靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

あけまして

恭賀新禧 萬事如意
阮家の人々はみな酒が強かった。だから、仲容は一族がみな集まると、普通の杯を用いずに、大甕になみなみと酒を注ぎ入れ、そのまわりに車座になって向かいあってぐいぐい飲んだ。時には豚どもも飲みに来たが、さっさと迎え入れて、そのまま一緒に飲んだ。

座中願陪者不辭
今年もよろしくお願いします。

背與心相控而痛

『太素』巻11氣穴
背與心相控而痛,所治天突與十椎及上紀、下紀。上紀者,胃脘也;下紀者,關元也。
楊上善注:任脉上於脊裏,爲經胳海,其浮而外者,循腹裏當齊上胸,至咽喉,胳脣口,故背胸相控痛者,任脉之痛也。此等諸穴,是任脉所貫,所以取之也。
耶擊陰陽左右,如此其病前後痛濇,胸脇痛而不得息,不得臥,上氣短氣偏痛,脉滿起耶出尻脉,胳胸支心貫鬲,上肩加天突,耶下肩,交十椎下藏。
楊上善注:量此脉行處生病,皆是督脉所爲。下藏者,下胳腎藏也。

楊上善は前半を任脈、後半を督脈に関するとして解釈しているが、そうだろうか。むしろ後半は前半の説明になっていないかと考えてみた。
先ず「上紀者,胃脘也;下紀者,關元也。」は経中の訓詁で、経文そのものよりは後から加わった説だと考える。だから拘束されない。「十椎」は何かの間違いだろう。「七椎」という説と「大椎」という説が有る。いずれにせよ「☐椎及上紀、下紀」は、その上下という意味の可能性が有る。『霊枢』海論に気海は膻中で、後の柱骨の上下と前の人迎で挟む。「十椎」は「大椎」というのが良いかも知れない。前は天突に拘らず、人迎でも膻中でも要は患者の訴えに従えば良いのかも知れない。
邪は陰陽左右を撃つものであるから、このように前後に痛むことが有る。胸脇を濇(何かの間違いかも知れない)して、痛んで息も出来ないし、臥すことも出来ない。上気し短気して偏痛する。脈は満起して斜めに尻に出、(脈はまた)胸脇を絡い心に支え膈を貫き、上は天突に加わり、斜めに肩に下り、大椎に交わり蔵に下る。
だから、患者の訴えによって取るべき気穴は、要するに前後に塩梅すれば良い。大椎の上下と天突はその第一候補である。『霊枢』衛気で気街について述べるところでは、気が胸に在れば膺と背腧で挟む。

はつゆき

初雪です と言っても こんな程度

来年の読書会

来年1月の読書会はお休みです。内経の新年研究発表会ですからね。
だから,来年の最初は2月の第2日曜の11日の予定です。でもこれって連休の中日ですね。大丈夫かなあ。
来年は『霊枢』を猛スピードで読みきろうかと思っています。ちょっと無理かなあ。かつての原塾の『素問』講座なみのスピードなんだけど。あれは毎週でしたからね。今思えば,塾生も大変だったけど,講師も大変だったでしょうね。でも,どこかで毎週の講座がまた開かれるまでは,原塾前―原塾後みたいな異変はおこらないと思いますよ,多分。

五里穴

『太素』巻11気穴(S58)に「大禁廿五,在天府下五寸」とあり,楊上善は「三百六十五穴中,有大禁者,五里穴也,在臂天府以下五寸,五五廿五往寫此穴氣,氣盡而死,故爲大禁也。」と言うけれど,楊上善は実際には五里穴を禁針穴なんて考えていませんね,多分。今頃気がついたんですが,巻25十二瘧(S36)に「瘧方欲寒,刺手陽明、太陰、足陽明、太陰」とあって,「手陽明脉商陽、三間、合谷、陽谿、偏歷、温留、五里等」と言ってます。巻11気穴では経文に「在天府下五寸」と言っちゃてるから,そのように注をつけなきゃしょうがないけれど,本当はあんまり気にしてなかったみたいです。

俗賊!

キャラクターやストーリーが原作を逸脱している。中国文化への侮辱だ。

あんた本気でそんなこと言っているのかい?あなたの言い方のほうがよっぽど,中国文化に対して侮辱的ですぜ。中国文化はそんなヤワなものではなかろうに。

中国語を話せなければ

「これからの鍼灸師は、英語と中国語を話せなければだめだ。」そうですか?「これからの鍼灸研究家は、中国語を読めなければだめだ,話せなければ極めて不利だ」なんだと思いますよ。それに代わる「何か」をもっていればなんとかなるでしょう。まあ,そんなことを言いうるのは我々の世代が最後の最後かも知れない。先日,北京で合っていた留学生に,当分負けるとは思わないけれど,彼らの同世代が中国語が話せないで彼らと太刀打ちするのは無理かも知れない。韓国の内経学者は大抵は中国語を話すけれど,中国の学者や日本の物好きがもっている「何か」を,彼らが手に入れるのには何かの異変が必要だと思うから,相当長い当分の間,彼らに負けることは無いだろうと思う。

