内向きになりやすく、臨床医学はエビデンスに拘泥しがちな傾向にあることは否定できない。筆者はCOVID-19との4年間の戦いを介して我彼の違いを嫌と言うほど思い知った。

 ところでわれわれAi学会であるが、黎明期および近年にあっても多様性では片づけられない個人の思惑に起因する混乱が生じ、そして今は次第に我々の仲間が減りつつある。この過程で離れていったもしくは距離を置いている方々に対して、若干の甘酸っぱい感情はあるが、まあ立場の違いで理解できないこともない。但しどちらが正しい、などと正義を主張しても社会の利益にならずただのオタク芸である。

 幸いにも我々には多くの職種が集い自由で開かれ闊達な意見交換の場がある。但し学術団体として公に認められておらず、体裁的には単なる同好会に留まっているのも事実である。

 翻って「我々から離れていったもしくは距離を置いている」方々は既存の学問的な体系を構築しているものの、ともすればその領域特有のドグマが存在し、外部からの評価を受け入れがたいアンタッチャブルな空気感を醸成している。勿論それはその領域の「専門家」としてのプライドであり、矜持を持って死因診断に取り組んでいることはリスペクトに値するのは当然と言えよう。であるならば過去にこだわることなく(と言うか過去の遺恨を知っている人はほぼ現役を引退している)お互いの強みを結集し、足りない所を素直に認め、Aiを学問的に成熟させ社会への貢献に繋げてゆく時期に来ているのではないだろうか。

 オートプシーイメージング(Ai)死後画像診断の今後を見据え、英知を結集し大合同を果たせるよう切に望む。