右手の寸口が一番弱いから,肺虚のはずで,肺虚だから,手の太陰をとって,肺は金だから,金の母は土だから,虚すればその母を補えだから,土は脾だから,脾は足の太陰だから,足の太陰もとって,だから治るはずだと言う人は幸せである。古典派的治療は,その人の為に有る。信じる者は救われる。
運気論も五行説も,勢い余って経絡治療も,一切合切唾棄しても,それで古典派でなくなるわけじゃない,と思う。ただ,あんまり幸せではないかも知れない。
太陽系の定義が変わる,とか言って騒いでいる。
教科書業界は,今頃そんなこと言われても来年分の印刷が間に合うかどうか,と慌てている。SF作家達は,もともと虚構です,と落ち着いている。そして何と,占星術師の間にも波紋があって,旧来の七惑星に固執する派とどんどん新しい惑星を取り入れで何が何だか分からないものに変わっていく派とが,互いに貶しあっているらしい。
一番しょうもないのはいつだって……。
『素問』気穴論に、岐伯が「聖人易語,良馬易御」と言い、黄帝が「非聖人易語也,世言其真數,開人意也」と応える。「聖人には話をしやすいのは、良い馬は乗りこなしやすいようなものです。いやいや、聖人にだから話がしやすいのではなくて、その内容が真実であるから人の意を開くのですよ。」まあ、じゃれあっているようなものだけど、考えてみると不思議な文章じゃないですか。岐伯が黄帝を乗馬扱いにしている。これって不敬じゃないのかね。古代中国人の感覚は、現代日本人とは違うということですか。
ドン・キホーテは嫌いじゃないし、むしろドン・キホーテを気取っているふしも有るけれど、ドン・キホーテに過ぎないという現実を突きつけられると、やっぱりがっくりして意気消沈する。だから九月はおとなしくしていようと思う。
かといって、風車につっかっていくのを止めようとは思いませんがね。風車であることを知っているドン・キホーテ、という嫌味な憂い顔の騎士を目指していこうかな、と。
『中醫古籍考據例要』王育林撰 學苑出版社
顧觀光《素問校勘記》
《寶命全形論》:“刺虛者須其實,刺實者須其虛。”顧記:二句誤倒,當依《針解》乙轉。實字與下文失、一、物韻。
案此言是。試觀這一段經文:
“刺虛者須其實,刺實者須其虛。經氣已至,慎守勿失。深淺在志,遠近若一。如臨深淵,手如握虎,神無營於眾物。”
這應是一段偶數句入韻的韻語(OAOA式),孫說是。另今檢《針解》文,未得所指。待考。
この書物は内容が簡潔であることといい、文章が平易であることといい、結構良い本だと思うけれど、体例には不満が有る。例えば上記の「案此言是」以下は、顧觀光『素問校勘記』には無くて、だから王育林さんの案語のはずで、だから引用とは別の書体にしてくれたほうが分かりやすかったと思う。
また、ここの「孫說是」は「顧說是」の誤りだと思う。この前の文章で、孫詒譲の『札迻』を紹介している影響であろう。どこまでが『札迻』、『素問校勘記』の引用なのかはっきりしないので、すぐには誰の說を云々しているのか分からなかったし、今なお「誤りだと思う」としか言えない。ついでに言えば、『箚迻』と書くのもあまり気に入らない。
さらにまた、どうして「今檢《針解》文,未得所指」などと言うのだろう。針解篇には「刺實須其虚者,留鍼隂氣隆至,乃去鍼也。刺虚須其實者,陽氣隆至,鍼下熱,乃去鍼也。」とある。これでは不足と言うのか。要するに、刺實のほうが刺虚より前に在る例を示せば充分だと思うが。
古籍考據について述べる書物であるから、当然ながら校勘の学についてもかなりのページをさいてる。その書物にしょうもない校正ミスが多いというのは滑稽ではあるけれど、書物は校勘せずには読めないということを実感させてくれるという点では、有用なのかも知れない。
歴史認識ということばには国体護持と同じにおいがする。
怪の圣と経の圣は、よく考えたら別物ですね。
仁和寺本『太素』には恠という字形が用いられていて、でもこれは正字ではなくて、『干禄字書』では𢘪が正で恠は俗です。この𡉄が見慣れないので、普通によく見る在と間違ったのが恠。ナがおそらくは筆勢の関係で又に変形したのが怪。ナが又に変形したものは、有とか右とかに見る。希にも似たものが有った。
経のほうは言うまでもないけれど、巠を省略して圣です。もっとも、中国の簡体字は经で、スの下にエで、まあそのほうがまだしも原形に近い。ただし、𦀇という異体字も有るわけで、『干禄字書』にこの同じ声符を用いたものを輕の通として載せている。エが土になったのも古くから有るわけで、そもそも俗字なんだから、その系譜をそんなにきちんと遡れるわけも無い。
半年に一度、汲古書院から送ってくる古典研究会編『汲古』という小冊子が有る。まあ、PR誌の役割を担っているのだろうだけれど、レベルは高いし、興味深い内容に富んでいる。特に今回の第49号には「日本の訓点の一源流」というかなり長い論文と、「字解とは何か」という短い雑文が載っていて、いやなかなか楽しい。訓点のほうはじっくり読ませてもらうとして、字解のほうは要するに最近の字書に対する不満ですね。内容の不足、字義と字解の曖昧、漢と和の混在などに対する異議が述べられていて、頗る同感するところが多い。
ただ、中に内容の不足について、
身辺の人に聞けば、鞭が金棒の武器と知る人は、まず居ない。
と言うのは如何なものか。身辺に、『水滸伝』を読んだことがある人が、一人も居ないってことはなかろう。本当は、咄嗟に思い出せなかっただけじゃないのか。そんなに馬鹿にしたものでもなかろうと思う。
3月18日から連続出場記録更新中だったんだけど、とぎれるとダメですね。むりやり何かをでっち上げようとする気力が無くなっている。多分、これからは飛び飛びになると思います。
「太素を読む会」が再開されていることは、お気づきかと思うけれど、これも銭教授の『新校正』の体裁を予想するタネが尽きたら、また当分の間は休眠に入ります。
袁枚の『子不語』に巫山戯た話が載っている。明の逸民の某は、国の滅亡に殉じようと思ったけれど、痛いとか苦しいとかいうのは嫌だから、酒と女で命を縮めようと思って、妾を大勢娶って一日中荒淫したけれど、一向に死ねない。二十余年生きながらえて、八十四歳になってやっと死んだ。
さすがに無事だったわけではない。平凡社の訳では「弩脈がきれてしまった。頭はさがり、背はまがり、熟れた蝦のようなせむしになって、はいつくばって歩いた。」
この弩脈というのが不審で、菉竹氏に調べてもらったら、原文はやっぱり督脈でした。どうやって督脈が弩脈に化けたのか、荒淫によって督脈がきれるものなのか、はおいおい考えてみます。督脈がきれたら佝傴になるというのは、まあ何となくわかる。