「何か」って何だ?って解説したんじゃしょうもないけど,要するにテキストクリテイクをシコシコやるような物好きとか,師匠にくってかかるようなおっちょこちょいの出現です。中国には文献の研究者と,新システム構築の責任者の地位が一応確保されているから良いけれどね,より儒教精神と案外強烈な功利主義に富んでいる小中華には難しいんじゃなかろうか,とね。文献は中華から下賜されれば良い,とまでは思ってない,と思うけどね。
臨床の足しにするために読むしか立場が無い世界の内経研究には,ほとんど興味が無いということ。

古典について ふたたび

私は別段,学校教育に関与しているわけではないけれど,仲間内で教鞭をとるものがチラホラでてきたし,中国へいくと向こうの教育者に会うことが多いので,そこそこ事情を知るようにはなっている。
中国においては,古典に関わる人に三種類があるように思う。
第一は中医の臨床家で,臨床の参考として読んでいる。悪く言えば,役に立ちそうなところをつまみ食いしている。役に立っているのであれば,実はそんなに悪いことでもない。ただ,我々としては古典世界を中医学的に読み解いてもらってもどうにもならないわけで,だからほとんど交際が無い。
第二は,文献学者が研究の対象として読んでいる。我々が中国で付き合うのはこの種の人たちで,彼らの中のごく優秀な人が校訂したテキストや,開発した古典の読解法を,我々は有り難く頂戴しているわけだ。普段はつまり医古文の教員で,中国へいくたびに教育の悩みを聞かさせる。授業時間の不足と,熱心な学生の少なさである。熱心かつ優秀な学生は,ほとんどが文献系から流れてきたものたちだそうで,つまりこのグループの性格の秘密がそこにある。
第三は,この存在に私が気付いたのは実はまだごく最近で,つまり古典に書かれた情報から,古代の医学の実体を再構築して,未来の医学に示唆を与えたいともくろんでいるらしい。彼らは第一、第二のグループからはあまり好かれていないかも知れない。一字一句なんかどうでも良いから要するにどうなんだとせまるし,現在の臨床のたてまえを破壊しかねないことを平気で言う。それはまあ煙たいでしょうなあ。
日本においては,本当は臨床家がつまみ食いすることしか無いのかも知れない。学校教育に古典を取り入れだしたと言っても,所詮は学校の宣伝用お飾りのようなもので,学生の無関心さは中国の教員が嘆くレベルにも到底達していない。中国学の先生方がやっていることは,内部で充足してしまってほとんど漏れ聞こえてこない。学会があれば特別講演とか称して引っ張り出されても,所詮は学会のお飾りのようなものである。
で,自分はどうかと言うと,例えば『太素』などは一字一句に拘っているけれど,これはパズルを解いているのと同じようなもので,ほとんど道楽であって,同好の士は増やしたいけれど,是非一緒にやりましょうとはとても言えない。それとは全く別に,例えば『霊枢』などは,現在の陰陽五行説で説明される臨床マニュアルに安心立命できないから,破壊的かつ建設的に読んでいるのであって,もう少し信じられる古典世界を求めて足掻いているのであって,今のマニュアルで全然困っていない人を,何も引きずり込むことはない。

古典について

今現在やっていることは『太素』の校訂と『霊枢』の臆解です。
『太素』の校訂は,これはもう一字一句をしつこく追求しています。すでに趣味あるいはむしろ道楽の領域で,パズルを解く楽しみ,推理小説の犯人割り出しの醍醐味といったところです。
『霊枢』の臆解は,要するに,「だからどうなんだ」を追求したいと思っています。古代の名医が発見したこと,あるいは発見したと思ったことは何か,それが理想的に発展したらどうなっていたはずであるか,どのように整理すれば使えるか。役にも立たない科学史的興味,愚にもつかない古代的迷妄は,この際棄てます。信じがたい神秘は,所詮信じられない。
だから,これは私としては極めて臨床的な営為なのです。これ以上に臨床的な世界は無い。
先生から授かったマニュアルをなぞることが臨床的だと思っている人とは立場が違う。それはまあそういう素直な人のほうが術者には向いているかも知れないけれど,生まれついた性格はどうにもならない。羨んだってしょうがない。
で,『霊枢』の世界で奔放に振る舞うためにも,その根底の経文をおさえるために,『太素』の一字一句にはしつこくあろうと思っているわけです。

12月の読書会

12月10日(日)午後1時~5時
場所はいつものところ。

『霊枢』は「五癃津液別」から。できれば2~3篇いきたいですね。
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