第51回
2007年7月2日

医療関連死問題のスペクトラム

自治医科大学
長谷川 剛

『人間の思考に対象的な真理が得られるかどうかという問題は――理論の問題ではなくて、実践的な問題である。実践において、人間は真理を、すなわち、彼の思考の現実性と力、此岸性を証明しなければならない。思考が現実的であるか、それとも非現実的であるか、にかんする論争は――この思考が実践から遊離していると――純粋にスコラ的な問題である』(マルクス「フォイエルバッハテーゼ」)

医療安全推進のためには、対話型・ケア型の裁判外紛争処理制度、事故報告制度と分析・情報還元制度、無過失補償制度、そして再教育制度(継続教育制度)が必要である。劣悪な医療従事者を現場から退場させるという医療の質向上・安全推進は、報告制度や再教育制度と連動させた行政処分として発動すべきものであり、刑事司法はあくまで犯罪行為に限定した運用がなされるべきである。これが私の立場である。全体を見渡す基準点だ。

現在厚生労働省では「診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会」が立ち上げられ議論がなされている。公開された議事録で見る限り委員それぞれの立場を順番に表明させて最後に委員長が既定方針に向けてコメントを出すという構図が見られる。多くの論者はそれぞれの立場で深く考え見識を持って発言している。ここに欠如しているのは全体を見渡すバランス感覚を有した視点だ。一連の問題について全体の布置を明らかにする試みが重要なのだろう。

この検討会で議論されていることは、基準点から見れば「事故報告制度と分析」システムの内容にあたる。情報還元制度までは議論が届いていない。今後は行政責任追求も視野に含めた議論がなされていくだろう。刑事介入を謙抑的にすべきだという臨床医の声もある。

死因究明についての最も簡潔なスペクトラムは発言者の立場である。法医の立場、病理の立場、臨床医の立場、患者家族の立場、法律家の立場、などである。病理の立場では「病理解剖とCPCを主体にするべきだ」と主張し、法医側は「司法解剖と監察医精度を主体にするべき」と主張する。これを見て医療従事者でない立場の者から医療界の中でいろいろあるのですねと冷たい皮肉がこぼれる。「誰が発言しているのか」というのは、重要な視点である。患者家族は真相を知りたいという要望とともに、医療者の誠実な対応を求めている。医療者の主張する死因救命と患者家族の望む誠実な対応が必ずしも等号で結ばれないところに本問題が複雑化する要因がある。誰が発言しているかは問題を見極める重要なポイントだ。

医療関連死を医療行為を受けていた人の死と捉えれば、これは現代日本社会において発生する死の相当な部分を占める。医療という制度は国民社会に網の目のように入り込み私達の生活と不可分となっている。その結果として多くの人が病院で死を迎える。これは広義の医療関連死である。病院死亡が世間を騒がせる場合、そこには家族のふたつの反応がある。ひとつは医療行為の過誤によって死亡したのではないかという疑念、もうひとつは急激な経過での死亡のため死の受容ができないということである。もちろんその内実は低い医療レベルの結果として死に至らしめられたというものもあるだろう。一方最高の水準での医療が為されたにも関わらず死を迎えたということもあるだろう。

医療関連死問題を解決するためには、死因を究明し真実を明らかにすべきだという議論がある。だが解剖すればすべてわかるか?と言えば、そうでないということは、臨床医も解剖を担当する者も周知のところである。つまり限界のある試みなのだ。どちらの方法論が正しいかという議論は不毛である。理論の問題ではなくて、実践の問題なのであって、その到達しえた事実(真理)を、現実性と力によって示さなくてはならない。その事実の此岸性を示さなくてはならない。その立脚点を無視した議論は、実はスコラ的な問題に横滑りしているのだ。

私は立場や名称を超えて利用できるものは貪欲に利用して適切な死因究明が為されることを望むものである。私自身が関係した検体取り違えによる医療事故に際しては、患者が存命中に病理医、法医学者をはじめとする多くの専門家の協力により事実過程を明らかにすることが出来た(1)。その結果として現在法学領域を含めて盛んに議論されている裁判外紛争処理(ADR)として解決が出来た事例を経験している。現在利用可能な技術と知識を用いて多くの関係者との協調の元で事故原因や死因究明が進められることが望ましい。それが現実的に目の前の問題を解決する力となりうることこそが重要なのであって、既得権益や自らの立場を守ろうとするスコラ的な議論には関心が無い。Aiも目の前の現実を解決するために必要であれば利用するしかないのであって、この自明のことにあえて目を閉ざす一群の人々もいれば、Aiを行えば簡単に真実に到達できるという幻想に執着しているものもいる。これは理論の問題ではなくて実践の問題なのだ。理論は必須だが、それだけでは不十分だ。

マルクスはフォイエルバッハテーゼの最後に次のように書きつけた。『哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。肝要なのは、世界を変えることである。』医療関連死の問題は医療安全推進のための部品のひとつに過ぎない。全体を見渡すためにはいくつかのスペクトラムを理解する必要がある。ここでは議論を尽くすことはかなわぬが、医療関連死問題に関する残された重要なスペクトラムは、新たなテクノロジーに対する態度と、当事者の問題解決への実践的姿勢である。

(1)Iwamoto S, Kamesaki T, Kumada M, et al. DNA-based identification resolved suspected misdiagnosis due to contaminated cytological specimens. Legal Medicine 5 (2003) 246-250.