靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

病変定矣

 『霊枢』邪気蔵府病形篇で、変化の病形を診る脈状が緩急小大滑濇であって、浮沈が無いのは何故か。まさかとは思うが、甚微がそれに相当するということは……。ただ、甚微を単に程度の差と解すると、微のほうが重篤そうに思えるなどの謎は有る。羅列された病症名に痹の字をふくむものは、いずれも微である。寿夭剛柔篇に、病の陽に在るものは風、陰に在るものは痹と名づけるが、陽に在れば脈は浮、陰に在れば脈は沈とも言えるだろう。また現在の脈状がそれぞれ定義された情況を離れて虚心に考えれば、指が皮膚に触れるか触れないかで感じられる脈は甚と捉えられたかも知れないし、指を余程押し下げないと得られない脈は微と捉えられたかも知れない。
 くれぐれもまさかのはなしですよ。


 数遅も無いけれど、これは一応は緩急がそれに相当すると考えられる。でも、これだってそんなに簡単に言っちゃって良いのかとは思う。


 本当は急緩で寒熱、大小で血の多少、滑濇で気の多少、甚微で病の外内を知る、なんて言いたいところなんだけど、無理でしょうねえ。

本輸の使い分け

 『霊枢』に於ける五輸穴の運用法は、四季に応ずる選穴を主とするようだが、未だ洗練されているとは言い難い。つまり、四季に応じて取るべきところの指示に、井滎輸経合以外のものが多く混入している。
 一応の完成形は順気一日分為四時篇で、冬は井を刺し、春は滎を刺し、夏は輸を刺し、長夏は経を刺し、秋は合を刺す。本輸篇ではその他に、春には絡脈や分肉の間に取り、夏には肌肉皮膚の上を取り、秋には(春と法の如しというから)絡脈や分肉の間も取り、冬には諸輸を取る。つまり本輸篇では井滎輸経合のうちの何を選択するかの他に、部位名称を挙げている。本輸篇の冬は「取諸井諸輸之分」であるが、順気一日分為四時篇の井を引き算すれば諸輸であり、この諸輸は井滎輸経合の輸ではなくて、所謂ツボということになる。
 では部位名称だけを挙げる篇はというと、寒熱病篇に、春は絡脈を取り、夏は分腠を取り、秋は気口(腕関節橈側とは限らず、一般に気の発する口だろう)を取り、冬は経輸を取るとある。この経輸について、多紀元簡が「総言経穴,非諸経之経穴兪穴」と言う。逆に推し量れば、古来、井滎輸経合のうちの経と輸と誤解するものが多かったということである。この誤解に基づいて、さらに冬至に一陽が生じるという思想による修正を加えて、冬を井と定め直し、ならば他の季節は何かと配当していったのではないか。
 四時気篇にも本輸篇に似た配当が有るが、微妙に異なる。春は絡脈分肉の間(王冰注に引くもので校正済み)、夏は盛経孫絡と部位名称を言い、秋は経輸、冬は井滎という具合に本輸からの選択を指示する。おもしろいことに、これは『素問』水熱穴論と基本的に同じである。ひょっとすると、暖かければ衛気、寒ければ営気を調節するというつもりかも。
 つまり、寒熱病篇の冬の経輸を誤解することから発して、井滎輸経合に四季を配当できるのではないかと工夫した人が何人かいて、それぞれの努力の跡が残されているのであろう。
 結論として、季節によって井滎輸経合を使い分けようとするのは、誤解に発するこじつけである可能性が高いが、結果として順気一日分為四時篇ともなると、陽気の推移にしたがって指先から肘膝までを使い分けることになるので、本来の発想の経緯とは別に、またそれなりの妥当性が生まれているかも知れない。

経脈というモノ

 経脈による針術の本質は、此処に施した術の効果が彼処に発現することだと思う。しかし、此処で祈れば彼処に聞きとどけられる、では経脈説は成立しなかった。此処と彼処が連動するのであるからには、此処と此処は何らかのモノでつながっているはずだ、この古代中国人の即物的な思考が、針術を世界に冠たる物理療法たらしめている。
 両処をつなぐモノとは、元来何であったか。陽経脈については筋肉、陰経脈については血管ではなかったか。
 本輸篇で陽経脈が頚に至るというのは、筋肉の連なりが頚に至るということであろうし、手の陰経脈が腋から入るというのは血管がそこから躯幹に入り込むということである。足の陰経脈に至っては、脚の付け根で躯幹に入り込むから、頚部の情報とあわせて記述することではない。根結篇で足三陽は頭部に結するが、足三陰が結するのは舌の付け根と胃と心胸である。やはり外と内である。
 勿論、これはもともとはということであって、経脈篇で十二経脈を循環させて「環の端無きが如し」というためには陽経脈にも血管系としての性格が必要であろうし、経筋には陰の経筋も有る。
 経脈説が、芽生えてから完成するまで、異様に短時間であるというのも、それまで筋肉、血管系のお話として蓄積してきた知識を、「欲以微針,通其經脉,調其血氣,營其逆順出入之會」という方針に沿って改編したにすぎないからではないか。ただ、この改編の意味することは当事者の意図を超えて大きかった。
 筋肉や血管系に関する認識には古代的な限界が有った。経脈の効用の最も重要な部分を担うことができないのは、今や明らかである。しかし、あくまでそうしたモノが有るとしての、仮定した上での論であったことは、記憶しておいたほうが良い。筋肉や血管系でなければ何か。別にモノを探し出すのも、我々の任ではない。我々はかつて認識されていた、あるいはより合理的な相互関係を追求したい。モノに依拠するとは、つまりそこに絶対者を想定しないということである、恣意的であるのを許さないということである。不思議であろうが神秘であろうが、法則に従ったことしか起こらない。法則を外れているように思えるとしたら、それは法則が不備だからである。

