画像診断医という「検査屋」が警察や司法に対して思うこと
私は画像診断医であるが、画像診断医と法医学者とは業務の構造に共通点が多いと個人的に感じている。我々画像診断医は臨床医からの依頼を受けてCTやMRIなどの検査を計画・実施し、その結果を解釈してレポートに記載することを日常業務としている。他方で法医学者は警察などからの依頼を受けて解剖(やAi)検査を計画・実施し、その解釈結果を文書化するのが主な業務であろうと拝察する。こうした共通項の多さも一因と思われるが、特にAiの概念が広く社会に浸透するようになってから、画像診断医から法医学者に転向する方も徐々に増えているようである。また私がかつて在籍していた千葉大学では、死因検索に画像検査を積極的に取り入れるべく、放射線科と法医学教室との間で人事交流が行われている。
画像検査にせよ解剖検査にせよ、依頼元である臨床医からの臨床情報、あるいは警察からの捜査情報がこれらの検査の最終的な性能に大きな影響を及ぼす点も共通している。頭蓋骨骨折を伴わない頭蓋内出血を例とすると、頭蓋内出血それ自体は画像検査でも解剖検査でも検出は可能である。しかし対象者の背景情報が不明の場合、その出血が外傷に起因したものか内因性のものかは時に判断が難しいし、外傷性だと判明したとしてもそれが(他者の責によらない)事故によるのか、あるいは(他者が故意に生じせしめた)犯罪性のある事件によるものなのかは、適切な検案・捜査情報などが入手できない場合には区別が困難となる。
このように共通点の多い画像診断医と法医学者の業務であるが、もちろん違いも多くある。なかでも重要と思われる違いは、検査の依頼主が医療従事者(医師)かそうでない(警察・司法)かである。依頼主が医師であれば、行われる検査の性能(どこまでがその検査で分かって、どこまでが分からないか)についての相互理解がある程度は担保されるが、依頼主が非医療従事者である場合、検査の性能は時に過大評価され「解剖検査さえすれば何でも分かるだろう」といった誤った認識のもとで検査依頼が行われかねない。
先日開催された2026年小児Aiシンポジウムにおいて、登壇された警部のとある発言が気にかかっている。 「警察としては万が一にも犯罪を見逃してはならないので、解剖を依頼せざるを得ない」 この発言は、警察が解剖という検査における犯罪の検出感度や特異度など(=検査の性能)を過大評価していることの証左と考えられる。
先述したとおり、解剖やAiなどの検査単体では犯罪の有無を判断できないことも多く、これらの検査それ自体に「万が一」の犯罪をも検出できる性能はそもそも期待できない。またあらゆる検査における一般的な特性として、見逃しを防ごうとすればするほど(検査の感度を上げれば上げるほど)偽陽性、すなわち犯罪捜査においての「冤罪」が生じる頻度は増加する。警察や司法に代表される非医療者が、医学・医療側からみれば非現実的で過剰な検査感度を要求することが、無実の遺族に対して虐待を疑うという検査の偽陽性=冤罪の発生に繋がり、ひいては小児臓器移植の実現阻害要因となっているのである。
ヒトの死における犯罪の有無を適切に判断するには警察の捜査情報を含めた総合的な死因検索(検査)が必要であり、捜査が不十分なまま解剖やAiを行ったとしても(というより、現存するありとあらゆる科学的・医学的検査手段をもってしても)犯罪の見逃しをゼロにすることは現実には不可能である。少しでも疑わしいものを全て犯罪であると結論付ければ見逃しを限りなくゼロに近づけることは可能であろうが、それは結果として膨大な数の冤罪(偽陽性)を生むことになる。警察・司法はかつてDNA検査などの科学的検査の結果を過信するあまり、数々の冤罪を生んだ過去を忘れてはならない。まずは画像検査(死因検索におけるAi)や解剖などの科学的・医学的検査の性能や特性を警察・司法が正しく理解することが必要であり、その上で個々の状況下での「犯罪の見逃し」と「冤罪」とのバランス(検査感度や特異度のバランス)をどの位置でとるのが現実社会において最適であるのか、医療と司法の相互で議論を深めていく必要があるのではないだろうか。
