剖検の有効数字
中学校にはいり、数学や理科でつまづいた時期があった。中でも印象に残っているのは、理科で教わった「有効数字」という概念だった。理科の世界では1.00と1 は違う数字である。ミリメートル目盛りの物差しではかった長さと、メートル目盛りで測った長さを足しあわせてはいけないということだった。この概念はなかなか体得できなかった。実は「有効数字」を実感したのは、大学院で研究を行うようになってからだった。データは同一レベルで比較しなければ科学ではない、ということを指導教官から繰り返し指摘された。それは手を変え品を変え様々な場面で出現し、骨の髄まで身に沁みたころ、ふと『ああ、これは中学理科の有効数字と同じ話なのだな』と気付いたのだった。
長い前振りから、いきなり本題にはいる。私の主張は簡単明瞭、Ai剖検(Ai併用剖検)は、既存の剖検とは次元の異なる検索法であるため、同じ枠で情報処理してはならないということである。日本には「剖検輯報」という、世界に誇る解剖情報の巨大データベースが存在するが、ここでのデータ処理も近い将来、従来の剖検とAi剖検は分離され扱われるようになるだろう。なぜなら、そうでないと「剖検輯報」が科学的なデータベースとしては機能しなくなるためである。
剖検輯報に記載された情報を基にした研究は、統計学的手法を用いた疫学研究が主体になる。例えば「肺癌の骨転移出現頻度を算出する」というような研究である。これは、データベースの肺癌症例数を調べ、次に骨転移症例の数を数える、という方法で行われる。ここで、従来の剖検5例に骨転移がなかった事実と、Ai剖検5例に骨転移がなかったことを単純加算し、骨転移陰性症例10例とすることは、「科学」的なデータ処理ではない。そうした解析結果は科学的には何も意味しない。Ai剖検における骨転移陰性は、全身の骨を画像検索した結果であり、厳密な骨転移陰性を意味する。一方、従来の剖検における骨転移陰性は実は、剖検前に画像診断で指摘されていた骨転移の確定、もしくは剖検時に肉眼検索しうる限定された範囲に骨転移がないことを意味する。厳密に言えば、従来の剖検では骨転移陰性所見は、「科学的には」確定できていなかったことになる。骨転移所見の「計測」に関して言えば、前振りの例えになぞらえると、通常剖検では1メートル目盛り、Ai剖検では1ミリ目盛りの物差で測っているようなものである。従ってこれらの情報を混在させて足したり引いたりすると、中学理科のテストではバツをもらうことになる。
このように展開すると、「剖検所見は陽性所見だけを検討対象にするものだ」という反論が起こるかも知れない。しかしその反論は事態を悪化させるだけである。なぜならそのような考えに基づくと、剖検における疫学研究が成立しなくなってしまうからである。陽性症例の統計処理には、カウンターバートとして確定された陰性所見の存在が必要とされる。簡単に言えば、陰性の中に陽性症例が見落とされて混じってしまっていれば、陽性症例の数も正確ではなくなってしまうということである。
Ai剖検を導入すると、疫学が量的・質的に大きく変わるだろう。それはすなわち、医学が変わることを意味しているのである。