1:私のアメリカ留学

私は当時脳外科長であった福島孝徳先生の影響で、三井記念病院脳外科の研修医の頃からアメリカでの臨床研修を夢見ていた。何度かECFMG(Education commission for Foreign Medical Graduate)の主催するFMGEMS(以前のVQE, 現在はUSMLE)という外国人向けのアメリカ医師国家試験、TOEFLというやはり外国人向けの英語力判断テストを受け、アメリカで臨床医学をする権利を獲得した。たまたま私の医局の金彪先生がメイヨーの脳外科に留学しており、彼のあとを引き継ぐかたちで、1989年4月、メイヨーにClinical fellowというかたちで赴任した。仕事はレジデントと同じだが、後述する数の限られた正式の認定医になれるレジデントではなかった。アメリカでは1年を3ヵ月毎の4期にわけ(それをQuarterと呼ぶ)、クオーター毎にロテーションをきめるが、私は最初はChief resident assistantからはじめ、少しずつJunior consultantからSenior consultant(Staff)のassistantをするようになった。始めの1年はとても英語に苦労し、同僚のレジデントやStaff, 看護婦、または患者にまで同じことを何回も聞き返して面倒をかけた。いまでもときには聞き取れない、うまく言えないこともあるが、2年目ぐらいからは自分の意見を自信をもって述べられるようになった。そのきっかけになったのは渡米して1年3カ月の頃 三井記念病院で経験を積んでいた三叉神経痛の総論をレジデントに講義したことだと思う。口の達者な生粋のアメリカ人レジデントと渡り合うには留学前にかなりの自信のある分野をつくっておく必要があると思う。その後1991年には正式のレジデントに組み入れて頂いた。長いレジデント期間のなかでも特に印象に残る時期は、その頃Chairmanであった Dr. SundtのFirst assistantをしたとき、また大学卒業後10年目にして初めて経験するインターンの時期である。 Dr. Sundtは当時重症の悪性骨髄腫が再燃しいつも痛みに耐えながら臨床をしていた。1986年に悪性骨髄腫と診断され、あと半年の命と宣言された。彼はそれから不屈の精神で闘病し、自分のそれまでの経験をまとめた2冊の脳血管外科のバイブルとでもいうべき本を完成させた。(2,4) 日本にも何度か講義に訪れ、彼の“日本人一番弟子”の小林茂昭教授の主催された第8回日本脳神経外科コングレスのHonorary guestをつとめられた。その際、日本の脳外科医にあてたメッセージがNeurosurgeonsに掲載された。(3)若い脳外科医の指標としてこれ以上のものはないのでぜひ一読をおすすめする。彼はあの文章通りで、生前の彼に会った人であれば分かると思うが、優しさと厳格さを持ち合わせる人間であり、彼の手術の威厳は例えようの無いものであった。彼の患者に対する熱意、痛みを分かつ接しかたをまじかにみて、ぼんくらな医療をしていた私は、とても恥ずかしい想いをした。彼のサービスのあと神経内科そして1年間の一般外科インターンを卒後10年目にして8歳も年下の“同僚”と経験した。耐えなければならない感情的な屈辱を何度も味わったが、日本脳外科認定医の目でアメリカ最先端の血管外科、耳鼻科、形成外科、整形外科の手術を目のあたりにし、手伝い、また教えてもらうことができ、とても有意義な1年であったと思う。1995年にはSkull base fellowとして、異例ではあるがレジデントの途中でSpecial clinical fellow(本来はレジデント終了後)のトレーニングを Dr. Sekharに受けた。これは私の飽きるほど長いレジデント期間に同情して、また私の就職のための特技をもたせるためのDr. Piepgras(現在のメイヨーのChairman)の特別の計らいである。期せずして私がそのDepartment にスタッフとして迎えられるようになったのも、彼の尽力のおかげである。アメリカのChairmanはレジデント一人一人の素質/希望を考慮し教育に責任を持っているのが分かると思う。

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