 『説文』に載る脈の正字は「𠂢に从い血に从う」もので、「血理分れて、體に衺(ななめ)行する者なり」と言う。「脈」はその或体で肉に従い、正字の字素を左右に入れ替えた「衇」は籀文である。これは明らかに血管系のことであって、その意味が拡張されて山脈とか水脈とかに広がっていく。
 すじをなして連なっているものとして、先ず「血管系のように」と感覚したわけである。これは驚くべきことではないか。そうした感覚の持ち主である古代中国人が、身体を縦(経緯の経は縦糸、緯は横糸)に連絡するものとして経脈を発想したときに、血管系を意識していないわけが無い。
 経脈説の独特である所以は、「ここに施した術の効果が、かしこに発現する」ということである。そして「互いに相関しているからには、両者をつなぐモノが有るはず」という即物性が、経絡学説発展の基盤であった。そのモノとは血管系であったはずである。だから、経脈学説に血管系についての知識が混入しているのは避けがたい。問題は、現代の目からみて、経脈現象を担うモノは血管系なのか、ということである。現代医学は、血管系がそのような能力を有することを否定している。この判断はおそらく正しい。
 経脈現象を担うモノを、他に求めることが必要であるかどうかは分からないが、どのみち我々には手に負えない世界であることは間違いないだろう。我々にできることは、文献に現れる所謂「経脈現象」から、血管系を初めとする現代医学にすでに知られたものを取り除き、他に預けることのできない現象、私見では「患部と、遠く離れた診断兼治療点の関係」を洗い出し、新たに体系づけることではないかと考えている。


血脈に拠る体系
 血管系のしかるべきポイントに何らかの刺激を与えて、血液循環を制御し、そのことによって健康を維持し、疾病から回復させる体系も、一応考え得る。ただ、これをもって『素問』、『霊枢』などに記載される現象の全てを説明することは、やはりかなり困難であろうと思う。現代医学も、このことについてはほとんど何も知らないようである。

灸盞

『灸法秘伝』灸盞圖
古聖用九針,失傳久矣。今人偶用者,不但不諳針法,亦且不熟『明堂』,至於灸法亦然也。今用銀盞隔姜灸法,萬無一失。凡欲用此法者,須仿此樣爲式。四圍銀片稍厚,底宜薄。須穿數孔。下用四足,計高一分許。將盞足釘在生姜片上,姜上亦穿數孔,與盞孔相通,俾藥氣可以透入經絡臓腑也。


 日本内経医学会の掲示板で、菉竹氏が紹介しているものです。
 仰式は普通に置いたところ、俯式はひっくり返して見たところでしょう。足の高さが一分ばかりと言うのだから、小さなものです。
 使い方の具体的なところがもう一つはっきりしない。
 まず大きめのショウガを用意して、二分ばかりの厚さに切る。その上に灸盞の足を刺すようにして置く。足の高さは一分ほどだから下までは突き抜けない。安定させるというまでのことだろう。灸盞には穴が円周をなして八つくらい有るから、(凡例によれば)それに銀針を通して、ショウガまで貫く。さあ、刺した後でこの針をどうするのかが分からない。まあ、熱くなったら灸盞を持ち上げて、また下ろすというのだから、恐らくは穴だけあけて抜くのだろう。でも、だったらなんで銀針にこだわるのか。細い針で、小さな穴というのが良いのか。さて、灸盞の中に艾をまるめて入れて、さらに薬を加えて点火する。で、熱すぎたら持ち上げろと言うけれど、治療家の指は熱くないんだろうか。どうして木の取っ手でも工夫しないのだろう。
 詳しくは日本内経医学会掲示板の菉竹氏の解説を見てください。

寒厥と熱厥

 『太素』26寒熱雑説(『霊枢』寒熱病)
寒厥,取陽明、少陰於足,留之;熱厥,取足太陰、少陽。
 陽明と少陰、太陰と少陽という表裏ではない組み合わせが面白いが、その理屈は何か。
 寒厥も熱厥も足から始まる。してみればこの陽明と少陰、太陰と少陽も、足(くるぶしから下の部分)と考えて良い。陽明は足の甲を行き、少陰は足底を行く。つまりこの両者(たとえば衝陽ー太谿、然谷)を取れば、足の芯に在る寒を挟み撃ちにすることになる。太陰は大指の内側に沿って内踝に向かい、少陽は小指と小指の次指の間を外踝に向かう。つまりこの両者(例えば商丘・太白ー臨泣)を取れば、足の甲に在る熱を挟み撃ちにできる可能性が有る。
 『太素』26寒熱厥(『素問』厥論)には、熱厥は陽気が五指の表に起こり、足下に集まって足心が熱し、寒厥は陰気が五指の裏に起こって、(当然くるぶしを経て)膝下に集まり、その間がみな内から寒すると言う。これと『太素』寒熱雑説の治療方針とは関係が有るだろう。
 また、『太素』22三刺(『霊枢』終始)には「刺熱厥者,留針反為寒;刺寒厥者,留針反為熱」、乃ち留針することによって正常にもどすことができると言っている。この同じことをしても、情況に応じて逆方向に効くというのも、針治療の重要な特徴であると思う。
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